幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

鶴ヶ城本丸御殿の写真

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会津若松鶴ヶ城の古写真の中でも、天守と本丸御殿が写っているものがある。会津若松市教育委員会の所蔵写真で諸書に掲載されているが例えば『保存版 古写真で見る失われた城』(世界文化社、2000)で見ることができる。どの本も同じ画角での掲載なので、教育委員会の所蔵品はその範囲でトリミングされたものなのかもしれない。(下の写真)
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戊辰の戦火をかいくぐりながら明治7年に862円余で払い下げられたあと取り壊された鶴ヶ城の御殿建築を見ることができる貴重な写真である。
城の南東から北西を望み、藩の政庁たる本丸御殿の小書院と大書院が手前に写る。奥に傷ついた天守がそびえる。
全国の城郭古写真の中でも御殿建築が写り込むものはそう数が多くはなく、その意味では建築資料的にも価値がある写真と考える。それ以上に私のような幕末好きには会津藩の政治機構の中心であるこの本丸御殿で同藩の命運が決まっていったかと思うと深い感慨を覚える。

さて、その同じ写真ながら会津若松市教育委員会所蔵のものよりも広い範囲が写る写真を見つけた。沖津旭『武士の華』(素人堂、明治42年)という本に載る写真である。網がかかった印刷で解像度も悪いのが惜しいのだが、いままで知られるものよりだいぶ広い範囲で本丸御殿の建物が写っている。より資料的価値が高い写真だと思う。
右から小書院、大書院、一番左に大広間の一部も写る。天守は御殿建築の奥、像の真ん中に収まる。

龍馬の勝海舟への入門時期について

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坂本龍馬文久2年の秋に勝海舟もとに入門したという通説は、いまでは次のような理解になりつつある。(菊地明『クロニクル坂本龍馬33年』など)

それでいいのだろうか。
 
文久2年12月5日に龍馬と間崎哲馬、近藤昶次郎は越前藩の常盤橋藩邸に松平春嶽を訪ね謁見。春嶽から横井小楠勝海舟を紹介されると、さらには勝への紹介状を貰い受ける。龍馬は4日後の12月9日に門田為之助、近藤昶次郎と共に勝邸を訪問し、同日その門下生となったと。
 
勝の日記の12月9日の条に「此の夜、有志、両三輩来訪。形勢の議論あり」と記されていることを重視して、両三輩のうちの一人を龍馬だと比定することからうまれる推論である。この説を唱える人は2日後の海舟日記に「当夜、門生門田為之助、近藤昶次郎来る。興国の愚意を談ず」と記される門田と近藤を、2日前に龍馬と共に勝の門人になった二人と考える。
 
松浦玲の『坂本龍馬』(岩波新書)は龍馬は12月9日以前には既に勝のもとに入門していただろうとする。松浦は勝の日記に龍馬の名前のがないことはたまたま書いてもらえなかっただけであると考える。「記録者としては極端に御粗末」(松浦)な勝海舟が書く日記。勝の日記と格闘してきた松浦ならでは割り切り方である。いや、単なる割り切りではない。多年の海舟研究にもとづく卓識だろう。
 
12月11日に勝の日記にいきなり名前が登場する門田為之助と近藤昶次郎が既に「門生」と書かれるのだ。しかし初出以前に門下生でなかったわけではあるまい。
近藤昶次郎に関しては文久元年には勝門下になっていたという河田小龍の回想もある。
勝の日記に名前が出ない(書かれない)門下生などはざらにいたであろう。
勝の日記をつかって龍馬の入門時期を考察することは、もとより限界があることなのだ。
 
私は龍馬の入門時期に関する種々の考察にある記録が用いられない事を残念に思っている。その記録とは「木原適處履歴」のことだ。
 
木原秀三郎は芸州出身の志士。池田徳太郎、小林柔吉とともに芸州草莽三士とされる。のちに芸州藩につかえ神機隊の創設者となる。
木原は庄屋の子として生まれたが、西洋式兵術を志して長崎へ行き名村八右衛門の塾に入る。同塾で師範代をつとめていた掛川藩の甲賀郡之丞(甲賀源吾の長兄)に見出され甲賀の帰国にお供して掛川甲賀の助手の務めた。安政5年に甲賀のすすめで江戸に出て勝海舟を訪ね入門。海軍術を学ぶこととなった。以来文久2年12月までの4年半にわたって勝塾で研鑽を積んだ。
 
