幕末 本と写真

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明治40年8月5日の報知新聞「近藤勇」

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キリスト教の伝道者で明治女学校の創立者で校長、また小諸義塾を開設した木村熊二は明治教育史、文学史上に語られる人である。

しかし私にとってはこの人は幕末維新史の人である。

 

木村熊二は但馬出石藩の儒官の子として生まれ昌平黌に学び幕臣の家に養子となった。幕末に歩兵差図役下役並、御徒目付などに任じられ上洛する。京都では御徒目付という職務がら新選組京都見廻組の幹部格との連携が重要な仕事となり日常的に交流を深める。

 

木村には慶応2年8月から10月までの上京時の日記「帝都日乗」(『木村熊二日記 (校訂増補)』東京女子大学比較文化研究所、2008)があって御徒目付だった当時の行動を追うことができる。

たとえば慶応2年9月5日の日記には「朝御旅館出勤八半時帰寓。此日駕壬生村辺出張大野某、只三郎に面接」とある。

壬生村周辺に出張して情報交換、そこで只三郎と面談諸連絡、午前一時頃帰宅する。この只三郎という京都見廻組佐々木只三郎のことだと思われる。

 

木村はまた後年に木村蓮峰の名で報知新聞の報知漫筆欄に幕末維新の回想記を連載している。この連載は一人の幕臣が体感した幕末史になっていてすこぶる興味深いものとなっている。

 

明治40年8月5日の報知新聞の報知漫筆欄は「近藤勇」と題しての木村の近藤勇についての回想になる。

抜き出してみよう。

 

「吾少時、屡々内藤新宿の辺を往来して近藤勇の名を聞けり。彼の剣客なるを以て敢て其門に至りし事なかりき。吾が彼と交際せしは彼が土方歳三等と新選組の名の下に松平容保の手に属し、輦穀の下を護衛せし頃にてありき。当時吾も京都取締役御目付羽太庄左衛門に随伴して京地にあり、会桑両藩士及び京都見廻組佐々木只三郎、羽倉鋼三郎の諸人と相接して浮浪の徒の取締上に付き、密談を為したることありき。町奉行滝川播磨守の手にて厳重に探索せし結果、浮浪の輩は市内に身を置く地なく、多くは堂上方の邸内に潜伏し、屡々出でて人を殺して人家に入りて財物を掠奪して其の暴行を極む。かくて巡吏等も手を下すの機会なかりき。故に新選組に命じて此等の無頼漢の挙動を精細に取調置き、時としては其捕縛を命ずることせり。近藤勇は彊毅にして胆略あり。少しく不穏の形跡ある者は用捨なく捕へて取調を為し、其捕へんと欲するものあれば、勇自ら一人の従者と共に其下宿に出張して面会を求め、寒暖の挨拶を為して後幕命にて捕縛するの余儀なき旨を陳べ、決闘の意あれば相手を致すべし。尋常に縛に就くならば其用意しかるべしとて手づめの談判に及べり。浮浪の徒といへども武士にてあれば、をめゝと縛に就くは刀に対して快からず、近藤の前にも耽しく余儀なく決闘を請ひて死せし者も少からず、薩長士の諸士は最も勇を嫌悪して彼を除かんと欲し、屡々途上に要撃したるも皆勇等が刀の錆となりたりき。」

 

この回想で木村は討幕派を浮浪の徒と呼び、目付の下僚たる御徒目付としてその取締りに躍起となる。近藤勇佐々木只三郎京都見廻組会津桑名藩士らと情報を共有しその取締りの対策を講じている。

この回想は、京都の幕府機関がどのように反幕府勢力の取締りに当たっていたかの概要を教えてくれるものになってもいる。

また先日、池田屋事件における近藤の第一声がどんなものだったか「維新階梯雑誌」に依って世間の話題になったが、多少戯画的ではあるが近藤の浪士捕縛にのぞむ際の態度を伝えていることは面白くもある。

 

木村の回想を続けよう。

 

「其頃三條の橋畔に国禁のケ條を書したる制札てふ物ありしが、何人の悪戯かそを取り除きたり。随つて懸れば随つて携帯し去り。何物の所為なるかを知らざりしなかりき。勇に命じてそを探索せしむ。新選組の一人は乞食の形に装ひ薦を被て一夜橋畔に伏し居たりしが、両岸の樓臺人已散じ歌吹海波寂として声なく、たゞ江干の清風と柳外の新月を残して疎燈人影だになくなりたる頃、いづくとも知らず十六人の武士集り来り、いざ制礼を脱さんとせしかば近傍の居酒屋に潜みゐたる勇等五人にその事を報じたり。勇を真先に五人の者出て来りて拾六人を捕へんとせり。新選組は生ながら彼の暴漢を捕んとの目的なれば刀を抜かず赤手にて彼等に向ひ為めに非常なる傷を蒙りたるも六人を捕縛し五人を斬り其他は脱れ去れり。後に取調たるに彼等は土州藩士にてありき。

