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龍馬暗殺メモ その2

「龍馬暗殺の件を会津藩士に問うた男」

阿波徳島の人で日本人として初めてカラフトを一周した北地探検家•海防家の岡本監輔は、慶応3年京都に出て侍従清水谷公考の屋敷に寄食する。
京都では木屋町にいた坂本龍馬を訪問し、幕府のカラフト政策を批判し北地開拓に関して意見を交わした。


その岡本は龍馬暗殺の次の日、会津藩士秋月悌二郎•南摩綱紀と酒席を共にしている。
席上、前夜の龍馬暗殺を知った岡本は、犯人は誰なのかという素朴な疑問を秋月•南摩の二人の会津藩士にぶつけると、豈図らんや座が一気にシラけてしまった。
岡本はまさにとんだKY発言を龍馬の仇敵たる会津藩士にしてしまったのだ。

「清水谷氏の邸は蛤門の内に在り。此の門を警衛するものは会津藩に任じて、藩士の清水谷氏に出入するもの多く、同藩の南摩三郎、秋月悌二郎が嘗て蝦夷に久しく住しけるを聞き、往て南摩氏を訪ふに、大に喜び秋月氏を呼びて共に酒を飲み、余が柯太の説を問きたしりが、秋月氏が昨夜浪士あり。坂本良馬を暗殺したりといふを聞き、余は何の考へもなく、其は何藩士の殺したるにやと問ふに、其が分るものかと一言にて更に其状を言はざるなり。余は柯太のため其人を失ひたるを嘆ずるに出でて、思はず斯る言を発したるが、良馬は会藩の仇敵たるを省せず。後に粗忽の甚だしきを歎じ、秋月氏は余をいかに思ひけんと自ら咎むる計なりき。されど余は心を北地に専にするものにて諸藩の問に奔入し、国論の是非曲直を争ふに甲斐あるに非ざるを諒せられたるにや。其後にも藩邸に出入し、南摩氏を訪ひなどしたりしに、毫も嫌疑を受くる事などなかりし……」(『岡本氏自伝』)