木原は明治30年に旧藩主浅野長勲伯爵の要請により自らの履歴「木原適處履歴一・二号」を提出する。木原の幕末における活動歴を知ることができる記録だ。
 
もっとも私はこの「木原適處履歴」を読みたいと願いつつも、それを果たせずにいる。木原の伝記である武田正規『木原適處と神機隊の人びと』(非売品、昭和61年)という本を読み、その本の材料となった「木原適處履歴」の存在を知っただけである。『木原適處と神機隊の人びと』の本文および巻末の木原適處年譜は「木原適處履歴」に拠って書かれているが、原史料そのものには私は当たっていないので以下に書く事もあくまでも武田正規の著書に依拠している点をあらかじめ言っておきたい。ただ木原の伝記はそれでも十分に使える良い本だとは思う。
 
勝海舟のもとに長く居た木原の記録「木原適處履歴」に拠って書かれた『木原適處と神機隊の人びと』によれば、木原の勝塾での同窓には、大石彌太郎、田所壽太郎、門田為之介などの土佐人。長州の土屋平四郎。越前丸岡藩の浅見真蔵。弘前藩の岡鼎、庄内藩佐藤与三郎(与之助のことか)以下5名。桑名藩2名。幕臣3、4名が学んでいたという。
塾生は常に土佐・長州と庄内・桑名の二派に分かれて勤王と佐幕を論じ、攘夷と開港論を戦わせることもあったというが、それでも塾生たちは遠慮のない交遊を続けていたという。
ここでは土佐の門田為之助が既に勝の門人であることに注目されたい。
 
木原は塾の同窓を通じて塾外にも多くの知友を得ていた。それらの人はたとえば土佐の間崎哲馬坂本龍馬、中岡光治(慎太郎)、浜田守之丞、上田楠次。長州では時山直八、桂小五郎村田蔵六。薩摩は岩下佐次右衛門。肥後の大野鉄兵衛らだったという。
 
そして龍馬に関しては、文久2年10月の初めごろに勝塾に入門した後輩であり、間崎哲馬を通じてそれ以前から龍馬を知ってはいたが、龍馬の入塾後は特に意気投合したという。木原が12月5日に4年半に及ぶ修行を終え霞ヶ関の芸州藩邸の応接所に住み込むことになった際には、龍馬は餞別として左行秀の長さ二尺九寸、重ね三分、無反で朱鞘仕込みの大刀を木原に贈った。
勝の日記の12月9日に書かれるの時点では龍馬はとうに勝の門下生であったことがこれで分かる。龍馬の12月入門説はいかにも遅すぎるのだ。
 
僭越なお願いであるが、龍馬研究者はどうか「木原適處履歴」に当たっていただきたい。龍馬の履歴に益する事はもちろん、木原の多彩な人脈から幕末史に活躍する人物相関図を描くことができるはずだ。
 
ちなみに、木原は文久3年5月大坂で龍馬に再会し、龍馬から自分と共に行動するよう要請されている。
龍馬は以下のように木原に語りかけた。
「足下ヨ、互ニ主人ニ繋リ居テハ自由ガ出来ヌ、吾輩ハ仮リニ遊学生ノ名目丈ケアリテ足下トハ自由ガ届ク也。足下ノ如クベッタリト禄ニ繫ガレテハ却テ事ヲ遂グルニ不便ヲ生ズレバ約ソ主君ノ為ニモ不相成。足下宜シク其事情ヲ申シ立テ禄ヲ辞シ、浪人ト迄ハ至リ難クモ責テ三年間暇ヲ貰フ様ニ可被到、其以上ハ充分国事ニ尽力有ル可シ也。」
 
藩務に負われる木原は龍馬と行動をすることはなかったが、さらに後の慶応3年9月に龍馬がオランダ商人ハットマンから購入したライフル銃を積載して長崎を出港、土佐に向かった龍馬最後の航海に使った船は芸州藩船の震天丸であり、その貸与に奔走したのは芸藩の海軍方にいた木原であった。

