幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

幕末のイケメン

北白川宮能久親王と清水谷公考や酒井忠篤たち

名刺判の鶏卵写真。明治6年か7年の撮影だろうと考えられる。留学先のベルリンで写された北白川宮能久親王を囲む公家・大名の子弟らの写真。『海外における公家大名展』(霞会館、1980年)や『坊城俊章 日記・記録集成』(芙蓉書房出版、1998年)といった図録や本…

江川英武の写真

最後の韮山代官だった江川英武の鶏卵紙名刺版の写真。その容姿に「幕末のイケメン」というタグをつけることに異論はないだろう。兄江川英敏の死により幼くして江川太郎左衛門家を継承し韮山代官となった英武。維新後は代官所が韮山県に移行するとそのまま知…

酒井玄蕃 晩年の写真

その容姿を大山格之助に「容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年であろうとは…」と称された酒井玄蕃。 酒井玄蕃の写真についてはかつて2回ほど記事にしたことがある。 酒井玄蕃の写真 - 幕末 本と写真 酒井玄蕃の写真 その2 - 幕末 本と写真今回は酒井…

土方久元に間違われた土方歳三の肖像写真

土方歳三の肖像写真が明治初期にいわゆるお土産写真として土佐藩の土方久元と間違われて販売されていたという話がある。 子母澤寛が『新選組遺聞』(萬里閣書房、1929年)の巻頭口絵の土方の肖像写真の説明文で以下のように書いていることがネタ元と考えられる…

蝦夷共和国の面々の写真

「蝦夷共和国」の面々のおなじみの写真の複写である。 戦前の五稜郭で絵葉書代わりのお土産として売られていた写真ではないかと推測している。 榎本武揚の写真がないのは、なぜか榎本だけはサイズ違いの絵葉書大になっているため。そちらもいつか紹介してみ…

明治2年横浜、木戸孝允の写真

木戸孝允はその生涯で数多くの肖像写真を残している。 自らの容貌に自信があったため写真を残すことを好んだのだろうか。だとしたら、ややナルシスティックな人物像を感じる。 木戸家の後裔に伝わった「旧侯爵木戸家資料」は国立歴史民俗博物館に寄贈され、…

井野左近春房

井野左近春房 慶応元年大坂心斎橋の中川信輔の写場で撮られた肖像写真。 井野家は三河以来の譜代の幕臣。 左近は小十人格、歩兵指図役頭取を勤めたという。江川塾で砲術、講武所で洋式調練を学ぶ。幕府の陸軍人として慶応年間は将軍上洛にあわせて京都大坂へ…

岩瀬忠震

岩瀬忠震には写真が残っている。 英国にあるヴィクトリア&アルバート博物館所蔵のものだ。安政5年、日英修好通商条約交渉の英国側の使節エルギン卿の秘書であったウィリアム・ナッサウ・ジョスリンが撮影した幕府側交渉委員7人の中にその姿が収まっている。…

箕作麟祥

『露伴全集』第5巻(岩波書房、1951年)に「幕末の政治家」が収められている。幸田露伴が明治30年に発表したもの。焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上のお香・反魂香を用いるという体で幕末の大名や幕臣の容姿、人となりを紹介する興味深い…

熊谷勤吾

日田にあった西国筋郡代。幕末最後の郡代を勤めたのが窪田治部右衛門鎮勝であった。元治元年から慶応4年の肥後落(郡代の逃亡)までの5年間にわたり九州の幕府領を統治してきた。私は窪田治部右衛門のことは幕臣の中でも存在感のある注目すべき人物だと思っ…

佐賀藩士 亀川新八

佐賀藩は三重津海軍所が設置されるなど薩摩と並ぶ海軍藩として知られる。そんな佐賀出身でありながら陸軍に進み佐賀人初の陸軍大将になったのが宇都宮太郎である。 宇都宮太郎は文久元年に佐賀藩士亀川新八貞一の長男として生まれた。父の死による御家断絶に…

三世 柳亭種彦の佐幕

「明治最初の文壇小説家」といわれる三世柳亭種彦こと高畠藍泉はイケメンというよりもハンサムという言葉が似合う容姿だ。 「種彦氏は写真にも見える通り痩ぎすな苦味走つた風貌、性質は稍や神経質の勝つた人であつた。稍や強情な処もあつたが友情に厚く世話…

高知県士族 岩田正彦

昭和2年発行の福島成行『征韓論餘聞 赤坂喰違事変』という本から。 明治7年1月、赤坂喰違坂で岩倉具視の暗殺を企て襲撃した九人の中の一人、高知県士族 岩田正彦。斬首となった。

山田顕義

明治4年、米欧を歴訪する岩倉使節団の中に少年みたいな人物が加わっているのを見つけて欧州人は驚いたそうだ。 山田顕義のことである。 「顕義、時に歳未だ三十に満たず、矮小にして白皙無髭なり、欧人、皆怪み問ふて曰く 日本には少年の将官あるやと。」

