幕末 本と写真

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矢田部郷雲の墓

江川坦庵に仕えた幕末の蘭学者矢田部郷雲の墓をその生地に訪ねた。
 

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矢田部郷雲は文政二年に埼玉県上里町勅使河原字天神の荒井家に生まれる。
 
江戸深川の坪井信道の日習堂に入門し蘭方医学と蘭語を学んだ。
坪井の門人録には「矢田文庵 武州賀美郡天神村 改名郷雲 号天沼」とあるそうだ。
日習堂在塾中より『撒羅満氏産論抄書』の翻訳をはじめると弘化二年に訳了している。
この郷雲の『撒羅満氏産論抄書』から技法を学んだ伊古田純道と岡部均平が嘉永五年飯能の山中で行ったのが我が国初の帝王切開手術である。
 
郷雲は江川坦庵からその実力を買われ嘉永六年八月召し抱えられると、石井脩三とともに蘭書翻訳事業に従事した。この翻訳方の同僚には英語の翻訳に就いていた中濱万次郎や後に咸臨丸で米国に行く鈴藤勇次郎らもいた。
 
嘉永六年の品川台場築造に当たっては郷雲らの苦心して作成した築城模図が基礎となっている。
安政元年七月には蒸気船製造方の質問のために長崎に出張する柏木総蔵、望月大象らと同行して蘭人との通弁役を果たした。同年十一月品川台場完成の賞与として銀二枚を賜る。翌安政二年一月には完成した台場において実弾射撃の射手をつとめ沖合十町に設けた標的を見事に撃破したという。
 
韮山の反射炉の建設にも郷雲の活躍は大きかった。『青銅及び鋳鉄を溶解する反射炉を録す』は反射炉築造の重要な訳本であった。
このほかにも郷雲の翻訳書はサハルト著『警備術原』、『窮理実験陸用砲術全書』等十数種に及ぶそうだ。
 
ちなみにその性格は剛直にして事に触れるとすぐ物に当たって憤怒しやすかったという。
当時郷雲の準幕臣としての待遇は、御鉄砲方付蘭書翻訳御用勤方、御普請役格であったが坦庵の家臣としての給与は五両三人扶持に過ぎなかった。坦庵が没すると江川家家老の松岡正平に給与増額の賃金闘争を挑み翻訳業をサボってストライキを起こすような人物だった。このストライキは結局功を奏して二人扶持増俸されたそうだ。
資生剛直ながら勤務における研究熱心さは他を圧していたという。
 
安政四年七月十日本所の江川邸にて没す。享年三十八歳。
浅草の本法寺の過去帳に「安政四丁巳歳七月十日 清心院常悟因愈信士」と記載されているという。
谷中霊園の矢田部家の墓所に夫婦の墓碑が建っている。
植物学者で詩人の矢田部良吉は卿雲の子。
 
生家のある上里町勅使河原の共同墓地にある荒井家の墓域にもまた墓石が建つ。
正面に「清心斎常悟因愈信士」

 

 

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右側面に「安政四年丁巳七月十日」、
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左側面に「矢田部郷雲之墓 荒井八郎兵衛建之」と刻されている。