佐賀藩士 亀川新八

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佐賀藩三重津海軍所が設置されるなど薩摩と並ぶ海軍藩として知られる。そんな佐賀出身でありながら陸軍に進み佐賀人初の陸軍大将になったのが宇都宮太郎である。
 
宇都宮太郎は文久元年に佐賀藩士亀川新八貞一の長男として生まれた。父の死による御家断絶により従兄の宇都宮泰玄の籍に入り以後、宇都宮姓を名乗った。
その後親族をたよって上京、攻玉社に入塾。海軍兵学校への予備校だった攻玉社に学びながら進路を陸軍に変更し、陸軍士官学校を志望、歩兵科を首席で卒業した。陸軍大学校も優等で卒業。以降、歩兵第一連隊長、参謀本部第二部長、第七師団長、朝鮮軍司令官、軍事参議官と、軍人エリートの道を邁進した。
 
宇都宮の立身出世の過程は書き残されたその日記に物語られる。日記は『日本陸軍とアジア政策ー陸軍大将宇都宮太郎日記ー』全3巻(岩波書店、平成19)として刊行されている。
 
宇都宮は日記の中で繰り返し父の死によって一家が没落し家族離散の憂き目にあったことを書く。
 
「父上御他界一家分散してより血涙」
 
「先考の御逝去の前後一家没落、宅地家屋を失い母子兄弟離散せし」
 
「四十年前に田布施の地所家屋を失ひたる御両親始め御痛恨」
 
宇都宮の立身はひとえに没落した亀川家の再興を実現するためであり、それが心の支えとなっていた。
 
「余は宇都宮は一時の仮にして余が本姓にあらず、其内宇都宮の籍をぬき復姓の積なり」
 
「余は偶然の事より宇都宮姓を冒し居れども本姓は亀川氏なり。他日機を見て複姓の積なり」
 
宇都宮太郎の息子で元衆参両院議員だった宇都宮徳馬の著書(『日中関係の現実』普通社、昭和38年)によれば、太郎の父親の亀川新八は長崎でオランダ技術を学び、藩主の信任を得て造兵廠長のような役に就いたが、同藩のライバル佐野常民の陥穽に堕ちて明治3年10月23日に切腹し、御家断絶となったという。
 
亀川新八の名前は佐賀藩長崎海軍伝習所に派遣した藩士48人の中に見つけることができる。切米25石の小身であったが学才を認められて選抜されたのだろう。海軍伝習所での履修科目がなんであったかは不明である。
さらに佐賀藩の科学技術事業の頭脳部だった精煉方に勤務し、佐野常民、小出千之助、中村奇輔、田中近江・儀右衛門、石黒寛次などと共に火術に必要な原材料の試験研究、化学工芸の研究と薬品や器械の製造を行った。(『佐賀県教育史 第4巻』)
明治3年に謎の切腹を遂げるが、具体的な事情については知りえない。
ただ、亀川新八を切腹に至らしめた人物について子孫に伝わるところでは精煉方で仕事を共にした佐野常民としていることが大変気になる。どのようなトラブルが亀川に起こったのだろうか。
 
宇都宮は日記の大正4年7月22日の条に亡父の簡単な履歴を記している。
 
「余は本姓は亀川氏にして佐賀鍋島藩士亀川新八貞一主の長男にして、母上は同藩士堤喜六董真主の妹多智子の刀自なり。先考は、禄は二十五石にて小身なりしも、深く閑叟公の知遇を受けられ、其御側役にて精錬所の役頭を勤められ、今日にて申せば後の工部卿の如きものにて、当時日本の門戸たりし長崎に学び、同地を経て輸入する欧州文明の知識を先づ藩政の上に実現し、世間は未だ鉄道の「て」の字さへも聞知せざる明治元年前后に於て、既に佐賀、伊万里鉄道を計画せられたりとは、後年母上より数々承はりし所なり。写真等も自らも之を能くせられ、既に牛肉を食用せしことは、余が記憶にも尚ほ存す。想に一藩先覚の士たりしや明なり。又た楠公桜井駅の軸を展べ、懇々訓誨せられたることあり。今尚記憶に新なり。蓋し勤王の志の深かりしを想見すべきなり。」
 
