幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

岡田盟のこと

文久三年の浪士組に参加し道中目付の役に就いていた岡田盟。
本庄宿で芹澤鴨の宿をとり忘れたためにその憤怒を買い篝火騒動を引き起こされてしまう人として名前を覚えらているかもしれない。
いかなる人物だったのか。

岡田盟、新田郡大原の人。代々の医家であった。その父親は岡田文盟(文鳴)。勢多郡下増田村の名医岡田養庵の孫で政造といった。後に医名を文盟と称した。京都の吉岡南涯に医を学ぶ。帰郷して新田郡大原に独立開業すると繁盛した。詩人としても名があり、三月盡江村晩望という作があるという。鈴木広川の「玉船集」という詩稿にも文盟の名が載る。詩作の際に用いたものか好成堂文鳴とも号した。別に名は邦、字は子彦ともいった。安政四年に没す。享年は不詳。
土地で流行った俚謡に「死なば寺泊 生きらば岡田 どっちつかずの椎名さん」というものがあり文盟の名前が謡われている。死ぬのならば殷賑を極めた寺泊に行って思うままにしろ。生きたいのならば岡田文盟に診察してもらいなさい。そのどちらなのだ椎名さん(椎名素雲のこと)という内容の謡であろう。

文盟の子供が岡田盟だと考えられる。本来はこの人も文盟という医名を継いだのだろうが志士活動を行うに際して改名したのだろう。浪士組には盟の一字名で参加している。村上秋水(浪士組参加の村上俊平の兄)の日記に後のことではあるが元治元年「岡田文盟都下に縛さる」という記述がある。村上は盟を医名の文盟の方で認識していたのがこれで分かる。

医家だった盟が尊攘思想に目覚めたのはなぜか。出身地の東上州(東毛)は新田義貞の本拠地だったため住民は新田の旧臣の末裔が多く尊王の気風のある土地柄だった(高山彦九郎を生んだ地域である)。
そこにシーボルト門下の蘭医村上随憲とその子秋水が主催した地域の医家同士の勉強会が行われる。そこが政論談義の場に発展。昌平黌出身の大館謙三郎が中心となって尊攘の思想グループになっていく。盟、村上俊平、斎藤文泰、深町矢柄、粟田口辰五郎、石原束、高木泰運ら浪士組に東毛から参加した多く人々は本来は医を生業としていたが尊攘思想に目覚めた人々であった。

その場所に池田徳太郎が安政3〜5年の間に数度遊歴してくる。言うまでもなく清河八郎の同志となり浪士組結成の最重要なキーマン(スカウティング担当)となる人であるが、芸州出身の池田はその志士歴の始まりをこの東毛への逗留でスタートしたのであった。東毛は学問の盛んな土地でもあり、伊勢崎5代藩主酒井忠寧は好学の人で学問を奨励した。領内の伊与久には五惇堂という郷校があって高井中斎や深町北荘などの地元の文人が講義をしていた。そこにゲスト教授として藤森天山が江戸から招かれ来訪したことで藤森天山の門下生と東毛の志士が人脈的に繋がる。師の跡を受けて若き池田徳太郎が東毛に遊歴し村夫子よろしく村人たちに教授した。池田はその人好きする性格でこの地の学者、文人、墨客、医家を魅了し深く交流する。東毛勤王家のリーダー的存在の大館謙三郎とは「親友に罷成候」といった間柄になっている。このとき作った人脈が浪士組のリクルート活動ために池田が東毛に再訪した際に十二分に活かされてこの地からの多くの人が参加している。
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(↑は大館謙三郎の肖像写真。長州力に激しく似ていると私は思っている)

盟は上記の尊攘人脈のもとに浪士組に参加。初期編成では道中目付となっているのだから、上州勢の中でも相当の人物として遇されたわけだ。しかしせっかく上京するもとんぼ帰りの東帰に従う。
攘夷実行を待つも幕府からの命令はなく、清河八郎は独自に横浜焼討を計画する。攘夷の軍資を名として市中の札差や豪商から献金を強請するようになる。憂慮した幕府は清河を暗殺。その翌日4月14日には村上俊五郎や石坂周造らの浪士組幹部やその連累の27名が捕縛される。馬喰町の羽生屋藤兵衛方に止宿していた岡田盟も捕らえられている。

