幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

熊谷勤吾

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日田にあった西国筋郡代。幕末最後の郡代を勤めたのが窪田治部右衛門鎮勝であった。元治元年から慶応4年の肥後落(郡代の逃亡)までの5年間にわたり九州の幕府領を統治してきた。私は窪田治部右衛門のことは幕臣の中でも存在感のある注目すべき人物だと思っている。しかし今回はその窪田のことではなく、日田御役所の御側小姓役として窪田郡代の身近に仕えていた熊谷勤吾という人をこのウェブログ中のタグ「幕末のイケメン」を付けて紹介したい。


熊谷勤吾は弘化4年の生まれ。18歳頃に日田の陣屋勤めをはじめた。窪田が行くところ何処にでも随行して秘書兼警護役を勤めた。窪田にお供して長崎行や小倉戦争にも出陣している。長崎行の際には川路聖謨にも会っており、記念に川路から扇面に揮毫を貰ったことがあるそうだ(いつのことだろう?本当だろうか?)。川路のことを痩せ柄の髪の毛の薄く目の鋭い老人だったと回想している。
慶応4年の郡代の肥後落にも随行。
維新後は戸長や大波羅神社の祠官を長年勤めるかたわら歌道に精進し昭和7年85歳で没した。

25歳頃の凛々しい写真が残っている。明治5年ごろ、この人が日田で最初に断髪したそうで、それを記念して撮ってもらった写真だそうだ。日田では森山国蔵という写真師が当時開業しており、あるいは森山が撮影したものかもしれない。
勤吾が断髪したとき彼の弟は兄の姿を見て驚きサメザメ泣いたという。
 

「意志薄弱」「頼みにならぬ」伊庭八郎の語る榎本武揚

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本山荻舟の随筆集の『板前随筆』(岡倉書房、昭和10年)の中に、伊庭八郎の榎本武揚に対する人物評が紹介されている。八郎の弟伊庭想太郎の記憶する兄の言葉だ。興味深い榎本評なので紹介しよう。

 

≪ 榎本武揚といへば、後に朝臣となって栄達したので、旧幕臣の一部には、あまりよくいはれなかったやうで、かの星亨を刺した伊庭想太郎の如きも、
「子供の時分なくなった兄から、榎本といふ人は、意志が薄弱だから、最後まで頼みにはならぬと聞かされたが、やはり兄は先見の明かあった」といったといふ。
 それは榎本子の創設した、小石川の東京農學校に、校長としてゐた想太郎が、學校の経営難に陥ると同時に、榎本子から突つ放されたとて、つくづく述懐したといふので、想太郎の亡兄といふのは、五稜郭で戦死した伊庭八郎だ。
 箱根の開門によって、征東軍を食止めやうとした八郎が、戦ひ敗れて榎本の艦隊に投じ、東北へ脱走することになった時、幼弟の想太郎に向って、大将の榎本がそんな人だから、到底この戦ひは、最後まで遂げられやうとは思はぬけれど、自分はただ死場所をもとめに行くのだといひ残し、悲壮な覚悟で出発したのを、子供心にもおぼえてゐたといふのだが、八郎の最期まで仕へてゐた従卒の坂田鎌吉なども、こんなことを聞いてゐたと見えて、後年まで榎本子の顔さへ見ると、
 「榎本さん、本統にあなたは利口な方だ、ますます御出世でお目出度い」などと、いやみ交りに皮肉るのには、さすがの榎本子も弱ってゐたやうだと、これは小笠原長生子から聞いた話だ。

 しかし、そんなことは兎も角も、一行が函館に落ついて、新たに文武の職制を定める時には、合衆國の例にならひ、すべて公選によらうといふので、士官以上に投票させた結果、總裁に榎本釜次郎、副總裁に松平太郎が当選したといふのだから、衆望の帰してゐたことは確かで、当時としてはもっとも新しい、頭の持主であったことも想像される。

 士官以上といふのだから、制限選挙にはちがひないけれど、兎も角も日本における選挙制度、自治制度のはじまりは、おそらくこの辺であったらうと思はれる。≫

鵜殿鳩翁の「浪士姓名簿」

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東京は上野に明治10年から続く老舗古書店 文行堂の戦前昭和13年9月発行の目録第17号に「浪士姓名簿」が出品され当時35円で売られた。(ちなみに同目録に高橋是清の自筆演説草稿も載るがそちらは30円。公務員の初任給は75円くらいだったそうだ)