亀川新八の墓は佐賀県神埼市天台宗の仁比山地蔵院にあるようだ。大正7年8月7日宇都宮は「一台の自動車を賃し、夫婦子女八人の外に栄も同乗、運転手十人の大一座にて」片道2時間をかけて両親の墓を訪っている。
「斯く大勢の子孫を御覧ぜられたる御両親の御感慨や如何。暫し無言にて黙拝せり」
 

 

亀川新八の肖像は『佐賀藩海軍史』(知新会、大正6年)の口絵に掲載されているものがあるが、その口絵とまるきり同じカットの亀川の肖像写真を得た。台紙の裏書きによれば「昭和八年十二月上旬 宇都宮叔父上様より御母上に献じられしもの」とある。『佐賀藩海軍史』出版の時点でこの複写の肖像写真しか残っていなかったのだと思われる。自ら写真も行なっていたという亀川だけに元になったオリジナルの写真がどのようなものであったかが気になる。

小栗上野介を恐れた大村益次郎のあの話は本当か

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鳥羽伏見での敗れ江戸に逃げ帰った慶喜に対して、小栗上野介は徹底抗戦を主張したという。

小栗には策があり、それは「新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、そこに幕府海軍を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する」というもので、後にこの策を聞いた大村益次郎は「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と大変恐れたという。
土方久元の伝記『土方伯』(大正2年)に出てくる話だが、この話は本当なのだろうか。
どうやら本当だとする回想があるので紹介しよう。
 
昭和4年に新潟県長岡の地方紙『北越新報』に城泉太郎の回想録「紅秋随筆録」が連載される。初期慶応義塾の雰囲気を伝える面白い回想だが、そこに下記のやうな記述がある。(私はこれを『福沢手帖』第93号(福沢諭吉協会、平成9年)に転載されたもので知った)
小栗上野介を「尊信」するガチガチな佐幕主義者としての福沢諭吉の姿と、大村益次郎が小栗の迎撃作戦をどうやら本当に恐れたらしいことが語られている。
 

「福沢先生と長岡人

当年の塾は、全国各藩中一粒選りに撰び抜いた人才のあつまりで、また一方よりこれを見れば、義塾の福沢の家族同様であった。先生は、自分の実子の如く塾生を可愛がったが、長岡人は特別に寵愛された。これには色々事情もあらうが、重なる原因は官軍と戦ったからだ。先生は元来佐幕主義で、小栗上野守を尊信し、小栗が仏帝ナポレオンに交渉し、軍艦と軍用金をフランスから借りて官軍をたたきつぶすといふ策戦計画には福沢も双手を挙げて賛成だ。併し独仏交渉が追々切迫し、遂にナポレオンは日本を助けることが出来ず、誠に残念至極であった。長州の大村益次郎氏が維新後、人に語っていふに、小栗は実に偉い人物だ。小栗の計画通り事がはこんだら官軍は全滅したのだと。流石の大村もふるひあがったといふことだ。義塾に沢山の薩長人が入塾してをり、小生は彼等と同室に起臥し、小栗に対する大村の評言をしばしば彼等から聴聞したことがある。福沢先生も亦小栗同様の意見書を御三家中で最も有力なる紀州和歌山藩の全権執政官某に呈した。その証拠は今に残存してゐるやうだが、茲に明言すべき限りでない。かかる次第で、先生は当時暗殺されそうの危険がしばしばあった許りでなく、政府が先生を捕縛しそうのこともあった。そこで先生は、いよいよ米国へ遁逃しやうと決心し、その洋行費を日本橋石町の堀越へ取りに遣った事もある。その時の使者は、小幡篤次郎、中上川彦次郎外一名、都合三人であったが、当年千両箱は一つでも中々重び故に、三人して受取に行ったのだ。併しその時は洋行せずに済んだ。」
 
(写真は明治3年6月12日 慶応義塾入塾直後の城泉太郎)

お龍がもっていた龍馬の写真

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明治三十二年十一月『土陽新聞』に「千里の駒後日譚拾遺」と題して連載された川田雪山(瑞穂)によるお龍への聞書があるのはご存じの方も多いだろう。当時お龍が所蔵していた坂本龍馬の肖像写真に関する証言が含まれる。

