幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

沖田総司まぼろしの写真

昭和50年ごろ、沖田総司の肖像写真が発見されたと一部新選組ファンの間で騒ぎが起こったという。

その写真とは如何なるものだったのだろう?

結論からいえば沖田の写真などは発見されなかった。訛伝による間違いであった。

どういうことか。

まずはウィキペディア沖田総司の項から彼の写真について書かれている部分を抜き出してみたい。

〈沖田の写真は一枚も残されていないが、ミツの証言によると、「沖田の次姉キンの文机の引き出しに彼の写真がある」と伝えられていたが、新選組研究者によると、キンの文机の引き出しを調べたが写真はなかったという。家を引越しする際、可燃ごみと一緒に処分してしまったのではないかとされる〉

という一文。注記によれば日野新選組同志会のサイトの記事に拠ったものとある。

日野の井上家(井上源三郎資料館)の2軒先の石坂家には沖田家から伝来した文机が遺されている。その文机の写真を新選組関連の本でご覧になった方も多いだろう。文机の引き出しの中に沖田総司の写真が遺されていたという言い伝えがあったというのだ。

しかしこの話はかなり訛伝と曲解が含まれている。オリジナルのネタ元にあたる必要がある。ネタ元に拠ればこの話のニュアンスが少し違うことが分かる。ネタ元というのは井上泰助の孫にあたる井上信衛が『歴史研究』183号「特集・沖田総司新選組」(新人物往来社、昭和51年4月号)に寄せた「沖田総司の文机」という一文になるであろう。
文机の伝来を示すおそらく最初の文章がこれになるかと思われる。
抜き出してみよう。
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【昭和五〇年七月の暑い日曜日の夕方だった。近くに住む石坂頼三氏が一脚の真黒くすすけた文机を持 って来られた。
 石坂氏の説明ではこの机は沖田家に伝来したものであり、沖田総司もこの文机で幼い頃勉学したのではないかと…言われる。
 面白い話なので、 石坂氏の話と私宅に残る史料や言い伝えを照合してみた。するとこの文机は次のような理由で石坂家に伝来したことがわかった。
 明治六年、 庄内で新徴組解散のため東京へ帰った沖田林太郎一家は、一時日野へ住んだが、 のち長男芳次郎の西南戦争参戦、 林太郎の死等もあり、 明治二二年芳次郎が憲兵として仙台へ赴任した
(中略)
仙台へ赴任する芳次郎は一一、二歳の卓吉を勉強のため東京へ残し、母ミツ、妻花、長男重治を連れ旅立った。この芳次郎の妻花が私ども井上家の祖父泰助の妹である。
(中略)
 芳次郎の塩釜での事業(製塩業とも漁業ともいわれる)は数カ月で大失敗となり、多額の負債を背負ってしまった。その上芳次郎は翌二八年一月二六日に急死してしまった。
 この報せをうけた祖父泰助は田甫を質地として金を借りて仙台へ急行し、後始末をして帰郷した。この時の質地は三反歩ぐらいだったという。
 芳次郎の死後日野へ引揚げた沖田家は、石坂家の東隣りに空家があったのでこれを借りて住んでいた。しかし家が狭かったため不用の荷物等は私宅や隣家の石坂家に預けておいた。
 この石坂家は私宅から東へ大野家、石坂家と並んでいて、石坂家の主婦ブンさん(頼三氏の祖母)は大野家から石坂家へ嫁入りした人で、沖田家へ嫁いだ花とは子供の頃から隣合った家で育ち、小学校の同級生であったため非常に仲が良く、ブンさんも嬉んで荷物を預かってくれた。
 沖田家の日野での生活は七年ほど続き、明治三四年頃立川へ移り住んだ。この時不用になった古い文机は石坂家へ御礼に進呈された。立川へ移ってからもブンさんと花の交際は続き、花は私宅へ用事で来た時も帰りには石坂家へ寄り話し込んでいった。花には死ぬまでプンさんが幼なじみの良い友達だったのであろう。
 さてこの文机だが、素材は杉板で、甲板の両端に筆返しがつけられており、 板脚で両側にかんたんなくり型がほどこされ中央に亥の目が抜かれている。中央に六センチほど深さのある引き出しがつけられている。
 甲板は長さ七五センチ、巾三一一センチ、高さは二〇.五センチだが高さはこの机が作られた時より少し切り、低くされたと思われる。全体に真黒くすすけている上、甲板には誰のいたずらかきりか小刀であけられたような穴が五つほどあり小さなきずが一面にある。引き出しを抜いた甲板の裏に□□□年、三月廿八日と書かれているが、年より上は引き出しの出し入れのため擦れて完全に消えている。 引き出しの奥板の裏にすすけて板が黒くなっているが「をきん女」とあまり上手でない字で書いてあるのがかすかに読みとれる。
 この机は手法、および全体の古さから幕末かそれ以前に作られたものであることがわかり「をきん女」の落書から、沖田総司の姉きん関連あるものと思われ、弟の総司もこの石机で勉強したものであろうことが連想される。
 石坂ブンさんもこの机について「沖田家の机である」と孫の頼三氏や清治氏に語り残されている。
「こんな古机がと思ったが、おばあさんが沖田の机だと話していたので棚からおろしてみたが、沖田総司にも関係があり大切なものだんにったら、大事に保存しておきましよう」と石坂頼三氏は持参されたときより大切そうに机を持ち帰られた。
 またこの文机の引き出しに入っていたものか、総司の写真が石坂家にあり、昭和の初め頃ある新聞社がこの写真を借りに来たという話を谷春雄氏が聞き込み、石坂氏にせがんで天井裏まで探してもらったが、昭和四〇年頃の改築の時に他のゴミと一緒に庭で燃されてしまったものか遂に発見できなかった。昨年この話を総司ファンの人にどう聞き違えられたものか、「日野で沖田の写真が発見された」と騒がれたらしい。 「とんだ話で…」と当の谷氏は苦笑していた。】

