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砲術家としての藤堂平助

新選組藤堂平助は撃剣家の他にも砲術家としての一面があった人である。このことはもっと世に知られるべきことではないか。


池田屋事件の働きで褒賞を受けた藤堂平助は元治元年8月には江戸に下り、以後しばらく江戸に在って隊士募集の役を担っていたとされる。
しかし江戸で実際は何をしていたかは永倉新八の回想記に伊東甲子太郎を隊に勧誘したことなどが見えるのみで不明の点がほとんどであるといえよう。
勧誘に応じた伊東らの上洛にも同行せずに江戸に留まった藤堂のことについて、江戸駐在隊士としての募集隊士の人選を行っていたのではないかなどと新選組関係の本に書かれることがある。しかしそのことは確実な史料によることではない。
 
私はこの時藤堂は江戸に砲術を習得をするために滞在していたと考えている。もっともこの時点で本格的に修行に入ったかどうかはわからない。
このことは後段で述べよう。
 
翌慶応元年4月に土方歳三が江戸に下り大規模な隊士募集を行った。多数の加入者の一行に同行して藤堂は再び上洛する。
その後の新選組の編成で藤堂は八番組長となる。
さらに長州征伐のための軍団編成(慶応元年9月ごろの第三次の行軍録とよばれるもの)では大銃頭となるのだ。
この大銃頭に任じられていることに私は大いに意味を感じる。藤堂に砲術家としての萌芽をみる。
 
ここから慶応3年の3月まで藤堂平助は記録に姿を見せない。その足取りは不明となる。私は江戸に戻り砲術の本格的な修行を行っていたと考えている。
 
慶応3年3月の伊東甲子太郎新選組分裂騒ぎの渦中にようやく藤堂は記録に姿を見せる。いうまでもなく後世高台寺党と呼ばれる御陵衛士の人員の中にその名前を見せるのだ。もっとも伊東の隊分離時に藤堂が在京していた証明はない。
藤堂は伊東たちと時間差があって合流した。
鳥取藩記録」は伊東との合流を「藤堂平助、先日頃より美濃国へ罷越しおり候得共、これまた同意の由」として、伊東の離隊のころは美濃にいたとしている。
私はこの時期の藤堂は江戸で砲術修行を終えて美濃に行っていたと推定している。美濃で水野弥太郎らに砲術指南をしていたのでないか。
西村兼文の「新撰組始末記」には「藤堂平助は、美濃国博徒水野弥太郎に結び、農兵数百人、号令次第差し出す約を堅め、かつその勢を盛んにして士力を増殖せんと思惟し」とある。水野弥太郎配下の博徒や農兵隊に砲術ないし洋式調練を授けていた可能性があるのではないか。
 
「慶応雑聞録」には藤堂と富山弥兵衛、斯波良作、清原清の四人について「先日脱局、これも同意」とある。これによれば、四人は伊東の分離以前に新選組を別途離隊してその後に伊東たちと合流したと読むことができる。
この藤堂、富山、斯波、清原の四人には何か関係があるのだろうか。彼らには砲術ないし洋学志向という共通項があることを指摘出来るだろう。
富山は元治元年秋の伊東甲子太郎入隊直後の編成で七番大砲隊の一員になっている。
斯波良作は史料上名前の混乱があるが西村兼文の「新撰組始末記」に洋行を希望して学術修行のため離隊した司馬良蔵こと新選組文学師範をつとめた斯波雄蔵だとされる。洋行を企図していたことから斯波の新選組での文学師範の内容は洋学系統のものだったと私は推定する。
清原清は入隊直後の慶応元年閏5月の編成で砲術師範となっている人だ。秦林親はその手記に清原を「此人ハ鉄砲ノ達人ナリ」と評し、その経歴に「尾濃間二遊歴シ」たことがあると記している。あるいは清原は藤堂と共に水野弥太郎らに砲術を指南していたのでないだろうか。
 
肝心の藤堂はどうだろうか。阿部隆明は史談会速記録で藤堂平助のことを「藤堂は小兵でございますけれど、なかなか剣術はよく使いまして、また文字(学問のこと)もございます」と語り残している。藤堂平助の「文字」とは砲術や洋式調練や兵学に関わる蘭学知識、数学や語学のことだったのではないだろうか。
 
さて、ここまで読まれた方は私の述べていることにいささか不信を持つのではないか。私の推論は飛躍がすぎているだろうか。
 
肝の部分を述べたい。
 
韮山の江川文庫には嘉永6年から慶応3年までの江川家の砲術指南を受けた門人たちの名簿が残されている。二冊あるこの「御塾簿」を大原美芳「江川家砲術指南の記録 御塾簿について」(『韮山町史の栞』第9号、昭和60年)で読むことが出来る。これは2冊分の「御塾簿」を整理編集したもので原史料そのものの翻刻ではないのだが、名簿の解読不明の文字を○で表記するなどの史料に対する姿勢から江川塾の門人帖として信頼を置くことができるものと考える。
さて、その「御塾簿」の中に藤堂平助の名前を見つけることができるのだ。
 
