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幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

原田左之助は龍馬と別府温泉に入ったのか

明治17年の11月の『東京自由新聞』第735号の雑報に「二宮新吉傳一夜説」という記事が載った。伊予宇和島の志士二宮新吉(呉石)の事歴に関する投稿記事で、投稿したのは二宮新吉を知る東京麻布に住む青木知友と名乗る人物。

 
この記事に興味深いことが書かれている。
幕末、肥後藩の轟武兵衛・河上彦斎、豊後岡藩の小河一敏が四国の志士を豊後別府の浜脇温泉に招き時事を談じたことがあったという。
四国から別府に馳せ参じた志士の中に、伊予宇和島から二宮新吉がいたが、他にも日柳燕石、土肥大作・七助兄弟、那須俊平ら名のある人々がおり、さらには伊予松山から原田左之助、土佐からは坂本龍馬も参加していたというのだ。
 
龍馬と原田の両者はこの時に出会っていたというのか。
慶応3年11月にかたや被害者、もう一方は暗殺者に擬せられるという形で妙な因縁を持つことになる二人は、実はそれ以前からも縁があったということなのか。
龍馬と左之助は別府の湯に一緒に浸かったとしたら大変に面白い話になる。
 
もう一人、丸亀藩の土肥七助も別府行に加わっていたという。この人も原田との因縁という面では興味深い。なにせ土肥七助池田屋事件の際に現場にいて桂小五郎とともに辛うじて難を逃れた人というのだから。(草薙金四郎『勤王奇傑 日柳燕石伝』昭和14年)
 
しかし、別府浜脇温泉でのこの会合のことを記した史料の存在を私は知らない。会合を計画した一人だという河上彦斎の伝記(荒木精之『定本河上彦斎新人物往来社、昭和49年)などにもまるで見えぬことである。
そもそもこの新聞記事も人名表記が怪しい。もとより信ぜざることと片付けるべきなのかもしれない。
ただ明治17年と維新後比較的早い時代にその別府での会合に参加したという青木なる人が語ったということは大変興味深くはある。
 
私は轟武兵衛、河上彦斎、小河一敏ら九州の志士の動向を知ることは極めて少ない。彼らがこの会合を計画したことが事実なのか、会合自体あったのか、あったとしたらいつ頃のことなのか等々全て不明とせざるおえない。
 
轟武兵衛、河上彦斎、小河一敏の三者が絡むこと自体は文久元年から2年あたりにはそれなりの頻度であったであろう。彼らが、清河八郎の九州遊説に端を発して島津久光の挙兵上京に繋がった文久2年の九州の志士たちの熱狂を四国の志士に伝播しようと試みた可能性はないだらうか。
 
坂本龍馬に絡めて時期を考えれば、龍馬の最初の脱藩の後、文久2年4月から7月まで足取りが不明な時期があるので、そこに当てはめてみたくなる誘惑にかられる。しかしなんの根拠のないことだ。その期間では小河一敏は京阪にあって小河が四国の志士を別府に招くことは不可能だ。招き手はすでに不在だったが四国の志士たちは別府に来会したのか。
 
原田左之助松山藩安政5、6年ごろに脱藩したと推定されている(『新選組銘々伝 四』新人物往来社)。
脱藩から江戸の試衛館に姿を見せるまで約4年間その消息は不明とされる。しかし、そもそも原田の松山藩脱藩の時期はいつのことことかは分かっていない。史談会速記録で内藤鳴雪が原田について語ったことが原田の前歴を知る主要な材料になっているが、そこには具体的な脱藩の年は語られていない。
もしかしたら原田には脱藩の後にこの別府行きにみるような尊攘の志士としての活動歴があるのではないだろうか。藩制の最下級の武士だった人は国事鞅掌の人とならんがためにあるいは脱藩したのではないか。原田には知られざる志士としての活動歴があり、それはいくつかの曲折(そのひとつは自らの腹に切腹の傷跡を残すようなこと)を経て、江戸に出て尊攘の思想集団としての試衛館に合流したのではないか。道場としての試衛館に入り浸る浪人者、単なる武芸者のイメージで原田を語たるだけではいけないのではないか。
 
いささか空想が過ぎた。無根拠なことのみ書いている。
肝心の記事を抜き出してみよう。
 
「貴社新聞本月三四五の三日間雑報内に掲載せる伊予国宇和四郡を読んで余が旧識たる呉石二宮新吉君の鬼録に上られたることを知悉したり、余は元来山陽の草莽に出で、氏とは山海遼遠なるが故に深き交りあるに非ざるも其維新以前国事に慷慨し西の方有志者に会せんと豊後の国浜脇温泉に至り、五十余日を経過したるに豊後の志士轟武兵衛(肥後弾正大忠照幡烈之介)川上彦斎(肥後高田源兵衛)小河弥右衛門(豊後竹田藩家老小川一敏)三氏の計画する所より四国の有志者を密に仝所へ招聘せしに呉石氏は八幡浜より快船を以て同国人金子魯州(宇和島藩士金子孝太郎)松末杢兵衛、上田一学(荻野次郎)阿部権一郎(後宇和島藩小参事足立常雄)加来多喜太郎(三島典平)小原喜真太、西村鉄之助、森余山(吉田人)大洲人 山本真弓、萬沢珍平、松山人 原田某(松山藩士原田佐之助、後に壬生浪士と慶応三年一月京都河原町土州屋敷に於て坂本龍馬を暗殺したる人)讃岐人 土肥大作、土肥七亮、柳原燕石(日柳士煥の変名)土佐人 坂本節馬(後に龍馬)西春松(土藩儒士修) 松山深蔵、上岡昌軒、那須俊平、川口平介(多度津人)の以上数十人と共に来会せられ、各々湯治に托し一週日留りて余も其班に列して時事を談ずる事あり」
 
という部分だ。
私はこの記事を直接『東京自由新聞』から採ったわけではなく徳田三十四『革新家 市村敏麿の面影』(史蹟刊行会、昭和30年)という本に掲載してあるものから採った。なお詳しく掘り下げてみたい方はそちらの本の参照をお勧めしたい。
ちなみに市村敏麿は二宮新吉と共に無役地事件に奔走した人である。無役地事件とは宇和島藩政時代に庄屋に付与され既得権益化した土地の解放を農民たちが求めた争議で、市川と二宮は農民側を主導して裁判闘争を展開した。闘争は農民側の敗北となりそれを受けて二宮新吉は銃で自殺している。