ブログ冒頭に沖田の写真が発見されたと騒ぎなったとことがあると書いたのはこのことである。
そして一読してもらえたら分かるように、石坂家に沖田家の文机が伝来していたことと沖田の写真が石坂家に残っていたことはセットの話ではない。
石坂家に沖田の写真が遺っていると聞いた谷春雄が石坂家に問い合わせてくまなく探してもらったが遂に見つからなかった。見つからなかった理由として昭和40年ころの石坂家の改修の際にゴミと一緒に燃やされてしまったからかももしれないと谷は推測した。そしてその写真が石坂家に遺されたのは文机の引き出しに入っていたからものかもしれないと推測に推測を重ねているだけの話なのだ。

整理しよう。
石坂家に沖田の写真は遺されていたという話があった。ただしその写真は沖田家の文机の引き出しにあったかものかどうかは分からない。文机の引出しに偶然に残置されたものでなく写真は写真としてちゃんと遺されていた可能性がある。しかし結局実物は見つかっておらず、ないのではあればゴミとして燃やされたのかもしれない。つまりこれがネタ元の井上信衛の文章から読み取れる最大限の情報なのである。

もとより伝聞要素の強い話、というか伝聞要素しかない話で、実物の写真については何一つ明らかななものがない。つまりこれを事実であったとは積極的には思えないのだが、唯一沖田の写真が残っていた可能性があったとすれば、この話の石坂家に伝来した写真がそれであったであろう。沖田総司まぼろしの写真だ。

近藤勇は幕末の京都で写真を撮っている。谷万太郎が大坂屋与兵衛で撮った写真もある。新選組隊士のうち幕末の京都で撮影された写真はこの二人のものであるが、当然その他の隊士も幕末の京都や大坂の写真師のもとで写真をのこしていた可能性はある。沖田の写真もまた同様であろう。

※沖田の肖像にについては沖田要をモデルとした肖像画や偽写真として有名な原康史『激録 新撰組』の表紙の写真(ベアト撮影の武士モデル写真)などがあるが、それらは話題にされつくされている感があるので今回は(『激録 新撰組』の表紙だけ掲げるが)触れないでおく。
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