目録には背開きに同文書の表紙と裏表紙が写真版で載っている。
表紙には「浪士姓名簿」、裏表紙に「御取締役 鵜殿鳩翁」の署名がある。
文久3年の浪士組の徴募に応じた浪士たちの身上調書を取りまとめた名簿と考えられる。浪士組参加者の姓名、住まい、家族構成が記載されている。
浪士取締りに任じられた鵜殿鳩翁が所持し、実際の浪士組の人選や確定等に利用された大変重要な文書だろう。文行堂の目録では近藤勇の頁だけ翻刻されている。それから類推するに情報量の面からいっていまに残る各種の上京浪士組の姓名録をはるかに上回る内容が記されていただろう。
林栄太郎は「試衛館所在地の考察」(『新選組隊士遺聞』新人物往来社、昭和48)の中でこの「浪士姓名簿」を紹介し、「幻の浪士姓名簿」と名付けている。この「浪士姓名簿」は寺島栄一という人が入手を試みて文行堂に注文したのだが、時すでに遅し、すでに他人の手に渡ってしまっていた。文行堂からこの名簿を買った人物もその後の所在ももはや知ることができなくなっている。幻たる所以だ。
この「浪士姓名簿」がもし残っていて、その内容を確認することができたのなら、今日新選組に関するいくつかの疑問点がたちどころに判明するかもしれない。山南敬助や、いまホットな話題の芹沢鴨、平間重助等の出自の解明にどんなに益になったであろうか。
昭和13年、いったい誰がこの「浪士姓名簿」を入手したのだろう。そしてこの文書は戦争を経て失われてしまったのだろうか。たとえ原本は存在しなくてもせめて写本は残っていないのだろうか。
いつの日にかこの「浪士姓名簿」がどんな形であれ再発見されてほしい。切に願う。
 

藤堂平助の妹

新選組藤堂平助の実家と考えられる5000石の旗本藤堂家のことに関してはこのウェブログでとりとめもなく書いているが、いま少し書き加えるべきことが出来たため、いささかくどくはあるがこの話題を続けたい。

 

旗本藤堂家の采地は江戸近郊では武州の七ヶ村にあった。そのうちの草高の最大だった上会下村に注目して藤堂家の痕跡を探していたのだが、上会下村よりも、阿良川村の方に支配関係の文書がよく残されており、それらは『加須市史 続資料編』(加須市、昭和61年)に翻刻もされていることに今更ながら気がついた。阿良川村の名主だった赤坂家に伝来する文書である。

赤坂家は藤堂家が知行していた足立・埼玉両郡七ヶ村の割元名主であり、かつ藤堂家に士分格として取り立てられていたため、領主支配に関する文書が残ったのだ。

 

加須市史 続資料編』に載る「慶応4・1 江戸表大乱に付地頭所逗留日記」(以下は地頭所逗留日記と略記する。地頭所逗留日記は慶応4年に江戸の混乱を避けて支配地の阿良川村他に逗留した藤堂家の奥方や家臣たちに関する記録)という史料によって、先ずは以前の投稿の内容を訂正したい。

 

「藤堂秉之丞の系譜と家紋」という先の記事の中で、明治元年に藤堂家の当主だった亀久雄は藤堂良連(秉之丞、平助の父親と推定)の次代の人と比定したのだが、これは間違っていた。文久2年時に56歳だった良連(秉之丞)が明治初年時の当主の名前である亀久雄という人に跡を継がせたのだろうと単純に考えたのたが、良連(秉之丞)と亀久雄は同一人物であった。明治2年8月に良連(秉之丞)を亀久雄と改名していた。良連(秉之丞)と亀久雄とで二代に別けていた系譜は一代に訂正されなければならない。

地頭所逗留日記に「御屋敷殿様御儀去月廿三日御参代被遊改名 亀久雄様と相成」とある。

 

維新を経て老境といっていい年齢まで良連(秉之丞)が当主の座に居座っていたのは何故なのだろう。それは相続すべき世子(「若殿」)が病身であっために容易に跡を継がせることができなかったためのようだ。慶応4年8月に朝臣化を済ませて本領を安堵された藤堂家は、跡取り問題に悩まされる。明治2年8月、病身の「若殿」を廃して津藩の藤堂和泉守家より養子を貰おうという話が沸き起こった。

