慶応四年一月、須坂藩主で若年寄•外国総奉行だった堀直虎は、鳥羽伏見敗戦の後に江戸城内で繰り広げられた主戦派と恭順派の激論のさなかに謎の自刃を遂げる。享年33歳。
諸書に掲載される堀直虎の肖像写真は昭和十年発行の『堀直虎公傳』という本の口絵写真が元だと思われる。
しかしこの口絵写真はトリミングされていて、実物の写真がどのようにマウントされていたのか分からなかったのだが、富田松北の著した『碧血録』という堀直虎の別の伝記によって写真の全体像を知ることができた。
真鍮製のフレームとスペーサーが見事なケース入りのアンブロタイプだったことがわかる。