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甘利源治の墓

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中村彰彦の短編小説に「甘利源治の潜入」という作品がある。 

 

韮山の農兵だった原宗四郎という男が会津藩に密偵として仕えて甘利源治と名乗り、幕府への挑発のために浪士を集めて御用盗騒ぎを起こし江戸市中を撹乱していた薩摩藩江戸藩邸に潜入し、その策謀と挙兵計画を身を呈して防ごうとするという話だ。

 

この短編のネタモトとなった『会津戊辰戦史』は甘利源治の活躍を次の様に描いている。

 

「我が留守居柏崎才一周旋して甘利源治を薩邸暴徒の中に入れ偵察せしむ、源治暴徒と共に市中を狼藉す、ゆえに少しもこれを疑う者なかりき、これによって暴徒の多寡およびその情実を知ることを得たり」   

「甘利源治もまた同伴して八王子に至り、源治謀りて隊長を青樓に誘い、ひそかに娼妓をしてその短銃を盗ましめ、隊長を斬り同盟簿を奪い、源治ただちに帰りてこれを我が藩邸に報告す、これによって暴徒の人員姓名等ますます明暸なるに至れり」   

 

さて、その甘利源治のお墓が埼玉県本庄市の大正院にある。

面白いことに本庄に伝わる甘利源治の姿は小説とは違って勤王の志士としてのものなのだ。

 

甘利源治、本名は林常三郎。上州多野郡美土里村 久保豊三郎の三男。幼時に上州箕輪村 林直之丞の養子となる。

会津藩に仕えたが時勢を悟り、これを去って勤王党に与る。

討幕ために富豪を説いて百両を越える多額の資金を集め江戸に入らんと、慶応3年10月15日同志と共に本庄宿の旅籠広木屋に宿泊。翌朝駕籠に乗り出立しようとしたところを幕吏に襲われ地元の北辰一刀流の剣客高橋辰三郎に槍で太股を突かれる。深手にめげず脱出し、身をを軽くするため懐中の金を撒き散らしながら逃げたが力尽き倒れ捕縛された。おそらく深傷のために没す。 二十六才。 

 

 

墓石は初めにごく小さいものが建てられたが、やがて苔むして忘れ去られ、これを悲しんだ上州出身の蹄鉄商 北嶋倉吉という人が昭和5年に新しい墓石を建立した。