幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

龍馬と酒

坂本龍馬は酒が飲めたのか?酒が好きだったのだろうか?
忘年会シーズンがやってきたので、ちょっと考えてみようと思います。

明治期の外交官、安藤太郎は幕末期には幕府の海軍操練所、陸軍伝習所を経て幕軍の騎兵となり、さらに榎本艦隊に投じて宮古湾の海戦では土方歳三と一緒に回天に乗り込んで出撃している。右手に傷を負って傷痕は生涯消えなかった。宮古湾の海戦記「美家古延波奈誌」を遺す。
大蔵省、外務省に出仕。岩倉遣外使節団に随行。香港副領事、上海総領事を経てハワイ総領事のときにキリスト教の洗礼を受ける。榎本武揚から送られた酒樽を文子夫人(荒井郁之助の妹)が馬丁に割らせたのを機に禁酒を断行。以後禁酒運動家となった。

昭和4年安藤の禁酒運動における功績を記念せんと日本国民禁酒同盟により遺稿集が出版された。
『安藤太郎文集』(日本国民禁酒同盟、昭和4年)

その遺稿集の中に、幕末に安藤が交流のあった坂本龍馬に関する回想が載っています。龍馬の飲酒に関する面白い記事なので抜き出してみます。はたして龍馬は酒が飲めたか?

【勝塾の逸才坂本龍馬

坂本龍馬氏は維新の功臣中、第一流の人物と称して敢へて異論はあるまいと思ふ。併し氏は禁飲家といふのではない。否酒は中々の鯨飲家であった。然るにその鯨飲家が数ヶ年問、克己制慾の美徳を発揚して、能く時務を料理されたるは、固より氏の氏たる所でもあらうが、矢張り勝房州の禁酒主義の感化であると断言して差支はあるまい。

扨て余がこの英雄と昵懇になったのは、氏が航海術研究のため、折り折り荒井郁之助氏方へ来訪せられた頃、余も同氏の塾に居ったので、時々居臥寝食を倶にし、又は同浴などして、かの有名なる氏の脊部の大癒に熊毛の蓬々然たる迄も、一見して驚ろい事もあった位に懇意であった。
然るに氏の更に泥酔したことも、叉酒気を帯びて居たのも見た事もないので、余は坂本氏を全く下戸とばかり思って居った。

或る年のこと、氏は勝氏に隨ひ、余は荒井氏に隨行して、汽船順動丸にのり込み、兵庫に碇泊して居た事があった。その折りある夜船中人定まって後、余は士官部屋の食堂で、ひそかに一杯を傾けて居た所、坂本氏が突然入り来りたる故、ホンのお世辞半分に杯をさしたるに、意外にも氏は之を受取り、大杯ヘナミナミとつがせて飲み始め、それから頻りに献酬をした。余は頗る驚愕して『君はこれまで下戸だと思ったら豪い腕前を持ってゐるナ』と申したら『イヤ僕は少しはやるが先生(勝房州)が召あがらんから、いつも謹んで居るのだ』と答へたので、この人が房州にそれ程までに遠慮して居るとは、さてさて謹みの深い男であると感心した。
それから気がついて、神戸の勝の塾生の様などを見ると、築地海軍所の連中の様に暴飲乱酔する者は殆ど無い。先づ全體が飲酒には注意して居る様に見えた。是れは坂本氏が塾頭同様の地位に立って取締りしてゐる結果である事が分った。
故陸奥伯はこの常時、伊達陽之助と名乗って、坂本氏の下に何くれとなく働いて居ったとの事である。されば陸奥伯が後年禁酒をして劇務の間に兎に角健康を保ち、國家に盡す事を得たるも、畢竟、勝の塾風に薫陶されたのであって、即ち房州の余澤と申してよい。】(明治三九・八)

写真は明治17年上海総領事の安藤太郎。