「兼而御屋敷様御相続若殿御病身ニ付無拠御前御始メ御家中向不残連印を以出願藤堂和泉守様より御養子二受申度趣八月三日願書差出候由」

この養子を得ることが良連(秉之丞)を改名に導いた直接的理由だろう。跡取りの目処がついたことで改名したと考えられる。

明治3年5月、津藩藤堂家からの養子が迎えられた。名を泰橘といった。「大藤堂様より御養子君御乗込被為遊候」「御養子御名泰橘様与申出ル」

 

同年、勝手向きが苦しくなったため湯島の屋敷を九鬼家に売却し、9月19日に下谷長者町に引き移っている。

 

ここで、いますこし時間を遡ってみる。

地頭所逗留日記は慶応4年に江戸の混乱を回避して支配地に疎開する藤堂家の姿を活写する。

慶応4年3月、藤堂良連(秉之丞)の奥方はじめ家族、家臣とその妻たちは知行所に立ち退く。2艘の船を貸し切り3月15日に昌平橋から乗船し王子をへて荒川の高尾河岸(北本市)に17日到着。そこから上常光村の名主の河野家に迎えられた。同村の玉泉寺の客殿を仮住居とさだめて、秉之丞の奥方、妹の於梅、7歳の娘の於久ほか、祖父駒五郎の「召仕」(妾か)松寿、父主馬の「召仕」瀬山や女中なとが疎開した。先日私が訪ねてみた上会下村の雲祥寺には御西様(側室か?あるいは西の丸=世子の意で病弱だった長男か?)と、次男季之丞、部屋住みの御子様と家臣たちが疎開した。その外の支配地の寺院にも家臣とその家族が疎開している。

 

良連(秉之丞)の子供として、7歳の娘の於久、次男の季之丞、部屋住みの御子様(「御部屋御子様」)の存在を地頭所逗留日記から確認できる。それに病身のために明治3年に廃嫡された若殿の存在を加えるならば、いわばそれらの人々は藤堂平助の兄弟姉妹であったわけだ。

 

明治20年、埼玉県の志多見村連合戸長役場は阿良川村の旧領主藤堂氏に同氏所有の家譜、古文書などの調査依頼した。地誌編纂のためだった。この依頼に対して維新の際に藤堂家の当主だった亀久雄はすでに亡くなっており代わりに娘の寿子が返書を出して問い合わせに答えている。寿子とは慶応4年7歳で疎開した於久のことだらう。

曰く、藤堂家は亀久雄の死後、生活が困窮。転居を繰り返して家財を失い、いまでは貸家で雨露をしのぐようなありさままでに零落し、家譜、文書のたぐいもなくなってしまっている。近頃は大いに老衰し毎日の生活に差し障りもでており、調査に答えることができない。病気で返事をするのも遅くなってしまったと。

 

原文を『加須市史 続資料編』より抜き出してみる。

 

「明治20・5藤堂寿子書状」

先般地誌案内之儀通知有之候得共、病気二テ打臥居候故御返答不致処、今回亦ゝ郵書有之候得共当主死去、已来種困難打続キ生活難相立聊目途ヲ相立候得共相違等多ク、其都度八方へ転居致シ家財等モ相失ヒ、当今ニ至テハ家借致居雨露ヲ凌ク迄二テ家譜書類等更二無之、近頃大ニ老衰二及ヒ唯今日之生活ニ差支、天ノミ心配致居心覚等も無之取調候儀不相成候間、左様御承知可被下候、過日之書状二テ回答可致之処病気故延引致不計御手数ヲ相掛御気之毒二存候、此段御返答迄二御座候

明治二十年五月廿八日

藤堂寿子

志多見連合戸長後場御中

 

藤堂平助の実家(私が推定しているだけだが)の5000石の旗本藤堂家は維新後、大いに没落してしまったのだ。そして記録も失ってしまった。それを考えるならば、藤堂平助をこの旗本家の中で家譜や文書という確かな史料で跡付けることは困難なことなのかもしれない。

 

藤堂寿子はこれより5年後、明治25年12月12日に死去している。墓は一族の菩提寺である品川の大龍寺にあるという。

明治20年に亀久雄の娘の寿子は自身の老衰を嘆いている。慶応4年に上常光村に疎開した7歳の「於久」(おひさ)と寿子(ひさこ)は同一人物だと考えるが、まだ老衰を嘆くにあたらない年齢の寿子にこのようなことを言わせるほど藤堂家は落魄を極めてしまったのだ。

