幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

新選組

幕府軍艦 富士山 その2

富士山は明治9年9月から26ヶ月をかけて改造された。機関部分が撤去され、中央にメインマストが設けられ帆柱が3本になった。我々が富士山の船体の写真としてよく見るのは純帆船となったあと姿だ。帆走練習艦として横須賀鎮守府、呉鎮守府で日本海軍の若人たち…

幕府軍艦 富士山

『アサヒグラフ』(朝日新聞社)は1968年9月に「われらが100年」という増刊号を発行している。 維新から昭和までの歴史100年を写真で振り返るという新聞社系の出版物にありがちな内容のものである。 明治維新から100年なのはもちろんだが、その年の秋に東京百…

京都守護職屋敷剣術大会後の打ち上げ

前回の記事に続き中川四明の「怪傑岩倉入道」から落穂拾い的に面白そうな部分を抜き出したい。小見出し(三)華鬘結(けまんむすび)から、京都守護職屋敷でしばしば催された剣術大会のあとの打ち上げの様子を描写している箇所である。大会に参加した会津藩士や…

元京都見廻組・中川四明の書いた龍馬暗殺

明治時代の京都の代表的俳人だった中川四明。本名は重麗。別号は紫明・霞城。東大予備門教授、京都日の出新聞編集を経て大阪朝日新聞に勤めた。正岡子規と親交があり、満月会を興し新派俳句興隆を促した。 その四明は嘉永2年に京都町奉行与力下田耕助の次男…

土方久元に間違われた土方歳三の肖像写真

土方歳三の肖像写真が明治初期にいわゆるお土産写真として土佐藩の土方久元と間違われて販売されていたという話がある。 子母澤寛が『新選組遺聞』(萬里閣書房、1929年)の巻頭口絵の土方の肖像写真の説明文で以下のように書いていることがネタ元と考えられる…

清河八郎の生家

清河八郎は現山形県東田川郡庄内町清川の出身。大庄屋格斎藤家の長男として生まれた。酒造業も営む斎藤家は大変裕福な家であった。その斎藤家の写真(明治後期ころ)を本やネットで見たことがある方も多いだろう。 たとえばこちらのサイトで見ることができる。…

近藤勇の絵葉書

昭和2年11月13日、開校したばかりの関東中学校は武道大会とともに近藤勇慰霊祭を挙行する。記念の絵葉書が発行されている。近藤勇の肖像(微妙な感じのもの)と関東中学の校舎、そしてタトウ(絵葉書の袋)である。 関東中学校はいまの聖徳学園高校のこと。…

沖田総司まぼろしの写真

昭和50年ごろ、沖田総司の肖像写真が発見されたと一部新選組ファンの間で騒ぎが起こったという。その写真とは如何なるものだったのだろう?結論からいえば沖田の写真などは発見されなかった。訛伝による間違いであった。どういうことか。まずはウィキペディ…

根岸信五郎と藤田五郎

埼玉県戸田市本町の多福院という寺院に高さ3.7メートルにもなる巨大な石碑「根岸先生之碑」があります。 根岸信五郎資剛は長岡藩士。神道無念流の錬兵館に学ぶ。慶応元年に免許皆伝を得て錬兵館の師範代となる。北越戦争では官軍との戦闘で重傷を負う。明治…

本庄宿篝火事件は解明されたのか

文久3年2月10日、その2日前に江戸を発した浪士組は中山道本庄宿に宿をとった。そこで起きたとされるのが芹澤鴨による本庄宿篝火事件だ。 この事件に関しては菊地明氏に「本庄宿篝火騒動の真相」(『ここまでわかった!新選組の謎』新人物文庫、2015年)があ…

鵜殿鳩翁の「浪士姓名簿」は現存していた!

本日、ツイッターにて貴重な情報を瓢中舎貞秀さまから教えていただきました。いやー、驚きです。瓢中舎貞秀さま、心より感謝申し上げます。 なんと!東京大学法学部に「浪士姓名簿」が所蔵されているという。その裏表紙には「御取締役 鵜殿鳩翁」と記名があ…

鵜殿鳩翁の「浪士姓名簿」

東京は上野に明治10年から続く老舗古書店 文行堂の戦前昭和13年9月発行の目録第17号に「浪士姓名簿」が出品され当時35円で売られた。(ちなみに同目録に高橋是清の自筆演説草稿も載るがそちらは30円。公務員の初任給は75円くらいだったそうだ) 目録には背開…

藤堂平助の妹

新選組の藤堂平助の実家と考えられる5000石の旗本藤堂家のことに関してはこのウェブログでとりとめもなく書いているが、いま少し書き加えるべきことが出来たため、いささかくどくはあるがこの話題を続けたい。 旗本藤堂家の采地は江戸近郊では武州の七ヶ村に…

慶応元年6月、岡崎に来た新選組隊士たち

遠州浜松にあった普大寺は江戸時代、虚無僧寺で普化宗金先派の本山として1613年に宗慶禅師により浜松に創建された。しかし明治に入り普化宗の廃宗に伴い廃寺となった。 廃寺となった寺の本堂は小学校として利用された。たまたま音楽の授業で使われていたアメ…

