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藤堂平助の父親 藤堂秉之丞

『別冊新選組REAL 新選組10人の組長』(洋泉社MOOK)が先ほど発売された。「維新階梯雑誌」の中の新選組の名簿が掲載されていて読むことができる。
 
私のような横着者には注目の名簿がなんの手続きもしないで簡単に読めるというのは嬉しい。
文久3年12月に会津藩に提出されたもの写しだという。
 
その名簿の中で、藤堂平助に関して次のように記されていることに多くの人が関心をおぼえたに違いない。
 
「平之丞妾腹惣領ノ由 江戸 藤堂平助 十九才」
 
ながらく津藩主藤堂和泉守高猷のご落胤とされてきていた藤堂平助の出自が判明するかもしれない記述だ。
 
藤堂平之丞の妾のもとに生まれた長男だというのだ。藤堂平之丞とは、湯島三丁目の5000石の旗本、藤堂秉之丞良連のことだ。秉はヘイと読む。
 
熊井保『江戸幕臣人名事典 改訂新版』(新人物往来社、1997)や小川恭一『寛政譜以降 旗本家百科事典』(東洋書林、1997)などを基にして藤堂秉之丞の略歴を記してみる。なお『江戸幕臣人名事典』は秉之丞を乗之丞と読み間違えてしまっている。
 
藤堂秉之丞は文久2年時の年齢は56歳。本国は近江。生国は武蔵。
祖父は大番頭から西丸御側衆を勤めた藤堂肥後守良峯。父は寄合の藤堂駒五郎。兄は藤堂主馬。秉之丞は兄主馬の養子に入った。
禄高5000石。大和、丹波、武蔵に領地をもつ。拝領屋敷は湯島三丁目。湯島聖堂の裏で江戸切絵図でもその大きな屋敷を簡単に見つけることができる。(屋敷は弘化3年正月には火事で一度焼失しているようだ)
天保14年に兄が隠居し家督相続。寄合。
嘉永5年、火事場見廻。
文久2年1月に御先弓頭。
慶応2年御役御免、勤仕並寄合。
 
5000石の旗本の私子だった藤堂平助。いままで言われていた津藩主のご落胤ではなかったとしても、これはこれで立派なご落胤だ。

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