上の写真は伊庭真であるが、この人は伊庭八郎の実父である伊庭軍兵衛秀業の従弟だそうだ。
親類で顔というのはどのくらい似るものなのだろうか?
伊庭八郎の顔はどんな顔だったのだらろう。
八郎の弟の伊庭想太郎の輪郭や顔立ちも伊庭真と似てるといえば似ている。八郎も二人に似たこんな玉子型の輪郭の顔だったのかもしれない。
伊庭八郎の写真に関しては池波正太郎の八郎に関するエッセイの中に述べていることがある。下に抜き出してみよう。
もっとも池波が伊庭の写真だとするものは例のデッサンの崩れた頭の鉢の大きいあの肖像画のことである。池波はこれを取材ノートにスクラップしている。そのスクラップはその一部を『週刊池波正太郎の世界』10号(朝日新聞出版、2010年)で見ることができるので、池波があの肖像画を写真と考えていたことがそれで分かる。
《私の書斎の棚の上にある、青年武士の小さな写真を見た来客に、
「だれですか、この人は?」
と、よく問われる。
「伊庭八郎です」
そうこたえても、
「ははあ……?」
伊庭の名を知らぬ人が多い。
この写真は、伊庭家の末孫である古田中みなさんのお宅へうかがったとき、
「こんなものでございますけど……」
と、古田中夫人が見せて下すった写真である。
幕末の名剣士たる伊庭八郎秀頴は、最後の最後まで徳川と江戸の栄光のために戦いぬき、かの北海道・箱館(現函館)の戦争で死んだ。
故・子母沢寛先生も、
「これはめすらしい。八郎の、こんな写真は見たことがない。どこで手に入れましたか?」
おどろきに瞳目されつつ、しかも、八郎を愛することでは人後に落ちない……と、みずからいわれるほどの先生だけに、
「うちに何枚もございますから、よろしければお手もとに……」
私がそういうと、さもうれしげに、
「これはいい、この八郎はまったく八郎らしいですなあ」
と、おっしゃったものだ。
この写真は、古田中夫人の手もとにあるものを、私のカメラで撮ったものである。
髪は、例の講武所ふうの茶せんにゆいあげてい、一文字のりりしい眉、美しい鼻すじの下にきゅっと引きむすばれた口に江戸ざむらいの底意地の強さが、はっきりと看取される。
色も白かったらしい。
双眸は二重まぶたの中にらんらんと光ってい、その光の底にやさしい彼の性格と、死を前にした愁いとがしずかにただよっている。
私が彼を主人公にして〔幕末遊撃隊〕という小説を週刊誌に連載したのは、もう六、七年前のことになるだろうか……。
少年のころからのわれわれが胸にえがいていた白面の剣士・伊庭八郎のイメージと、現在(写真)の彼の容貌とが、これほどにぴったりしていようとはおもってもみないことであった。
むろん、仕事をする上では、どれほどに書きよかったかも知れない。》