藤堂秉之丞の系譜と家紋

先に「維新階梯雑誌」の中の文久3年12月の新選組の名簿に 「平之丞妾腹惣領ノ由 江戸 藤堂平助 十九才」 とあることから、藤堂平助は湯島三丁目に屋敷をもつ5000石の旗本藤堂秉之丞の妾の長男だろうということを書いた。 しかし他にも、 「京師騒動見聞雑記録…

藤堂平助の父親 藤堂秉之丞

『別冊新選組REAL 新選組10人の組長』(洋泉社MOOK)が先ほど発売された。「維新階梯雑誌」の中の新選組の名簿が掲載されていて読むことができる。 私のような横着者には注目の名簿がなんの手続きもしないで簡単に読めるというのは嬉しい。 文久3年12月に会…

伊庭八郎の顔

上の写真は伊庭真であるが、この人は伊庭八郎の実父である伊庭軍兵衛秀業の従弟だそうだ。 親類で顔というのはどのくらい似るものなのだろうか? 伊庭八郎の顔はどんな顔だったのだらろう。 八郎の弟の伊庭想太郎の輪郭や顔立ちも伊庭真と似てるといえば似て…

鶴ヶ城のエッチング

明治5年、外国人の自由な国内旅行が許されていなかったときに、一人のフランス人神父が二人のスイス人と一緒に新政府の許可を得て、函館から東北地方を縦断し横浜まで旅をした。パリ外国宣教会所属のJ.M.マラン神父である。同行のスイス人は横浜で貿易商を営…

鶴ヶ城本丸御殿の写真

会津若松の鶴ヶ城の古写真の中でも、天守と本丸御殿が写っているものがある。会津若松市教育委員会の所蔵写真で諸書に掲載されているが例えば『保存版 古写真で見る失われた城』(世界文化社、2000)で見ることができる。どの本も同じ画角での掲載なので、教…

子母澤寛の祖父は幕臣だったのだろうか?

子母澤寛の祖父というのは微禄の御家人であり、上野彰義隊に参加し、敗れたのち箱館でも戦い降伏。士籍を返還して札幌近郊の開墾を経て厚田村に流れ着いて網元や貸座敷業や旅館業を営み、土地の顔役として生涯を終えたという。 この祖父に盲愛にも似た可愛い…

明治40年8月5日の報知新聞「近藤勇」

キリスト教の伝道者で明治女学校の創立者で校長、また小諸義塾を開設した木村熊二は明治教育史、文学史上に語られる人である。 しかし私にとってはこの人は幕末維新史の人である。 木村熊二は但馬出石藩の儒官の子として生まれ昌平黌に学び幕臣の家に養子と…

新選組 成合清の叔父さん

日光街道旧粕壁宿(春日部)の東陽寺に旧桑名藩士 浅野蕉斎の記念碑が建っています。 文政7年に桑名で生まれた浅野は、藩の御側役や勘定頭も勤めた優秀な藩士でした。藩主が京都所司代となり藩内多事を極める中、会計の任にあたりよくその職に尽くしたといいま…

原田左之助は龍馬と別府温泉に入ったのか

明治17年の11月の『東京自由新聞』第735号の雑報に「二宮新吉傳一夜説」という記事が載った。伊予宇和島の志士二宮新吉(呉石)の事歴に関する投稿記事で、投稿したのは二宮新吉を知る東京麻布に住む青木知友と名乗る人物。 この記事に興味深いことが書かれ…

砲術家としての藤堂平助

新選組の藤堂平助は撃剣家の他にも砲術家としての一面があった人である。このことはもっと世に知られるべきことではないか。 池田屋事件の働きで褒賞を受けた藤堂平助は元治元年8月には江戸に下り、以後しばらく江戸に在って隊士募集の役を担っていたとされ…

ヒゲを生やした土方歳三⁈

箱館では実はヒゲを生やしていた土方歳三⁈ 『大日本名家肖像集」(経済雑誌社、明治40年)が掲載するものだ。 いやいや、川村録四郎の別バージョンの写真だろうて。※追記好川之範『土方歳三最後の戦い 北海道199日』(北海道新聞社、2014)もこのヒゲ土方を…

有馬藤太の写真

流山で近藤勇を降伏させ、その助命を訴えていた薩摩藩士 有馬藤太(真ん中の人物) 晩年の立派なヒゲの写真(『維新史の片鱗』)は知られているかと思います。こちらはそれよりもだいぶ若い時の写真。 両サイドは左が今泉利春(佐賀藩)、右は近江西郷と言わ…

戊辰九月三日と六日の土方歳三

「出城劄記」は磐城平藩士神林千次郎が戊辰七月十三日の平城落城から筆を起こした戊辰戦争期の日記である。鶴翁安藤信正を擁して仙台に北走する過程を記す。仙台に入ると城下片平丁の石川大和邸に仮藩邸を置いて、奥羽列藩同盟の一藩として落城後もなお列藩…

描かれた土方歳三6

「土方歳三肖像画賛幅」 えっ!マジか! と若者ことばを使いたくなるような驚きがあります。

描かれた土方歳三5

清水米洲『絵本明治太平記』(明治19年)より。 先に投稿した本と同じような題名ですが別物の本です。 この土方は深夜のコンビニの店先に座っている兄ちゃんのようですね。

描かれた土方歳三4

村井静馬著『明治太平記 五編 上』(延寿堂、明治8年)の挿絵。