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幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

坂本龍馬の檜垣逸話をサルベージしてみる

千頭清臣の『坂本龍馬』(博文館、大正3年)は龍馬の様々な逸話を掲載していて龍馬伝説の元ネタとして後年諸書に引用される名著だ。中でも非常に有名な龍馬の逸話に、龍馬の嗜好が長刀→短刀→ピストル→万国公法に変わったというエピソード、檜垣逸話がある。
よく知られるものだがあらためて抜き出してみよう。

「或る日、龍馬途上に同志檜垣直治に會ひ、其の長刀を帯ぶるを見て、無用の長物、緩急に應ずる能はざらんと言ひ、自らの短刀を示せしかば檜垣大いに悟る所あり、長刀を棄て短刀を帯び、重ねて龍馬に會ふ。龍馬短銃を執り、轟然一丸を放ちて曰く、是れ西洋の新武器なりと。數旬を経て檜垣また龍馬と邂逅す。龍馬曰く『将来は武のみを以て立つべからず、学問が必要なり。僕今や萬國公法を讀む、頗る面白し』と。龍馬が時勢に適應するもの概ね斯くの如し」

この逸話に出てくる檜垣直治を檜垣清治(直枝)のこととして紹介したのは平尾道雄だ。平尾の云う通り檜垣清治だとすると彼は当時長く投獄されていたのでこの逸話に描かれるような龍馬との交流はあり得ない。ゆえにこの逸話も良くは出来ている話だが今では信憑性がないものとされている。

しかし私はこの逸話をサルベージしたいと思っている。なくはない話なのだ。

山下白雲『風雲児坂本龍馬』(光文館、昭和2年)は龍馬の実証的な伝記本ではなく小説風な読み物。本来私のようなものには食指の動かない本なのだが、各章の章末にコラム的な記事が付けられていて実はそれが思わぬ拾い物なのだ。
そのコラム記事に檜垣逸話とよく似た話が載っていて、逸話の別の語り口になっているのだ。

「國にゐた頃の龍馬は、なりにも振りにも構はず、大刀を差して、大道を闊歩してゐた。後ちに同志の檜垣直治、吉田數馬(後の海南中学校長)が京都で會ふと、絹物を纏つてゐるし、医者の差す様な小刀を差してゐた。餘りの豹変に、驚いたが、「もう斯ういふ時勢には槍やサスの様な長刀は役にたたない。」と云つて懐中からピストルを出して二三度ズドンと発射したので、二度ビックリしてしまつた。「時勢は刻々変化してる、おれは今、天文学や萬國公法を讀んでゐる。」と聞かされて三度ビックリした。と後ちに吉田數馬がよく人に話してゐた。」

ここでは檜垣逸話を語るのは檜垣清治でも直治でもなく吉田數馬だ。吉田は後に高知の海南学校の名校長となった人。

さて吉田が語っているのは、まず長刀→短刀→ピストル→万国公法の順で龍馬に別の機会に3回会ったわけではないということ。土佐の国許時代の龍馬の姿を思い出したのと、後に京都で会ったときだけなのだ。京都で龍馬に会った際に短刀とピストルを見せられて驚き、さらに万国公法と天文学の本を読んでいることにも驚いたのである。
これこそが檜垣逸話の原形なのではないか。

そうなると吉田數馬に実際にそのような証言があるかどうかを探し出したくなる。幸いにも手元に海南学校同窓会編の『吉田數馬先生』(磯部甲陽堂、大正3年)があったので開いてみた。そうしたらけっこう龍馬の名前が出ているのだ。
それもそのはずで、『吉田數馬先生』によると吉田は少年時代に坂本龍馬にその快活で元気な性格を愛され始終連れ廻されていたという。
当時の龍馬は「二十五六の若盛りで、色浅黒く筋肉締り、何となく精悍の気が眉宇の間に溢れるといふ風采で、いつも紺木綿の羽織袴にきりりと身を固めた姿は、如何にも凛々しく、天晴れ土佐男児の典刑であつた」。
吉田は龍馬を敬愛し「日夕之に親炙して、子供心にも深く其の風格を慕って居た」という。なるほど龍馬の逸話を語る資格は十分にありそうな人である。
そして問題の逸話のことも下記の通りちゃんと語ってくれていた。

坂本龍馬先生が郷里で青年を指導されて居つた時には頗る蛮的で、盲目縞の紺袴を裾短に著なし、二つ目釘に半卵子の太刀を帯し、いつも青年に向つて質素を力説し、太刀の長きに利あるを云はれて居つた。其の後自分が京都を過ぎつた節、檜垣某と共に久し振で先生を河原町の寓居に訪うた。勿論先生の教えのままに極めて質素な服装で、二つ目釘に半卵子を差していつたので、餘程先生に褒められるだろうと豫期して居つた。所が豈図らんや、先生は黄八丈の絹物を裾長に著こなして、絹坐蒲團の上に坐し、而も傍には町醫者の差料と思はれるやうな短いのが置かれてあつた。自分等二人には、先生の此の為體に、言行不一致の人だと云うことが直覚されたので、心頗る平ならぬものがあつた。其の上挨拶の済むか済まぬのに、『貴様等の此の體裁は何だ、恥を知れ、今時サスのやうな奴を挿んで。貴様等は時世の進歩と云ふことに盲目だから困つたものだ。なに腹が立つか。こりや、今の世には此の様な調法なものがあるぞ。』といふまま直ぐ傍に置いてあつた連発のピストルを取上げ、庭に向つて續けさまに四五発発射された。怒心頭に湧いて、差違へて死んでやろうと思うてをつた二人も、此の勢に呑まれて仕舞つて、茫然自失した。それより先生は、徐に時世の推移と之に対する自分の抱負計画を説かれて、自分等二人の心得方を懇切に教へられた。其の節の教訓は今でも耳の中で響いて居る。先生はいつも時世より一歩先んじて天下の事を憂へられた人で、その活眼は驚くべきものであつた。現に其の時も巳に天文学を研究して居られた。今時の青年にも是非先生の千分の一位でもの識見がほしいものだ。」

ここで語られることが檜垣逸話の元の話なのではないか。
同行の檜垣某はもちろん投獄されていた清治ではなく別人の檜垣姓の人物ということになるだろう。あるいは直治という名前の人でよかったのかもしれない。
吉田と檜垣でそれぞれこのエピソードを別に語り残していた可能性だってある。千頭清臣の『坂本龍馬』に載っている方は檜垣の証言に依ったのかもしれない。

吉田數馬が京都に上洛するのが大政奉還後の土佐藩兵の一員としてであることと、龍馬と邂逅したのが河原町の龍馬の寓居とのことから考えて、この話は龍馬の死の直前の出来事と考えられる。
私は吉田のこの語りから、龍馬が千葉重太郎勝海舟を訪れた際のエピソードを思い出した。龍馬の死の直前に、龍馬の活躍の始めともいえる勝海舟への弟子入りエピソードによく似た話が出てくるのがなんだか興味深いものがある。