その部分を抜き出してみよう。

 

◎龍馬の書いたものも日記やら短冊やらボツ/\ありましたが、日記は寺田屋のお登勢が持つて行くし、短冊は菅野が取て行きましたので、私の手元には此の写真(襄の譚に云へる民友社の挿絵に似たるもの是也)一枚だけしか有りませむ。それから一ツ懸軸がありました。コレは龍馬が死ぬる少し前に越前へ行つて三岡八郎由利公正さんに面会した時呉れたのださうで、私は大事にして持て居りましたが何時か妹が取て行つたなり返してくれませぬ。私は此の写真を仏と思つて毎日拝んで居るのです。と語り来つて感慨に堪えざるものゝ如く凝乎と手中の写真を見詰るので、傍の見る目も気の毒となつて、ソツと顔をそむけると床の間には香の煙りのゆら/\と心細くも立昇るので僕は覚えずも、人間勿読書子、到処不感涙多、の嘆を発するを禁じ得なかつた。

 

お龍の証言によるとこの写真は、明治29年に民友社から出た弘松宜枝著『阪本龍馬』の巻頭に掲載されている肖像画に似たものだという。そこから考えると龍馬の肖像写真の中でも「丸腰の座像写真」(『英傑たちの肖像写真』渡辺出版、2010)と呼ばれるものがそれにあたることになる。

龍馬の遺族に残されたこの写真はおそらくオリジナルプリントだったか、複写にしても限りなくオリジナルに近い状態のものだったのではないかと考えられる。お龍が持っていたという価値を考えれば、今日その写真がもし残存していたらすこぶる貴重なものとなるだろう。

 

先日、ある本を読んでいたらこのお龍所蔵の写真に関して興味深いことが書いてあった。三浦叶『明治の碩學』(汲古書院、平成15)という本なのだが、漢学者の著者三浦叶は川田雪山の早稲田大学での教え子にあたる。この本の中で三浦は旧師川田雪山に対して愛惜に満ちた回想を残しているのだが、その一節に川田雪山がお龍から龍馬の肖像写真を複写させて貰い、以後それを非常に愛蔵していた姿が語られていた。

 

 龍馬は幕末薩長の連合をなしとげ、明治維新の大業を導いた土佐の偉人である。雪山先生も土佐人であるから少くして已に敬慕の情があったのであろう。それが後に明治維新の史料編纂官として、その最期の史實を調査されたのであるから、龍馬を敬慕するの情たるや大變なものであった。屢々龍馬の未亡人お龍さんを訪ねて色々の話を聞いている。殊に明治三十年にお龍さんから頂いた龍馬の寫佩(半身像)は大切にしていつも身にもっておられ、今次の日米戦争の空襲で西大久保のお家が焼かれ火中を遁れる際にも、この寫眞は肌身につけて離されなかったという。

 この寫眞の裏には次ぎの如く之を贈られた経緯が書かれてある。

   龍馬像

   嗚呼。是坂本龍馬先生之像也。先生未亡人楢崎氏。今在湘州。予屢往訪。一日

   探小照於筐底。戚然謂予日。是亡夫在長崎日所撮之眞影也。予太懇々焉。未亡 

         人察予意。屬者複寫以見附。不禁感佩。吝裏面記其厚意。明治庚子正月初五

                                  川田瑞穂

 又先生の宅にはお龍さんが歌を書いたものを屏風に張ってあったが、この屏風は空襲で焼けてしまった。しかし幸い先生の未亡人豊子さんがその歌を記憶されていた。それは次の如き歌であった。

   舊詠呈川田氏

   思ひきや宇治の川瀬の末つひに君と伏見の月を見んとは

 

川田雪山がお龍から複写させて貰った龍馬の写真。戦火をかいくぐって現存しているならば是非見てみたいものだ。

お龍を慰め続けた写真の中の龍馬の表情を知りたい。

 

大久保一蔵の小便で顔を洗え!