藤堂寿子は藤堂平助の妹(異腹の)だったかもしれない人である。平助は美男であったという。

私は寿子もまた可憐な容姿の人であったのではないかと勝手に想像している。
 

慶応元年6月、岡崎に来た新選組隊士たち

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遠州浜松にあった普大寺は江戸時代、虚無僧寺で普化宗金先派の本山として1613年に宗慶禅師により浜松に創建された。しかし明治に入り普化宗の廃宗に伴い廃寺となった。
廃寺となった寺の本堂は小学校として利用された。たまたま音楽の授業で使われていたアメリカ製のオルガンが故障してしまい市内在住の機械器具修理職人の山葉虎楠に修理の依頼をしたところ、これがきっかけとなり後の楽器メーカー「ヤマハ」が誕生したという。

幕末、遠州から近江までを勧化免許地としていた普大寺は、三河の岡崎の地に宗用出張所を設けた。その岡崎宗用所で宗務を補佐していたのが青山橿山である。この人は維新後に岡崎の戸長や愛知県学区幹事、磐田郡福島村村長を勤めたため、死後伝記が編まれた。
榎本半重編『青山橿山翁伝』(非売品、大正5年)という本である。

その伝記中に新選組に関する面白い記述を見つけた。慶応元年6月、膳所藩を脱藩し長州系の志士として活動をしていた粟屋彦右衛門という人物が難を避けて普大寺に保護を求めたところ、粟屋を捕縛せんと新選組の隊士8名が京都から乗り込んてきて青山橿山のいる岡崎宗用所を取り囲んだという。その際、新選組の厳しい追求にも臆することなく落ち着いた対応をした青山は、新選組隊長に気に入られ隊にスカウトされたという。
新選組に関するなかなかの逸聞たりうるし、非売品で少部数発行の一般的には読みづらい本かと思うので少々長くなるが伝記の該当部分を抜き出してみよう。

岡崎に現れた隊士8人のうち、6人の名前を青山は記憶している。後に新選組から分派する高台寺党メンバーと被る人員となっている点に注目されたい。隊士名として足立清、清原一、富山弥兵衛、中西登、内海次郎、輪堂貞蔵の名前が出てくる。
足立清と清原一は名前を誤って記憶してしまったのだろう。清原一は清原清のことでいいとして、足立一は足立林太郎か斎藤一のことと考えられる。足立林太郎だとすると入隊時期の関係で疑問が残る。

膳所藩の脱藩士を捕縛しようとしたというのだから、河瀬太宰の連類を追った隊の行動だったのだろうか。

此年六月、京都より新撰組浪士八名、突如として来り、岡崎藩の捕吏と倶に同地宗用所を囲み、隠蔽する所の浪士を拘引せんと迫る語気頗る峻巌なりの此時了觀師不在、守者等断して隠蔽なきを陳辯すれども聴独將に守者をも拉去せんとす。守者乃ち翁を招き、代て辯疏せしむ。翁乃ち徐ろに隠蔽せさる理由と、事の関係なき次第とを開陳し尚疑念晴れすんは、請ふ家宅捜索せよと、辞色頗る励強なりしかは、後れ稍く諾し家の内外を搜索して去れり、其去るに臨み、隊長翁に謂て曰く。

子は、豪膽の士なり、斯くの如き場合に臨み、尋當の人ならんには、気臆し胸中塞りて、一言も発すること能はざる者多し、然るに、子は、沈着毫も畏怖する所なく、却て余輩を叱咤するの勇あり。余深く之を愛す、子今日より我黨に入れ、子大に援助せん。

