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藤堂秉之丞の系譜と家紋

先に「維新階梯雑誌」の中の文久3年12月の新選組の名簿に
 
「平之丞妾腹惣領ノ由 江戸 藤堂平助 十九才」
 
とあることから、藤堂平助は湯島三丁目に屋敷をもつ5000石の旗本藤堂秉之丞の妾の長男だろうということを書いた。
 
しかし他にも、
「京師騒動見聞雑記録」には「藤堂和泉守の浪人にて壬生組に入り候由。実は和泉守妾腹の末子とやらの噂の者に御座候由。至って美男士の由御座候」
 
「彗星夢雑誌」という記録には「藤堂家の分家三男の由」と書かれているという。
このことなどにも触れるべきであった。
 
惣領と書かれているから長男だと思ったのだが、末子、三男説があるわけだ。
 
といいつつ、平助が長男か、三男、末子か別として旗本藤堂秉之丞の妾腹であることは、津藩主の藤堂和泉守のご落胤とするよりははるかに現実的な線であると思っている。なのでこのウェブログでは「維新階梯雑誌」の平助の父親は藤堂秉之丞という説を採ろうと思う。その線でさらに書き加えようと思うのだが、別段、優れた内容のことが書けるわけではない。ただの埋め草にすぎない。
 
藤堂秉之丞の系譜を記してみようと思う。
 
寛永6年からの系譜(嘉長から良眞)は『寛政重修諸家譜』により記す。
寛政譜以降(主馬から良連)は『江戸幕臣人名事典』と『寛政譜以降幕臣人名事典』を使った。
あと明治17年に内務省地理局が埼玉県下の町村に通達して明治元年に各村を知行した旗本の知行、先祖、住所などを調査させた報告『旧旗下相知行調』(埼玉県民部県史編さん室、昭和61)も寛政譜以降の旗本の歴代と知行地を知るのに有益なのでこれも使う。(明治元年時の当主が藤堂亀久雄だと分かる)
 
文字面だけで系譜を記すのは上手くないが、旗本藤堂家の当主の系譜はこうなる。
 
藤堂嘉長(太郎助、主馬)
書院番士、御目付
大和国高市郡にて1000石。
寛文2年没。麻布の祥雲寺に葬られる。
藤堂良直(新助、主馬、伊予守)
小姓組、御目付、大坂町奉行大目付
丹波氷上郡で1000石、武蔵国埼玉郡足立郡で3000石の加増があり5000石となる。
品川の大龍寺を開基。大龍院は良直の法号。宝永3年没。同寺に葬られる。
藤堂良端(伊予守、伊豆守)
父(良季)兄(良安)が家督を継がず祖父(良直)より家を継ぐ。
小姓組番頭、西丸御書院番頭、大番頭、寄合。
宝暦3年没。品川の大龍寺に葬られる。
藤堂良由(釜五郎、主馬、肥後守
小姓組番頭、御書院番頭、大番頭。
明和5年没。品川の大龍寺に葬られる。
藤堂良峯(釜五郎、山城守、肥後守
小姓組番頭、御書院番頭、大番頭、西丸御側衆。
平助の曽祖父
藤堂良眞(駒五郎)
平助の祖父
藤堂主馬
平助の叔父
天保14年隠居。
藤堂良連(秉之丞)
平助の父親。兄主馬の養子となる。
寄合、火事場見廻、御先手弓頭。
藤堂亀久雄
平助の兄か弟。年齢が分からないので平助が第何子なのか違ってくる。
明治元年時の当主。あるいはこの人も秉之丞を名乗るか。
※訂正
良連(秉之丞)→亀久雄という系譜は間違い。両人は同一人物であった。「藤堂平助の妹」という記事を参照願う。
 
家紋は五鳩酸草、丸に生竹。
平助の家紋としてよく藤堂蔦が用いられるが、それは改められるべきかもしれない。

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知行地は武蔵国
北足立郡(常光、登戸、上谷、白幡)
北埼玉郡(上会下、中之目、阿良川、境)で3000石。
 
大和国高市郡(曲川、小綱)で1000石。
丹波国氷上郡(余田徳尾、上箇)で1000石。
 
采地の一つに埼玉県鴻巣市の上会下がある。藤堂家の武蔵国の采地の中で上会下村は757石と一番草高があった村だ。この村の名主を勤めた岡田家の墓が曹洞宗の雲祥寺にある。
岡田家には明治元年12月に藤堂亀久雄が岡田惣右衛門に宛てた褒状が残されている。

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