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北埼玉郡長などを勤めた林有章の喜寿を記念して発刊された『幽嶂閑話』(非売品、昭和10)は林の自叙および回顧録であるとともに熊谷の郷土史誌として優れた一冊である。昭和55年には国書刊行会から『熊谷史話』と改題して復刻されている。

 
明治10年、旧島原藩士の漢学者大竹政正は熊谷に招聘され変則中学として設立された折遆学社で教鞭をとることになった。
大竹に学んだ林は自らの回想記に大竹政正に関する項をたててその人物像を伝えている。
 
大竹政正は幕末に島原藩の公用方として慶応期に京都にあって幕末の動乱を経験した人である。
大竹がある集会で薩摩藩の大久保一蔵と席を同じくした時のこと。議論は白熱してついには激論となってしまった。独断場の大久保は大竹や居並ぶ諸藩の公用人に次のような暴言を吐いという。
 
「今から俺がその丼に小便をするから、お前ら、それに顔をつけてを目を覚ませ!」
 
大久保利通の面目躍如という感じのエピソードである。暴言を吐かれた大竹政正は怒り心頭となった。
 

「慶応年間国事漸く多端ならんとするや、各藩の俊秀は概ね輦轂の下に集まつた、其頃先生も亦藩命に依て公用人となり、京師に駐まり日夕各藩の公用人と折衝して居られた或る時、各藩公用人集会の席上、薩藩の公用人大久保市蔵(後の内務卿大久保利通公)と激論を闘はしたが、大久保は「諸君の如き時勢を見るの明なき者は今我輩が此丼に放尿するからそれを附けて目を覚し玉へ」と豪語した、これを聞いた一同の者は非常に憤慨し、若し彼大久保が果して放尿ひたならば、一刀の下に斬り捨てやうと約した、そして其斬り手を引受けられたと云ふが、然し大久保も結局そんな粗暴な事もしなかつたので無事に治まつた。」

 
大竹政正。号を青山。島原藩の人。文武師範役の家に生れ、初め権太夫と称し後勝太郎と改め魁菴とも青山とも号した。少時藩校の稽古館に学び嘉永四年から安政二年まで江戸にあり古賀謹堂に学ぶ。安政四年長崎に出て砲術練習の命を受く。幕府の訳官名村貞五郎に従い蘭学を修め文久元年までそこにとどまった。当時の同窓に福沢諭吉、福地源一郎、細川潤次郎らがいた。
慶応年間、藩の公用人として京都に駐まり諸藩士との折衝の役を務めた。
維新後は熊谷の折遆学社で教鞭をとり、のち熊谷公立中学校長となる。
明治16年54歳で熊谷にて歿す。熊谷寺に埋葬された。
 

三宅友信

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三宅友信の肖像写真を絵葉書にしたものを入手した。

明治2年の撮影の肖像だという。敷物は初めて見るもので、セットから写真師が誰かを類推することができない。

 

三宅友信
「名は鋼蔵、毅齋と号す。三河国田原藩主十一代康友侯の第四子にして封を受くべくして襲がず、早くより時勢のおもむくところを達観し蘭学を究め泰西事情に精通す。幕末の田原藩が我が国外交史上に燦然たる光を放つに至りしは信友侯の力あづかりて大なりしなり。けだし侯の如き維新大成の隠れたる功労者と云ふべし。明治十九年八月八日江戸巣鴨の藩邸に薨ず。歳八十一、東京雑司ケ谷真要山本浄寺に葬り芳春院殿毅翁大居士と諡す。」
(『三宅信友侯 鈴木春山 遺芳絵葉書』より)
 
絵葉書の袋に書かれている上記の伝は簡略に過ぎようか。
三宅友信は渡辺崋山伝中の重要人物として知られるだろう。
 
友信は田原藩(三宅家)第八代藩主康友の四男として生まれ、九代康和・十代康明は異母兄にあたる。
兄康明が文政10年に亡くなると、後継問題が噴出。血統の友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しいことから、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直)が養子として迎えられ、友信は病弱を理由に跡継ぎとして排された。
翌年、友信は前藩主扱いの隠居格とされ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、隠居していた巣鴨田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていたという。高野長英・小関三英らに蘭書の翻訳を行わせた。
安政3年には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。
維新後は田原に居住し、明治14年には、『華山先生略伝補』(重要文化財)を著す。晩年は東京巣鴨にまた移り、明治19年逝去。東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。
没後50年の昭和10年に従四位を贈られる。