と諭せり。翁答へて、

好意感ずるに餘あり、然れども、現老父母の在すを以て邃に貴意に応じ難し。

と陳謝しけれは、彼れ意を領して去り、直に駕を飛はしめて、普大寺に赴きしも、遂に浪士を逸せりと云ふ。
翁曾て著者に語りて曰く、此時ほと苦心せしことはあらず、其實は浪士を隠蔽して、本寺普大寺に在り、故に陳辯甚だ鈍りたるも、虛勢張りて、一時の遁辞を設けしが、幸にも彼れ許容して退去せり、儻し一言を過たんが、予輩の拘引せらるゝは勿論、本人處罰せられて、生命を全くすること能はず、苦肉秘計も水泡に帰せんのみと。
抑浪士は長藩士には粟屋彦右衛門と云ひ、故ありて、膳所藩に仕へしが、彼の元治元年蛤門の變に、長藩に加勢し、敗北の後、水口の宗用所に走り、仔細を語りて一身を托しければ、監司之を快諾し、窃に岡寄と大垣とに通報し、浪士は既に普大寺に保護せり。新撰組の之を追跡し来りしは無理ならず、彼等去るや直に門前の勞造なる者に、一書を托し、火急濱松に趣かしむ、勞造亦任俠の男子なり、快諾して乃ち立つ、先づ密書を己が髻の中に隠くし、敝衣破笠、雲助の容態を爲し、夜を日に継て、東走せしが、彼れ既に荒井の段場に在り、同船して海を越ゆるの際、看破せられんことを懼れ、故意に白痴者の状を爲したり、舟彼岸に達するや、彼等は直に上陸して臨み、門前にて、面會せりと云ふ、勞造亦剛膽の男子と謂ふべし。
彼等は皆岡崎より早駕に乗り、晝夜兼行せしも、遂に目的を達する能はず、大に落膽して帰京せりと云ふ。粟屋は此時信州に走り、危難を免れたり。維新の後、膳所に帰り、商業を營めりと聞けり、子孫今如何の状態にか在る。新撰組は、元来長州征伐の頃、東都に於て募集せられ、若年寄の配下に属し、後京都壬生に移されたるが、諸國の浪士、博徒輩の集合團にして、闘争殺戮は、日常のー茶飯事たり。後後ー隊を編制して、新徴組とぜり。兩隊の中には、名士亦尠からず、彼の有名なる近藤勇(新撰組)土方歳蔵(新徴組)の如きあり、岡崎に来りしは、
足立清 清原一 富山彌兵衛 中西昇
内海次郎 輪堂貞蔵 外二人
なりしが、今は如何せしにやと具に語られたり。

著者聞く所に依れば、粟屋彦右衛門は、元長州出身なるも、膳所藩抱後、再脱して浪士となりたることなく。蛤御門に助鐸せしは其子達道にして、當時既に戦死せりと。知然らば粟屋は全く別人なるか、否、確に彦右衛門にして、現に濱松には、面識の人あり。著者想ふに、達道の加勢一件より、幕府の嫌疑を被り、彦右衛門、一時脱藩して、身を普大寺の慈門に隠くしたるものならん

以上は、予が親しく見聞せし所の活劇史なり、頗る趣味津々たるを覚ふ、子其れ、記憶して他日の談柄にせよと明細に語られたり

ちなみに粟屋彦右衛門に関して青山橿山はとある人物と誤認していたようだ。文政6年におきた膳所藩士平井兄弟が兄の仇の刀研ぎ屋の辰次(辰蔵)を討った事件(のちに歌舞伎の演目の「研辰もの」として知られる)の平井兄弟の助っ人であった長州の浪人のことを粟屋だと思い込んでいる。文政6年の事件の当事者が慶応元年に志士活動をしていたとはとても思えない。なにかの勘違いだろう。

藤堂秉之丞の系譜と家紋

先に「維新階梯雑誌」の中の文久3年12月の新選組の名簿に
 
「平之丞妾腹惣領ノ由 江戸 藤堂平助 十九才」
 
とあることから、藤堂平助は湯島三丁目に屋敷をもつ5000石の旗本藤堂秉之丞の妾の長男だろうということを書いた。
 
しかし他にも、
「京師騒動見聞雑記録」には「藤堂和泉守の浪人にて壬生組に入り候由。実は和泉守妾腹の末子とやらの噂の者に御座候由。至って美男士の由御座候」
 
「彗星夢雑誌」という記録には「藤堂家の分家三男の由」と書かれているという。
このことなどにも触れるべきであった。
 
惣領と書かれているから長男だと思ったのだが、末子、三男説があるわけだ。
 
といいつつ、平助が長男か、三男、末子か別として旗本藤堂秉之丞の妾腹であることは、津藩主の藤堂和泉守のご落胤とするよりははるかに現実的な線であると思っている。なのでこのウェブログでは「維新階梯雑誌」の平助の父親は藤堂秉之丞という説を採ろうと思う。その線でさらに書き加えようと思うのだが、別段、優れた内容のことが書けるわけではない。ただの埋め草にすぎない。
 
