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嵯峨 寿安

嵯峨 寿安 〈さが じゅあん〉

嵯峨寿安は、天保11年金沢市十三間町に生まれる。本名は一正。号は萩浦。

父は金沢の眼科医。祖父は大村屋といい、加賀藩直轄領・東岩瀬で伝馬屋を営んでいて、なかなか裕福な家庭であった。

金沢では藩校壮猶館で西洋医学を黒川良安に学び、漢籍を井口済に学んだ。
17歳で江戸に出て、村田蔵六大村益次郎)の塾・鳩居堂に入る。オランダ語、医学、西洋兵学などを学び、成績優秀で、たちまち頭角を現わして第2代目塾頭になるほどであった。

文久元年、金沢に戻ると藩が購入した船で外国航路の開拓を計画したり、ロシアの軍事研究に精力を注いだ。

慶応2年函館に赴き、ロシア領事館にいたギリシア正教の修道司祭ニコライに出会う。意気投合した二人はその後、3年間にわたってロシア語と日本語をお互いに教え合った。 
ニコライは、寿安をロシアへ留学生として送り込むことを加賀藩主前田慶寧に手紙を出して薦め、それが藩の認めるところとなると、明治4年、寿安は函館から船でウラジオストクへ渡り、そこから、馬車、そり、川蒸気船などを乗り継いで、目的地のペテルブルグにたどりついた。実に8か月以上をかけて明治初年に大陸横断という大冒険をなし遂げたのである。
寿安が到着した翌年には、明治政府派遣の岩倉遣欧使節団がロシアの首都ペテルスブルグに入っている。寿安は、木戸孝允伊藤博文など一行と面談している。
明治7年帰国。その後、北海道開拓使御用係、明治9年には東京外語学校の教官になったが僅か一年で退官。世に入れられず、十分に留学経験をいかすことができなかった。

明治15年東岩瀬に戻り医者を開業する。失意の寿安は近くの神社の境内で子供たちとよく遊んでいたという。
再び東京へ戻り内閣官報局に勤めたりしていたが、晩年は樺太の大泊に滞在したことが記録に残る。

明治30年参謀本部の広島師団でロシア語を教えることになり、翌年その広島で亡くなった。
享年58歳。墓は広島市八丁堀超覚寺にあるという。