幕末 本と写真

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慶応元年6月、岡崎に来た新選組隊士たち

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遠州浜松にあった普大寺は江戸時代、虚無僧寺で普化宗金先派の本山として1613年に宗慶禅師により浜松に創建された。しかし明治に入り普化宗の廃宗に伴い廃寺となった。
廃寺となった寺の本堂は小学校として利用された。たまたま音楽の授業で使われていたアメリカ製のオルガンが故障してしまい市内在住の機械器具修理職人の山葉虎楠に修理の依頼をしたところ、これがきっかけとなり後の楽器メーカー「ヤマハ」が誕生したという。

幕末、遠州から近江までを勧化免許地としていた普大寺は、三河の岡崎の地に宗用出張所を設けた。その岡崎宗用所で宗務を補佐していたのが青山橿山である。この人は維新後に岡崎の戸長や愛知県学区幹事、磐田郡福島村村長を勤めたため、死後伝記が編まれた。
榎本半重編『青山橿山翁伝』(非売品、大正5年)という本である。

その伝記中に新選組に関する面白い記述を見つけた。慶応元年6月、膳所藩を脱藩し長州系の志士として活動をしていた粟屋彦右衛門という人物が難を避けて普大寺に保護を求めたところ、粟屋を捕縛せんと新選組の隊士8名が京都から乗り込んてきて青山橿山のいる岡崎宗用所を取り囲んだという。その際、新選組の厳しい追求にも臆することなく落ち着いた対応をした青山は、新選組隊長に気に入られ隊にスカウトされたという。
新選組に関するなかなかの逸聞たりうるし、非売品で少部数発行の一般的には読みづらい本かと思うので少々長くなるが伝記の該当部分を抜き出してみよう。

岡崎に現れた隊士8人のうち、6人の名前を青山は記憶している。後に新選組から分派する高台寺党メンバーと被る人員となっている点に注目されたい。隊士名として足立清、清原一、富山弥兵衛、中西登、内海次郎、輪堂貞蔵の名前が出てくる。
足立清と清原一は名前を誤って記憶してしまったのだろう。清原一は清原清のことでいいとして、足立一は足立林太郎か斎藤一のことと考えられる。足立林太郎だとすると入隊時期の関係で疑問が残る。

膳所藩の脱藩士を捕縛しようとしたというのだから、河瀬太宰の連類を追った隊の行動だったのだろうか。

此年六月、京都より新撰組浪士八名、突如として来り、岡崎藩の捕吏と倶に同地宗用所を囲み、隠蔽する所の浪士を拘引せんと迫る語気頗る峻巌なりの此時了觀師不在、守者等断して隠蔽なきを陳辯すれども聴独將に守者をも拉去せんとす。守者乃ち翁を招き、代て辯疏せしむ。翁乃ち徐ろに隠蔽せさる理由と、事の関係なき次第とを開陳し尚疑念晴れすんは、請ふ家宅捜索せよと、辞色頗る励強なりしかは、後れ稍く諾し家の内外を搜索して去れり、其去るに臨み、隊長翁に謂て曰く。

子は、豪膽の士なり、斯くの如き場合に臨み、尋當の人ならんには、気臆し胸中塞りて、一言も発すること能はざる者多し、然るに、子は、沈着毫も畏怖する所なく、却て余輩を叱咤するの勇あり。余深く之を愛す、子今日より我黨に入れ、子大に援助せん。

と諭せり。翁答へて、

好意感ずるに餘あり、然れども、現老父母の在すを以て邃に貴意に応じ難し。

と陳謝しけれは、彼れ意を領して去り、直に駕を飛はしめて、普大寺に赴きしも、遂に浪士を逸せりと云ふ。
翁曾て著者に語りて曰く、此時ほと苦心せしことはあらず、其實は浪士を隠蔽して、本寺普大寺に在り、故に陳辯甚だ鈍りたるも、虛勢張りて、一時の遁辞を設けしが、幸にも彼れ許容して退去せり、儻し一言を過たんが、予輩の拘引せらるゝは勿論、本人處罰せられて、生命を全くすること能はず、苦肉秘計も水泡に帰せんのみと。
抑浪士は長藩士には粟屋彦右衛門と云ひ、故ありて、膳所藩に仕へしが、彼の元治元年蛤門の變に、長藩に加勢し、敗北の後、水口の宗用所に走り、仔細を語りて一身を托しければ、監司之を快諾し、窃に岡寄と大垣とに通報し、浪士は既に普大寺に保護せり。新撰組の之を追跡し来りしは無理ならず、彼等去るや直に門前の勞造なる者に、一書を托し、火急濱松に趣かしむ、勞造亦任俠の男子なり、快諾して乃ち立つ、先づ密書を己が髻の中に隠くし、敝衣破笠、雲助の容態を爲し、夜を日に継て、東走せしが、彼れ既に荒井の段場に在り、同船して海を越ゆるの際、看破せられんことを懼れ、故意に白痴者の状を爲したり、舟彼岸に達するや、彼等は直に上陸して臨み、門前にて、面會せりと云ふ、勞造亦剛膽の男子と謂ふべし。
彼等は皆岡崎より早駕に乗り、晝夜兼行せしも、遂に目的を達する能はず、大に落膽して帰京せりと云ふ。粟屋は此時信州に走り、危難を免れたり。維新の後、膳所に帰り、商業を營めりと聞けり、子孫今如何の状態にか在る。新撰組は、元来長州征伐の頃、東都に於て募集せられ、若年寄の配下に属し、後京都壬生に移されたるが、諸國の浪士、博徒輩の集合團にして、闘争殺戮は、日常のー茶飯事たり。後後ー隊を編制して、新徴組とぜり。兩隊の中には、名士亦尠からず、彼の有名なる近藤勇(新撰組)土方歳蔵(新徴組)の如きあり、岡崎に来りしは、
足立清 清原一 富山彌兵衛 中西昇
内海次郎 輪堂貞蔵 外二人
なりしが、今は如何せしにやと具に語られたり。

著者聞く所に依れば、粟屋彦右衛門は、元長州出身なるも、膳所藩抱後、再脱して浪士となりたることなく。蛤御門に助鐸せしは其子達道にして、當時既に戦死せりと。知然らば粟屋は全く別人なるか、否、確に彦右衛門にして、現に濱松には、面識の人あり。著者想ふに、達道の加勢一件より、幕府の嫌疑を被り、彦右衛門、一時脱藩して、身を普大寺の慈門に隠くしたるものならん

以上は、予が親しく見聞せし所の活劇史なり、頗る趣味津々たるを覚ふ、子其れ、記憶して他日の談柄にせよと明細に語られたり

ちなみに粟屋彦右衛門に関して青山橿山はとある人物と誤認していたようだ。文政6年におきた膳所藩士平井兄弟が兄の仇の刀研ぎ屋の辰次(辰蔵)を討った事件(のちに歌舞伎の演目の「研辰もの」として知られる)の平井兄弟の助っ人であった長州の浪人のことを粟屋だと思い込んでいる。文政6年の事件の当事者が慶応元年に志士活動をしていたとはとても思えない。なにかの勘違いだろう。