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「意志薄弱」「頼みにならぬ」伊庭八郎の語る榎本武揚

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本山荻舟の随筆集の『板前随筆』(岡倉書房、昭和10年)の中に、伊庭八郎の榎本武揚に対する人物評が紹介されている。八郎の弟伊庭想太郎の記憶する兄の言葉だ。興味深い榎本評なので紹介しよう。

 

≪ 榎本武揚といへば、後に朝臣となって栄達したので、旧幕臣の一部には、あまりよくいはれなかったやうで、かの星亨を刺した伊庭想太郎の如きも、
「子供の時分なくなった兄から、榎本といふ人は、意志が薄弱だから、最後まで頼みにはならぬと聞かされたが、やはり兄は先見の明かあった」といったといふ。
 それは榎本子の創設した、小石川の東京農學校に、校長としてゐた想太郎が、學校の経営難に陥ると同時に、榎本子から突つ放されたとて、つくづく述懐したといふので、想太郎の亡兄といふのは、五稜郭で戦死した伊庭八郎だ。
 箱根の開門によって、征東軍を食止めやうとした八郎が、戦ひ敗れて榎本の艦隊に投じ、東北へ脱走することになった時、幼弟の想太郎に向って、大将の榎本がそんな人だから、到底この戦ひは、最後まで遂げられやうとは思はぬけれど、自分はただ死場所をもとめに行くのだといひ残し、悲壮な覚悟で出発したのを、子供心にもおぼえてゐたといふのだが、八郎の最期まで仕へてゐた従卒の坂田鎌吉なども、こんなことを聞いてゐたと見えて、後年まで榎本子の顔さへ見ると、
 「榎本さん、本統にあなたは利口な方だ、ますます御出世でお目出度い」などと、いやみ交りに皮肉るのには、さすがの榎本子も弱ってゐたやうだと、これは小笠原長生子から聞いた話だ。

 しかし、そんなことは兎も角も、一行が函館に落ついて、新たに文武の職制を定める時には、合衆國の例にならひ、すべて公選によらうといふので、士官以上に投票させた結果、總裁に榎本釜次郎、副總裁に松平太郎が当選したといふのだから、衆望の帰してゐたことは確かで、当時としてはもっとも新しい、頭の持主であったことも想像される。

 士官以上といふのだから、制限選挙にはちがひないけれど、兎も角も日本における選挙制度、自治制度のはじまりは、おそらくこの辺であったらうと思はれる。≫