盟はこのときは罪に問われることなく許されたようだ。浪士組は庄内藩に取扱を委任され新徴組に改称されるが、その新編成に盟も加わった。根岸友山が池田徳太郎に宛てた書簡には「石坂其外一件に付、岡田君日夜周旋無寸暇奔走」とあって、幹部捕縛事件の後処理に盟が奔走したことを伝えている。

盟はじめ東毛の浪士組参加者は清河八郎亡き後の浪士集団をまとめてくれる人物として池田徳太郎に期待する。盟と黒田桃眠は芸州に引っ込んでいる池田に50両もの大金を送ってその再出府を促している。重ねて盟は大館謙三郎、黒田桃眠の3人連名の書簡で池田の出府を繰り返し懇願。曰く「児の慈母を待つ如く待ち居り申し候」。
池田はこの懇望に対して老父の孝養のために東帰できない苦衷と50両を返金する旨を返信する。
池田を推し頂けなかったことが草莽としての浪士組の完全なる終焉だったであろう。庄内藩付属と小普請方伊賀者次席への身分への改編により新徴組隊士となった浪士たちは急速に体制側に飲み込まれていく。それを潔しとしない攘夷志向の強硬派の隊士たちは脱盟し、東毛出身の隊士も文久3年4〜6月中に多くが帰郷してしまう。

盟も結局は文久3年中には新徴組から離れたようだ。
そしてその後攘夷派の公家一条実良の家来身分を得ていたらしい。この時期一条実良は江戸に御用所なる出張所を構えていたようで、盟はその御用所附きの家士となって尊攘活動を行っていたようだ。一条家の横浜鎖港運動に関わっていたのかもしれない。
名も岡田伊織と改名していた。
そして元治元年にいかなる嫌疑によるものか庄内藩の手により捕縛され町奉行に引渡されてしまう。

『藤岡屋日記』に元治元年の2月「昨夜酒井左衛門尉人数相越、当御用処附、岡田伊織御不審之儀有之、御下知ニニテ召捕候趣」とある。
一条家では捕縛された盟を引き渡すように交渉も行ったようだ。
この件は郷里にも届いたようで、先に名前のところで参考に上げた史料だが、村上秋水の日記に元治元年3月7日の条に「大舘謙来りて云う、岡田文盟都下において縛される」という記述ある。
この検挙が尊攘活動によるものなのか、巷間言われる青木弥太郎の御用盗事件での捕縛なのか、他に何か事件を起こしたのか、天狗党とのからみなのか等々、実のところ私は分からないでいる。

盟は200石の直参旗本の青木弥太郎が中心となって行われた御用盗事件に深く関わったとされる。青木とその連累は強盗犯として捕縛投獄される。青木は過酷な拷問を耐え抜き幕府瓦解により放免されるとと、庶民から反権力のピカレスクとして人気を得て講談、新聞記事、芝居や小説、回顧譚の主人公となっていく。
青木の明治になってからの懺悔譚(回顧談)に岡田盟との関わりを語っている。青木と浪士組の人々の関わりの発端は、青木の妻の母親が小笠原加賀守の家臣清水三右衛門だったことで青木は本所三笠町の小笠原家で弓馬槍刀の教育を受けたり、一時期は小笠原邸の長屋で暮らしていたこともあった。その小笠原屋敷に京都から帰ってきた浪士組参加者が収容されたため両者に交流がうまれた。
青木は浪士組のことを
「其人数は凡そ三百人ばかりで、何れも浮浪の徒でございました。其中に伍長や頭立だ者がございましたが、私は其者等と深く結合致しました。新徴組は徳川の士気を引立てるもので、幕府の怯弱の士よりも先づ義気のあるものと云ふことを感じましたから、其者等と謀手金策などを致しました」と言い、
また盟については「浪士中の岡田盟と云ふ者が、一時小倉庵に止宿して居りましたるところより、其者と申合せて浪士の名を騙て、大分金策されました。それは私共の知らぬことでございますが、小倉庵は「彼處に斯う云ふ不正な者がある。此處には内々横濱で交易をして居る者があるから、天誅に行はなければいけない」と私共に密告して、煽動して置いては、岡田と両人蔭へ廻て、其者を脅迫して、よからぬ金を奪た様子でございます」と語っている。
青木は御用盗事件の発端を作ったのは盟であり、小梅の料亭の主人小倉庵長次郎と結託して事件を起こしたとする。