「慶応三丁卯八月二十三日免許 松平肥後守附番新撰組 藤堂平輔」
 
これはどう控え目に考えても新選組藤堂平助のことであろう。
藤堂は慶応3年8月23日に江川塾で砲術の免許を得ている。
 
江川塾のことを説明すべきだろうか。
いうまでもなく高島流の砲術教育機関として江川担庵が天保13年に開設した「韮山塾」が江川担庵の死後、安政2年江川英敏もとに開設された芝新銭座大小砲習練所内に「縄武館」として移転し、幕臣や諸藩士に砲術を授けた学塾のことである。
正課の砲術稽古として小銃操法、銃隊調練、大砲打方、火薬製方等があり、講義では歩騎砲操典、築城学、戦場医学等が教えられていた。
 
あえて繰り返すが、藤堂平助はその江川塾で砲術を学び免許を受けている人である。
 
免許の交付が慶応3年8月23日になっていることにあるいは不信を抱くかもしれない。この15日前の8月8日に京都で藤堂は伊東甲子太郎三木三郎斎藤一と連名で柳原前光板倉勝静長州藩の寛典と兵庫開港の是非についての建白書を呈している(『中山忠能履歴資料』)。この時期に藤堂が江川塾にいるはずはないではないかと。
しかし免許が藤堂が江戸にいないこの日付になったことの理由はそれなりにある。それは前将軍徳川家茂の喪があけるのを待っていたからだと考えられるだろう。前年7月20日に薨去した家茂の喪中の一年間に江川塾で砲術修行の教程を終了していた者に、喪があけるのを待って8月23日に免許が与えられたのだろう。「御塾簿」には同日付で免許を取得したものが夥しい人数いる。江川塾が大量の免許者を同じ日付で出す理由はそこにあったと考えられる。
 
江川塾では入門から免許取得までの年月は各人の技量により多様であるが、長ければ10ヶ月から1年ほど近くかかる。その期間まるまる江戸新銭座の江川塾に在学していたとしてとも、慶応元年の秋から慶応3年の3月まで新選組隊士として在京の記録のなくなる藤堂が江戸に戻り江川塾に入門し長期間修行していたとしても矛盾はない。
入門時期は「御塾簿」に「松平肥後守附番新撰組 」とあるから、新選組の総員が幕臣となる以前、慶応3年6月以前であると思われる。幕臣となり幕府機関のとなったあとでは新選組を松平肥後守附番とは書かないだろう。
あるいは入門はもっと早かったかもしれない。元治元年の江戸行きの際に入門を済ませていて目録課程までいっていた可能性もあるのではないか。江川塾での目録取得は3ヶ月から半年ほどの期間が必要だったという。藤堂はその時は半年以上江戸にいたわけで、ならば目録取得も出来ない話ではなくなる。
先に慶応元年秋に大銃頭になったことを藤堂の砲術家としての萌芽だったと述べたが、その時点でなんらかの砲術に関わる技術と知識を持っていたと考えれば大銃頭の役職就任も得心がいく人事である。
最初の江戸行きと在京の記録のなくなる時期とで前後二回に分けて修行したならば、新選組での京都での活動歴と江戸での砲術修行との間に時間的余裕が出来るだろう。
 
新選組が激しい砲術教練を隊士に課していたことは周知のことである。すでに元治元年10月に東下中の近藤勇に宛てた土方歳三の書簡に「局一同、炮術ちょうれん、残らず西洋つつ致し候て毎日仕り候」とある。肝心の藤堂は江戸にいるときであるので彼と砲術調練とをストレートに結べないのは残念だが、以後も新選組の砲術調練は西本願寺壬生寺で行われていく。
強火薬をつかった発泡演習で西本願寺門跡の覚如上人はノイローゼになったというし、壬生寺からは寺内の戸や天井板が壊れ屋根瓦がゆるんだと苦情が出るほどだったという。
この新選組の砲術調練に砲術家として藤堂平助がどう関わったか史料がなく現状ではそのことは不明とせざるおえない。
 
藤堂が江川塾門下で砲術の免許皆伝を受けていた砲術家だったということ、このことは新選組研究の好題目となり得るだろう。
今回は江川塾の「御塾簿」に藤堂の名前を見つけたというそれだけのことによって私は稿を草した。当然ながら断定が下されないことばかりであり、多くの事実についても知りえることが甚だ少ないことを遺憾とせざるを得ぬ。
他日このことの研究が進められることを期待したい。