幕末 本と写真

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沖田総司と滝沢馬琴をつなぐ一族

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釣洋一先生のご研究によって、いま私たちは「滝沢馬琴沖田総司は親戚」という歴史の不思議な縁を知ることができる。このことは新選組に少なからず興味をもつ私などにとっては大いなるよろこびだ。   

 

先年、その滝沢馬琴沖田総司を系図上につなぐ一族、真中家の墓を埼玉県加須市川口の曹洞宗西蓮寺に訪ねてみた。   

 

真中家は遠祖を源頼政の家臣 猪隼太資直にもつ家で、大内蔵堅光という人のときに川口村に移住して真中を名乗り、かの地の名主となった。   

 

真中家六代は仁蔵(全直)という人物で、写真はその墓石である。「岩松院全哲直峯居士」と刻されている。寛保3年69歳にて没。   

 

この仁蔵の二男が興吉で滝沢家に養子に行った。その孫にあたるのが滝沢馬琴である。  

 

 仁蔵の六男で中野家に養子にいったのが、中野伝兵衛宗元。このひとの曾孫 中野伝之丞由秀(越後三根山藩士)に嫁いだのが、沖田総司の次姉キンである。   

 

せっかくなので仁蔵の他の子供のことも書いておくと、長男は理左衛門(恒直)といい、江戸に出て代官の手代になり、所々任地に赴いていた。嫡男でありながら郷里に帰ることなく越後で客死してしまう。   

 

私が興味をもったのが八男の隼太(親則)という人だ。 

少年のころ囲炉裏に落ちて顔に火傷を負い容貌奇怪であった。そのために他家へ養子に出ることもなく、長兄が他郷にあることもあって隼太が家事を執って真中家をよく守った。質素倹約に努めて財をつくり、傾きかけていた家勢を回復したのはこの人の功であったという。 

父仁蔵の死後は長兄の理左衛門が客死したこともあって、家督を継ぐのは自分であろう思っていた。しかし理左衛門の子祐蔵が帰郷して、正嫡であることをもって家督を主張したため、泥沼の争いとなり、ついに訴訟になってしまった。係争中に祐蔵は死去したが、祐蔵の弟林蔵が再度隼太を訴えて、天明3年、ついに隼太の敗訴となってしまい、咎めを受けた隼太は川口村を追放されて江戸に去った。 

隼太の長男が真中幸次郎で、神道無念流の剣客である。その幸次郎の娘というのが中野家に嫁いでいたことがあったのだが、離縁となっている。離縁にならなければ、総司の姉キンのお姑さんになっていた筈だ。 

 

真中幸次郎は本所石原の碩運寺に葬られたというが墓は現存していない。   

 

 

加須の真中家は12代までは同所にあったが、第一回衆議院選挙に当選した13代真中忠直のときに東京に移った。真中家13代以降の墓は小石川の深光寺にあるそうだ。