 

著書に『括襄録』、『桂蔭鎖語』、三河国志』、『芳春園寓筆』、『崋山先生略伝補』。訳書に『鈐林必携』、『西洋人検夫児日本誌訳』、『泰西兵鑑初編』(安政3年刊)、『泰西兵鑑二編』などがある。

 

若き日の馬場辰猪

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長崎でフルベッキに学んでいたころの若き馬場辰猪。左から二人目だ。

上野彦馬の写場。馬場は土佐人だから撮影したのは井上俊三かな。

 

 

『明治名著集』〈太陽, 臨時増刊第13巻第9号〉(博文館, 明治40年) の口絵写真。この写真だけが目当てで買ってしまった。

勝海舟写真についての新聞記事

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以前古本屋で買った楫東正彦『海舟言行録』(光融社、明治40)という本に新聞の切り抜きが貼り付けてあるのに気が付いた。裏面は「ローマ五輪日本はどこまでやれるか」という記事になっているので、その時代(1960年くらい)の新聞記事なのだろう。

 

 

石黒コレクションの中でも逸品中の逸品、あの勝海舟の肖像写真。

 

海舟からお久さんこと梶クマに贈られ、死後はその姪に、さらに姪の家から石黒敬七のものになった経緯がわかる。

沖田総司と滝沢馬琴をつなぐ一族

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釣洋一先生のご研究によって、いま私たちは「滝沢馬琴沖田総司は親戚」という歴史の不思議な縁を知ることができる。このことは新選組に少なからず興味をもつ私などにとっては大いなるよろこびだ。   

 

先年、その滝沢馬琴沖田総司を系図上につなぐ一族、真中家の墓を埼玉県加須市川口の曹洞宗西蓮寺に訪ねてみた。   

 

真中家は遠祖を源頼政の家臣 猪隼太資直にもつ家で、大内蔵堅光という人のときに川口村に移住して真中を名乗り、かの地の名主となった。   

 

真中家六代は仁蔵(全直)という人物で、写真はその墓石である。「岩松院全哲直峯居士」と刻されている。寛保3年69歳にて没。   

 

この仁蔵の二男が興吉で滝沢家に養子に行った。その孫にあたるのが滝沢馬琴である。  

 

 仁蔵の六男で中野家に養子にいったのが、中野伝兵衛宗元。このひとの曾孫 中野伝之丞由秀(越後三根山藩士)に嫁いだのが、沖田総司の次姉キンである。   

 

せっかくなので仁蔵の他の子供のことも書いておくと、長男は理左衛門(恒直)といい、江戸に出て代官の手代になり、所々任地に赴いていた。嫡男でありながら郷里に帰ることなく越後で客死してしまう。   

 

私が興味をもったのが八男の隼太(親則)という人だ。 

少年のころ囲炉裏に落ちて顔に火傷を負い容貌奇怪であった。そのために他家へ養子に出ることもなく、長兄が他郷にあることもあって隼太が家事を執って真中家をよく守った。質素倹約に努めて財をつくり、傾きかけていた家勢を回復したのはこの人の功であったという。 

父仁蔵の死後は長兄の理左衛門が客死したこともあって、家督を継ぐのは自分であろう思っていた。しかし理左衛門の子祐蔵が帰郷して、正嫡であることをもって家督を主張したため、泥沼の争いとなり、ついに訴訟になってしまった。係争中に祐蔵は死去したが、祐蔵の弟林蔵が再度隼太を訴えて、天明3年、ついに隼太の敗訴となってしまい、咎めを受けた隼太は川口村を追放されて江戸に去った。 

隼太の長男が真中幸次郎で、神道無念流の剣客である。その幸次郎の娘というのが中野家に嫁いでいたことがあったのだが、離縁となっている。離縁にならなければ、総司の姉キンのお姑さんになっていた筈だ。 

 

真中幸次郎は本所石原の碩運寺に葬られたというが墓は現存していない。   

 

 

加須の真中家は12代までは同所にあったが、第一回衆議院選挙に当選した13代真中忠直のときに東京に移った。真中家13代以降の墓は小石川の深光寺にあるそうだ。