美少年すぎてしまった福岡孝弟

藤次と名のっていた若いころの福岡孝弟は土佐藩中一ともいわれるほどの大変な美少年だった。その美貌ゆえにとんだ災難にあったことがある。壮年の藩士8人に山に連れ込まれ強姦された(されそうになった?)というのだ。 荘司晋太郎『海南愛国民権家列伝』(明治…

西山尚義

西山 尚義 「是れ西山尚義が肖像なり。眉目清秀、風貌温乎たるを見る。」 「通称謙之助、弘化二年四月、可児郡久々利の旗本千村氏の侍医西山春成の家に生る。文久三年正月、千村氏の中小姓となり、側役たり。慶応二年三月仕を辞して江戸に遊び、剣客斎藤弥九…

土方歳三を「斗筲の小人」と評した遠藤文七郎

奥羽越列藩同盟の諸藩が次々に新政府軍に恭順する中で、同盟の盟主だった仙台藩も明治元年9月10日の評定において主戦派が斥けられ、遂に藩論は降伏へと変化することとなった。この事態を憂慮した榎本武揚は、12日に土方歳三を伴って仙台城に登城し抗戦を続け…

飯田 節

飯田節 福知山藩の重臣。夙に藩政改革を志し、慶応二年目附役、用人役を経て中老となり、藩政に参与し、傍ら藩校惇明館総裁を兼ね、譜代藩中にありて、尊王の大義を唱え、諸藩の志士と往来し、慶応三年十月二十二日、京都圓山に於ける志士の会合に列し、帰途…

幕府海軍一等士官 矢作平三郎

幕府海軍一等士官 矢作平三郎 「矢作平三郎(後、沖麿)は古河藩土井侯の世臣(禄百石)矢作小一郎の三男にして天保五年甲午歳生る、夙に勝海舟の門に入り幕府の海軍教習所に学び、累進遂に軍艦役一等士官となり、回天號に次将たり。明治二年三月廿五日宮古湾に…

松平源太郎の写真

2014年にNHKの番組がきっかけで発見された慶応3年11月の龍馬直筆の書簡(草稿)。大政奉還の後、越前を訪ねた龍馬が帰京後に後藤象二郎への報告のため記したもので、そこには福井での三岡八郎と龍馬の会談に越前藩の立会人として同席した松平源太郎の姿も活…

嵯峨 寿安

嵯峨 寿安 〈さが じゅあん〉嵯峨寿安は、天保11年金沢市十三間町に生まれる。本名は一正。号は萩浦。父は金沢の眼科医。祖父は大村屋といい、加賀藩直轄領・東岩瀬で伝馬屋を営んでいて、なかなか裕福な家庭であった。金沢では藩校壮猶館で西洋医学を黒川良…

花房義質

黒瀬義門編『子爵花房義質君事略』(東京印刷、1913)『子爵花房義質君事略』はゆまに書房で 2002年に日本外交史人物叢書の一冊として復刻出版されたが、やはり図版の綺麗さをとるなら原本を持っておきたい。 口絵写真から花房のイケメンぶりが伝わってきま…

松平容保 その2

松平容保の名刺版鶏卵写真。

桑名藩士 瀧 安良

瀧 安良 。桑名藩士。嘉永六年桑名に生まれる。通称鐵次郎。父は太右衛門、母はつね。 六歳にして父を失い家を継ぐ。母によく仕えた真面目な少年だったという。十六歳、戊辰の騒擾に際しては青木市左衛門隊に属し照源寺にて謹慎。明治二年東京に出て謹慎中の…

五代友厚の写真

五代友厚の名刺版写真。コンディションが悪くて恐縮です。

酒井玄蕃の写真 その2

酒井玄蕃の写真をもう一枚。あまり知られていない写真かと思います。後列右から二人目が酒井玄蕃です。「明治四、五年頃 酒井忠宝公近習並周旋方ト東京浅草ニ於テ撮影」前列右より 大島久弥 犬塚勝弥 酒井忠宝公 栗田元輔 伊藤吉太郎後列右より 神戸善十郎 …

町田久成

薩藩英国留学生のリーダーであり、東京国立博物館の創設者でもある町田久成。桐野作人さんは『さつま人国誌』で幕末薩摩藩きってのイケメンとおっしゃっている。町田には遁世の志向があり、晩年は園城寺(三井寺)の塔頭光浄院の住職となった。そこもカッコ…

後藤直彦

後藤直彦という人物の肖像です。知り得た範囲の略歴は豊後の岡藩の士。 安政三年生る。 文久元年藩校由学館に入る。博覧強記の誉藩中に高く藩主より白銀三百疋を賜る。 慶応元年英式操練を学ぶ。 明治元年徒士隊に編入、また疾撃隊一番隊を命ぜられる。 明治…

酒井玄蕃の写真

戊辰戦争では新政府軍に連戦連勝して鬼玄蕃と怖れられた庄内藩の酒井玄蕃。 薩摩藩の大山格之助は維新後に東京で玄蕃に会った際、「容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年であろうとは…」と驚いたそうです。内田九一の写場での一人写しの写真は有名か…