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佐賀藩士 亀川新八

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佐賀藩三重津海軍所が設置されるなど薩摩と並ぶ海軍藩として知られる。そんな佐賀出身でありながら陸軍に進み佐賀人初の陸軍大将になったのが宇都宮太郎である。
 
宇都宮太郎は文久元年に佐賀藩士亀川新八貞一の長男として生まれた。父の死による御家断絶により従兄の宇都宮泰玄の籍に入り以後、宇都宮姓を名乗った。
その後親族をたよって上京、攻玉社に入塾。海軍兵学校への予備校だった攻玉社に学びながら進路を陸軍に変更し、陸軍士官学校を志望、歩兵科を首席で卒業した。陸軍大学校も優等で卒業。以降、歩兵第一連隊長、参謀本部第二部長、第七師団長、朝鮮軍司令官、軍事参議官と、軍人エリートの道を邁進した。
 
宇都宮の立身出世の過程は書き残されたその日記に物語られる。日記は『日本陸軍とアジア政策ー陸軍大将宇都宮太郎日記ー』全3巻(岩波書店、平成19)として刊行されている。
 
宇都宮は日記の中で繰り返し父の死によって一家が没落し家族離散の憂き目にあったことを書く。
 
「父上御他界一家分散してより血涙」
 
「先考の御逝去の前後一家没落、宅地家屋を失い母子兄弟離散せし」
 
「四十年前に田布施の地所家屋を失ひたる御両親始め御痛恨」
 
宇都宮の立身はひとえに没落した亀川家の再興を実現するためであり、それが心の支えとなっていた。
 
「余は宇都宮は一時の仮にして余が本姓にあらず、其内宇都宮の籍をぬき復姓の積なり」
 
「余は偶然の事より宇都宮姓を冒し居れども本姓は亀川氏なり。他日機を見て複姓の積なり」
 
宇都宮太郎の息子で元衆参両院議員だった宇都宮徳馬の著書(『日中関係の現実』普通社、昭和38年)によれば、太郎の父親の亀川新八は長崎でオランダ技術を学び、藩主の信任を得て造兵廠長のような役に就いたが、同藩のライバル佐野常民の陥穽に堕ちて明治3年10月23日に切腹し、御家断絶となったという。
 
亀川新八の名前は佐賀藩長崎海軍伝習所に派遣した藩士48人の中に見つけることができる。切米25石の小身であったが学才を認められて選抜されたのだろう。海軍伝習所での履修科目がなんであったかは不明である。
さらに佐賀藩の科学技術事業の頭脳部だった精煉方に勤務し、佐野常民、小出千之助、中村奇輔、田中近江・儀右衛門、石黒寛次などと共に火術に必要な原材料の試験研究、化学工芸の研究と薬品や器械の製造を行った。(『佐賀県教育史 第4巻』)
明治3年に謎の切腹を遂げるが、具体的な事情については知りえない。
ただ、亀川新八を切腹に至らしめた人物について子孫に伝わるところでは精煉方で仕事を共にした佐野常民としていることが大変気になる。どのようなトラブルが亀川に起こったのだろうか。
 
宇都宮は日記の大正4年7月22日の条に亡父の簡単な履歴を記している。
 
「余は本姓は亀川氏にして佐賀鍋島藩士亀川新八貞一主の長男にして、母上は同藩士堤喜六董真主の妹多智子の刀自なり。先考は、禄は二十五石にて小身なりしも、深く閑叟公の知遇を受けられ、其御側役にて精錬所の役頭を勤められ、今日にて申せば後の工部卿の如きものにて、当時日本の門戸たりし長崎に学び、同地を経て輸入する欧州文明の知識を先づ藩政の上に実現し、世間は未だ鉄道の「て」の字さへも聞知せざる明治元年前后に於て、既に佐賀、伊万里鉄道を計画せられたりとは、後年母上より数々承はりし所なり。写真等も自らも之を能くせられ、既に牛肉を食用せしことは、余が記憶にも尚ほ存す。想に一藩先覚の士たりしや明なり。又た楠公桜井駅の軸を展べ、懇々訓誨せられたることあり。今尚記憶に新なり。蓋し勤王の志の深かりしを想見すべきなり。」
 
亀川新八の墓は佐賀県神埼市天台宗の仁比山地蔵院にあるようだ。大正7年8月7日宇都宮は「一台の自動車を賃し、夫婦子女八人の外に栄も同乗、運転手十人の大一座にて」片道2時間をかけて両親の墓を訪っている。
「斯く大勢の子孫を御覧ぜられたる御両親の御感慨や如何。暫し無言にて黙拝せり」
 

 

亀川新八の肖像は『佐賀藩海軍史』(知新会、大正6年)の口絵に掲載されているものがあるが、その口絵とまるきり同じカットの亀川の肖像写真を得た。台紙の裏書きによれば「昭和八年十二月上旬 宇都宮叔父上様より御母上に献じられしもの」とある。『佐賀藩海軍史』出版の時点でこの複写の肖像写真しか残っていなかったのだと思われる。自ら写真も行なっていたという亀川だけに元になったオリジナルの写真がどのようなものであったかが気になる。