文久三年七月、薩英戦争で英艦隊の捕虜になった五代友厚と寺島宗則は横浜で釈放されると、清水卯三郎に救護され清水の姉婿にあたる吉田六左衛門を頼って埼玉は熊谷の四方寺村で亡命生活を始める。
六左衛門の屋敷の表二階に潜んだ。後年屋敷を解体する時に二人を匿った二階からは大量の煙草の吸殻が出てきたそうだ。
その後そこから同族分家の下奈良村の吉田市右衛門方に移った。
吉田市右衛門は下奈良村の豪農で、五代と寺島を匿ったのは四代市右衛門宗親。ちなみにこの人は会津藩の広沢安任と友達だった人でその墓碑銘は広沢が書いている。
市右衛門は両人を引き受けると、自分の家は常に出入りが多くて人目にもつきやすいので、近隣の所有家屋があったのを幸い、二人をそこに住まわせたという。
明治28年の五代の伝記「贈正五位勲四等五代友厚君伝」(『五代友厚伝記資料 第一巻』)ではその家のことだろうか、潜居した家を「玉井村の医師大浜玄道の家なり」としている。玉井村は下奈良村の隣村。大浜玄道は文政時代の人なので時代が合わない。亀田鵬斎や佐藤一斎などと交流のあった人だ。
養子の安道も早逝しているのでさらにその後裔の家だったのだろうか。
熊谷市玉井の玉井寺に大浜玄道とその養子安道の墓がある。
五代は元治元年正月には熊谷を離れ長崎に向かった。寺島宗則は一度は江戸に出たがすぐに熊谷に戻りその年の七月まで「吉田市右衛門の家に在て閑散なす事なし。読書に倦む時は其主人或は其男市十郎と囲碁悶を遣る」(「寺島宗則自叙伝」)というような生活を送った。