藤堂秉之丞の系譜を記してみようと思う。
 
寛永6年からの系譜(嘉長から良眞)は『寛政重修諸家譜』により記す。
寛政譜以降(主馬から良連)は『江戸幕臣人名事典』と『寛政譜以降幕臣人名事典』を使った。
あと明治17年に内務省地理局が埼玉県下の町村に通達して明治元年に各村を知行した旗本の知行、先祖、住所などを調査させた報告『旧旗下相知行調』(埼玉県民部県史編さん室、昭和61)も寛政譜以降の旗本の歴代と知行地を知るのに有益なのでこれも使う。(明治元年時の当主が藤堂亀久雄だと分かる)
 
文字面だけで系譜を記すのは上手くないが、旗本藤堂家の当主の系譜はこうなる。
 
藤堂嘉長(太郎助、主馬)
書院番士、御目付
大和国高市郡にて1000石。
寛文2年没。麻布の祥雲寺に葬られる。
藤堂良直(新助、主馬、伊予守)
小姓組、御目付、大坂町奉行大目付
丹波氷上郡で1000石、武蔵国埼玉郡足立郡で3000石の加増があり5000石となる。
品川の大龍寺を開基。大龍院は良直の法号。宝永3年没。同寺に葬られる。
藤堂良端(伊予守、伊豆守)
父(良季)兄(良安)が家督を継がず祖父(良直)より家を継ぐ。
小姓組番頭、西丸御書院番頭、大番頭、寄合。
宝暦3年没。品川の大龍寺に葬られる。
藤堂良由(釜五郎、主馬、肥後守
小姓組番頭、御書院番頭、大番頭。
明和5年没。品川の大龍寺に葬られる。
藤堂良峯(釜五郎、山城守、肥後守
小姓組番頭、御書院番頭、大番頭、西丸御側衆。
平助の曽祖父
藤堂良眞(駒五郎)
平助の祖父
藤堂主馬
平助の叔父
天保14年隠居。
藤堂良連(秉之丞)
平助の父親。兄主馬の養子となる。
寄合、火事場見廻、御先手弓頭。
藤堂亀久雄
平助の兄か弟。年齢が分からないので平助が第何子なのか違ってくる。
明治元年時の当主。あるいはこの人も秉之丞を名乗るか。
※訂正
良連(秉之丞)→亀久雄という系譜は間違い。両人は同一人物であった。「藤堂平助の妹」という記事を参照願う。
 
家紋は五鳩酸草、丸に生竹。
平助の家紋としてよく藤堂蔦が用いられるが、それは改められるべきかもしれない。

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知行地は武蔵国
北足立郡(常光、登戸、上谷、白幡)
北埼玉郡(上会下、中之目、阿良川、境)で3000石。
 
大和国高市郡(曲川、小綱)で1000石。
丹波国氷上郡(余田徳尾、上箇)で1000石。
 
采地の一つに埼玉県鴻巣市の上会下がある。藤堂家の武蔵国の采地の中で上会下村は757石と一番草高があった村だ。この村の名主を勤めた岡田家の墓が曹洞宗の雲祥寺にある。
岡田家には明治元年12月に藤堂亀久雄が岡田惣右衛門に宛てた褒状が残されている。

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西郷隆盛の肖像

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再来年の大河ドラマ西郷隆盛に内定したということを知った。

まだ先のことなのでだいぶ気が早いかもしれないが、しばらくしたら大河ドラマ需要で洪水のように西郷隆盛に関する書籍が出版されるだろう。
 
その出版ラッシュの際には、ぜひ再版してほしい本がある。
山下洋輔の『ドバラダ門』と『ドバラダ乱入帖』である。
山下洋輔の曽祖父は山下房親である。初代警視総監の川路利良とともに近代警察組織を立ち上げ、鍛冶橋監獄で典獄(刑務所長)を務めた人物だ。その子の啓次郎はいわゆる「明治の五大監獄」を造った建築家であった。
山下洋輔の自らのルーツをたどるこの2作は薩摩の維新史を描くことにもなっている。
 
まず『ドバラダ門』(新潮社、1990)は山下洋輔の文筆業の最高傑作、あるいは奇書として名高い作品だ。
 
発端は山下啓次郎が設計した鹿児島刑務所の門だった。
amazonの説明を抜き出してみよう。
 
「門を作った張本人、その名は山下啓次郎。おーまいごっど、オレのじいさんが建築家だと。ルーツ探しに旅行けば、出るぞ鹿児島、やっぱり西郷。山下清も乱入し、時空を越えた大騒ぎ。官軍、逆賊を叩っ斬れば、洋輔、ピアノを叩っ弾く。門を壊しちゃならねえと、反対門前コンサート。住民一気に盛り上がり、かつぎ出されたピアニスト―。日本文壇をしゃばどびと震撼させた奇著を読め」
 