青木はまた根岸の水稲荷にあった盟の別荘で軍用金の相談をしながら酒を飲んでいると、青木が押し借りに赴いた奸商の用心棒をしていて因縁の生じたある水戸浪士と鉢合わせてバツが悪かったことなども語っている。その水戸浪士は天狗党が立て籠もった大平山に合流するために青木に金を返してもらうために訪ねてきたというが、盟の寓居には水戸系の志士が訪れるような場所にもなっていたのだ。
また盟は吉原から落籍した遊女お辰を青木の妾としての当てがってやってもいる。お辰、青木の強盗団のファム・ファタールとして妖気を放つ女として語られる。
青木の回顧談の難点は時系列が分かりにくいことで、元治元年の盟の捕縛に青木一党との関わりがどの程度関係しているのか私にはいまいち掴み切れない。

とにかく元治元年2月検挙された盟は小伝馬町の牢舎に繋がれたと思われる。しかし驚くべき挙に出る。なんと脱獄してしまうのだ。火事になった際の切り離しで釈放されると、そのまま正直には獄に戻ることを拒み逃走。そのあとは再び一条家の家士の身分のままに江戸の町に潜拠。そして慶応の末年には薩摩藩の浪士隊に本多を名乗って加わっていたようだ。
ある意味、文久3年から元治元年の攘夷のための御用盗と慶応3年末の討幕運動に絡む薩摩の御用盗という二種の御用盗事件を体験した歩んだ稀有な人物だったといえる。

そのあたりの盟の動向がわかる史料がある。慶応3年10月の幕府密偵の探索書「江戸風聞書」というもので田村栄太郎が『日本の風俗』第2巻第4号(日本風俗研究所、1939年)の「攘夷強盗青木彌太郎懺悔譚」の解説部分で引用しているものである。
抜き出して見よう。盟と長年の同志高橋亘について書かれてる。

「當地潜伏の内
 此内一人白髪の由  本 多 何 某
 日暮(里)邊住居   櫻 井 何 某
右白髪の者は必す元新徴組岡田盟にこれあるべき由、盟義は上州伊勢崎邊産にて年五十三四、丈六尺に近く、人品賤しからす、辯ひま材これある由、武藝これなし。元醫師より新徴組に入り、其後宜しからざる儀これあり暇に相成り、 一條殿家來名目にて根岸邊に罷在り候節、酒井左衛門尉手に召捕はれ入牢いたし、出火の節出奔致し、行衛知れざるものにこれあるべし。

高橋亘
元新徴組にて伊勢崎邊の産、年四十位、柔術かなりにいたし、材気これなく、靑木好(彌)太郎召捕はれ候節、出奔の者の由。

原三郎
此者、本名田中九十九にこれあるべく、年三十位、月岡一郎門人、材氣つれなく、此者江戸出奔後に、 一條殿家來に相成り、江戸に下る時、すくひの由。

右の者共、 一條殿の手にて、薩士え入組み、王政復古の議論より暴行致し居り。

〇薩藩凡そ百五六十人(上屋敷其外にて五六十人、分家屋敷に百人程)。
〇押込の初め、御藏前坂倉屋七郞兵衛方へ這入り候由。先年岡田盟押借の節も同家に越し候。」

高橋亘は出流山の挙兵に参加してその志士歴を刑死で終えるが、盟に関してはその最期を明らかにすることはできない。
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(写真は東毛の名筆家で俳人、また私塾を開く教育者であった高橋巍堂の寿蔵碑。その側面。巍堂の一子が気楽流の柔術家で浪士組〜新徴組に参加した高橋亘。彼についてもこの碑に刻されている)

群馬県太田市大原町に岡田家の墓所がある。
同家は医家を廃して桑苗商となり、戦後は米麦養蚕の農家となった。同家からは薮塚本町町議会議員や区長会長などの公職を勤める人を輩出している。
墓石は新しいものに改められており、盟の没年を明らかにすることや、いまの岡田家のなかで盟を系図上で位置づけることを私は出来ていない。

長々書いてきたが今回の記事も不明なことのみ書き連ねたものとなった。この記事を岡田盟の伝記の第一稿とするのははなはだ不十分であり僭越の極みである。他日優れた研究家の方々にここでの多くの事柄が訂正されることを望む。