 

三条大橋の制札事件のことが語られている。もっともこの事件に近藤は出動していないはずなのだが。

 

制札事件に続き以下の記述もある。

 

「吾嘗て勇等と酔を鴨西の一楼に買ふ。座中に紅袖青蛾両人ありて、姉は梅の如く、妹は桜に似て艶と清との双看するの心地せり。やがて会藩の一人は『アア自己の君公(容保)も御苦労をなさるがせめてこんな美人でもあげたいものだ』美酒隻肴の前に雑陳せるや一人は杯を挙げて『アア旨い酒だ。君公にあげたいナー』吾は其際彼等が君公を愛するの赤心は父子骨肉にもまさるの状を見て無限の感慨を催したりき。他日彼等が瘡残の余卒を率ゐて若松の孤城に立寵り、天下の兵を引受けて君臣死を共にして固守したるは、この愛君の精神の焼点に達したるものか。

 

鴨川の西の楼で近藤勇会津藩士たちとで杯をあげた木村はその場に美しい姉妹の芸者の姿を見つける。この姉妹の芸者が近藤勇の愛妾だったかどうかは分からない。ただ酒席をともにしていたという回想があるのみだ。

近藤勇が深雪太夫とその妹お孝の姉妹を愛妾としていたことは広く知られている。その姉妹とは別の姉妹の芸妓を近藤が酒席によんでいたことはそこだけでも掘り下げたくなる話ではある。

 

木村熊二はこの時出会ったこの姉妹に一目惚れしたようで、しばしば訪ねて執心を示している。この姉妹の名を姉は繾勇、妹を繾尾といった。姉の繾勇に勇の文字がついているのが興味深くもある。

木村の日記にはこの姉妹の名が散見される。

 

「朝渡辺信之丞ヲ訪大五郎ト会、松楼ヲ訪繾勇、繾尾姉妹来、小酌依田竹次郎ト会、勇尾信之丞同伴某楼ヲ訪会眠」(10月6日)

 

「杉原三郎兵衛、渡辺信之丞同伴某楼に会ス、繾勇姉妹来小酌会眠」(10月8日)

 

慶応2年10月、江戸帰府を命ぜられ1010日に京を立つまで、9月から10月にかけて9日も繾勇姉妹と会い別れを惜しんでいる。

109日は盛大な送別会が行われた。

「弥兵衛同行三条橋詰おゐて信之丞、安西数馬ヲ面接、繾勇ト会某楼ヲ訪歌妓七名来別宴繾尾来」とある。京都見廻組幹部小林弥兵衛や御徒目付の同僚と大勢の芸者をあげての別れの宴であった。

 

報知漫筆での木村の近藤の回想は近藤の最期でその文を結んでいる。

 

「吾嘗て板橋駅に於て汽車を待てり。前面の田甫園の小丘に一箇の石塔のあるを看る。怪んで傍人に問ひしに一老ありて「あれは近藤様の墓です」といへり。近藤とは誰なるやと問ひしに「近藤勇様です、ゑらい方でした」といへり。吾は覚えず悵然たり。「近藤はどうしてあそこに葬られたのか」「あそこで斬られたのです」と。吾は近藤の末路を十分に知らざりしが始めて彼の死處を知ることを得て胸間の感慨遣るかたなかりき。嗚呼かの一杯の土は彼が未死の心を埋めし場所なるか、かの蒼苔に包れたる孤墳は侠骨稜々たる英雄の堕涙碑なるか。春草年々緑なるも魂は帰り来らず。花は発き花は散て空しく彼の英霊を弔ふが如し。老翁は語をつぎて云ふ。「近藤様は久しく板橋のある屋敷の内に捕へられていましたが一日官軍が来て近藤様を引出しました。その時には汚れた衣物を着て顔色も憔悴てゞした。食事なども十分にはあげなかつたとの事でした。官軍が来ました時、近藤様は何をするのかと御問ひになりましたら貴様の首を斬つて京都の三條の橋にさらすのだといひました。すると近藤様は一寸とも驚いた御様子もなく、されば湯に浴し髪を結ふことを許せとて其より湯に入り髪を結ひ衣類を着かへ近所の蕎麦を差しあげたれば心地よく召あがりました。とうとうあそこへ引出されてわるひれず平気で斬られておしまひなさいました」とて愁を帯て語りたりき。武士の沈静たる膽気は無智の老翁までも長く同情の涙にむせぶこととはなりぬ。