つづく『ドバラダ乱入帖』(集英社文庫、1997)は床次正精の描いた西郷隆盛の肖像に山下房親が制作に深く関わったことがテーマとなる。
こちらもamazonの説明文を引用する。
 
「かの『ドバラダ門』から3年余…。西郷隆盛肖像画をめぐって、新しい展開が…。作者未詳の西郷像と、著者の曾祖父・山下房親とが、深く係わっていることが判明。たちまち天才ピアニスト洋輔は演奏活動の合間をぬって、東奔西走。肖像画の謎を追跡!ついに百年前に生きていた、先祖の目と脳と体を通して、実在の西郷が蘇ったのだ。華麗なる先祖の活躍を背景に描く痛快エッセイ」
 
『ドバラダ乱入帖』の主題であり、文庫本の表紙にも使われている西郷隆盛肖像画を掲げてみる。写真にして頒布したものだ。
若かりし頃に東郷神社の骨董市で手に入れた。
台紙の裏に印刷された肖像の制作に関わった西郷従道黒田清隆、床次正精、そして山下房親の名前を確認していただきたい。写真の存在しない西郷の面影の再現は遺された彼ら薩摩人の悲願だったのだ。
 

 『ドバラダ門』『ドバラダ乱入帖』の2作は山下洋輔という巨星が西郷隆盛をも巻き込んで奏したジャムセッションなのだ。

再版、復刊を熱望する。

 

 

藤堂平助の父親 藤堂秉之丞

『別冊新選組REAL 新選組10人の組長』(洋泉社MOOK)が先ほど発売された。「維新階梯雑誌」の中の新選組の名簿が掲載されていて読むことができる。
 
私のような横着者には注目の名簿がなんの手続きもしないで簡単に読めるというのは嬉しい。
文久3年12月に会津藩に提出されたもの写しだという。
 
その名簿の中で、藤堂平助に関して次のように記されていることに多くの人が関心をおぼえたに違いない。
 
「平之丞妾腹惣領ノ由 江戸 藤堂平助 十九才」
 
ながらく津藩主藤堂和泉守高猷のご落胤とされてきていた藤堂平助の出自が判明するかもしれない記述だ。
 
藤堂平之丞の妾のもとに生まれた長男だというのだ。藤堂平之丞とは、湯島三丁目の5000石の旗本、藤堂秉之丞良連のことだ。秉はヘイと読む。
 
熊井保『江戸幕臣人名事典 改訂新版』(新人物往来社、1997)や小川恭一『寛政譜以降 旗本家百科事典』(東洋書林、1997)などを基にして藤堂秉之丞の略歴を記してみる。なお『江戸幕臣人名事典』は秉之丞を乗之丞と読み間違えてしまっている。
 
藤堂秉之丞は文久2年時の年齢は56歳。本国は近江。生国は武蔵。
祖父は大番頭から西丸御側衆を勤めた藤堂肥後守良峯。父は寄合の藤堂駒五郎。兄は藤堂主馬。秉之丞は兄主馬の養子に入った。
禄高5000石。大和、丹波、武蔵に領地をもつ。拝領屋敷は湯島三丁目。湯島聖堂の裏で江戸切絵図でもその大きな屋敷を簡単に見つけることができる。(屋敷は弘化3年正月には火事で一度焼失しているようだ)
天保14年に兄が隠居し家督相続。寄合。
嘉永5年、火事場見廻。
文久2年1月に御先弓頭。
慶応2年御役御免、勤仕並寄合。
 
5000石の旗本の私子だった藤堂平助。いままで言われていた津藩主のご落胤ではなかったとしても、これはこれで立派なご落胤だ。

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伊庭八郎の顔

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上の写真は伊庭真であるが、この人は伊庭八郎の実父である伊庭軍兵衛秀業の従弟だそうだ。

親類で顔というのはどのくらい似るものなのだろうか?

伊庭八郎の顔はどんな顔だったのだらろう。

 

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八郎の弟の伊庭想太郎の輪郭や顔立ちも伊庭真と似てるといえば似ている。八郎も二人に似たこんな玉子型の輪郭の顔だったのかもしれない。

 

伊庭八郎の写真に関しては池波正太郎の八郎に関するエッセイの中に述べていることがある。下に抜き出してみよう。

もっとも池波が伊庭の写真だとするものは例のデッサンの崩れた頭の鉢の大きいあの肖像画のことである。池波はこれを取材ノートにスクラップしている。そのスクラップはその一部を『週刊池波正太郎の世界』10号(朝日新聞出版、2010年)で見ることができるので、池波があの肖像画を写真と考えていたことがそれで分かる。
 
私の書斎の棚の上にある、青年武士の小さな写真を見た来客に、
「だれですか、この人は?」
と、よく問われる。
「伊庭八郎です」
そうこたえても、
「ははあ……?」
 伊庭の名を知らぬ人が多い。
この写真は、伊庭家の末孫である古田中みなさんのお宅へうかがったとき、
 「こんなものでございますけど……」
 と、古田中夫人が見せて下すった写真である。
 幕末の名剣士たる伊庭八郎秀頴は、最後の最後まで徳川と江戸の栄光のために戦いぬき、かの北海道・箱館(現函館)の戦争で死んだ。
 この写真は、おそらく、江戸を逃げて、榎本武揚らの〔五稜郭〕へこもった旧幕軍に投じてのち、箱館で撮影したものとおもわれる。
故・子母沢寛先生も、
「これはめすらしい。八郎の、こんな写真は見たことがない。どこで手に入れましたか?」
 おどろきに瞳目されつつ、しかも、八郎を愛することでは人後に落ちない……と、みずからいわれるほどの先生だけに、
「うちに何枚もございますから、よろしければお手もとに……」
 私がそういうと、さもうれしげに、
「これはいい、この八郎はまったく八郎らしいですなあ」
と、おっしゃったものだ。
 この写真は、古田中夫人の手もとにあるものを、私のカメラで撮ったものである。
 髪は、例の講武所ふうの茶せんにゆいあげてい、一文字のりりしい眉、美しい鼻すじの下にきゅっと引きむすばれた口に江戸ざむらいの底意地の強さが、はっきりと看取される。
 色も白かったらしい。
 双眸は二重まぶたの中にらんらんと光ってい、その光の底にやさしい彼の性格と、死を前にした愁いとがしずかにただよっている。
 私が彼を主人公にして〔幕末遊撃隊〕という小説を週刊誌に連載したのは、もう六、七年前のことになるだろうか……。
 少年のころからのわれわれが胸にえがいていた白面の剣士・伊庭八郎のイメージと、現在(写真)の彼の容貌とが、これほどにぴったりしていようとはおもってもみないことであった。
 むろん、仕事をする上では、どれほどに書きよかったかも知れない。

鶴ヶ城のエッチング

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明治5年、外国人の自由な国内旅行が許されていなかったときに、一人のフランス人神父が二人のスイス人と一緒に新政府の許可を得て、函館から東北地方を縦断し横浜まで旅をした。パリ外国宣教会所属のJ.M.マラン神父である。同行のスイス人は横浜で貿易商を営みデンマーク領事も兼ねていたバヴィエー兄弟あった。
マラン神父の旅行記は1874年にフランスのリオンで発行されたフランス信仰弘布会本部の絵入週刊誌『ミッション・カトリック』第六号に掲載された。1880年にはパリで単行本として出版された。
邦訳は昭和43年にH.チースリク訳『宣教師の見た明治の頃』(キリシタン文化研究会)の中に「東北紀行ー函館より江戸ー」として収められている。
この旅行記の中には、挿絵として21枚の風景、風俗画のエッチングが掲載されている。マラン神父が秋田県毛馬内(鹿角市)で雇った写真師「オヤマ・ヤサブロウ」という青年が撮影した写真をもとにエッチングにして挿絵としたものである。

マラン神父は会津若松も訪れる。そして挿絵に鶴ヶ城天守エッチングを載せる。

「この周辺の平野、または付近の町や村の至る所に、最近の戦乱の跡が残っている。首都若松に近くなればなるほど、残骸が数多く目につく、なるほど、この勇敢な大名がその領地を一歩一歩守りながら、猛烈な防御戦を行なったことが一見してわかる」

「若松の町、その七千戸もある人家と五階建の城などは本当に見事な光景であった。そこここの景色も実に美しいものであった」