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「新撰組の隊員 杉山久次郎墓」

『伊勢崎史話』第10巻8号〈通巻112号〉(伊勢崎史談会、昭和42年)に菊池宗吉「今泉八幡宮の鳥居の額」という短い文章が載っている。

その文の後半部分に新選組隊士の墓を見つけた旨の報告が載っている。

大変興味深い。

以下に引用してみる。

 

【〇新撰組の隊員杉山久次郎墓

 

 前の倉林郡蔵の墓を調査中に前から耳にしていた新撰組隊員杉山久次郎の墓をみつけたのである。以前からきいていたがようやくその機会を得たのである。墓は小さいが三角型の傘を載せている。 
 正面に徳昌院殿義山禅忠居士 
 左側に 
  上野国那波郡芝街公立小学校旧教員
   東京 府士族
      杉山久次郎墓 
 
 右側に 明治十年丁丑十月十一日    

 とある。歿年月日であろう。どのような経緯で当地方に来ていたのであろうか、とにかく石崎五郎兵衛氏、旧村長石崎牧太郎氏先祖の代にお世話になっていた模様である。
 どうして迷い込んだものかその由を知る入はもう亡くなってわからない。どなたか存じている方は御教示願たい。

 

という一文。ちなみに冒頭に出てくる倉林群蔵は安永年間の伊勢崎藩士。

さて、この新選組隊士と伝わる墓。気になったので探してみた。幸いなことに現存していた。

私は新選組隊士の名前は有名どこの人しか知らない。

杉山久次郎の名前を見ても全然ピンとこなかった。なので相川司『新選組隊士録』(新紀元社、2011年)を開いてみたのだが、残念ながら杉山久次郎の名前は出てこない。

杉山姓の人物はただ一人、初期の在隊者に杉山腰司がいた。同書によると杉山腰司は文久3年4月ころ壬生浪士組に参加。同年5月25日の隊士名簿に載るが翌月の名簿には未記載。新選組の隊名になる前に早期離隊したようだ。人物像はまったく不明。墓に眠るのは果たしてこの人なのだろうか。

 

まあ、壬生浪士組時代の人を新選組隊士とは伝承しないのではという問題はある。杉山腰司の線は薄いのかもしれない。

だれか別のちゃんとした?新選組隊士が明治に入って名前を変えて上州で教員をしてこの地で亡くなったのかもしれない。

 

ありがちな間違えとして新選組と新徴組を混同してしまってるパターンは考えられないだろうか。杉山姓の新徴組隊士には文久3年の上洛浪士組から参加している杉山弁吉とその子供の杉山音五郎の父子がいる。杉山弁吉は新徴組在隊時に江戸で亡くなり長子の音五郎が父の跡を継いでいる。音五郎は庄内入りし、戊辰戦争後は松ヶ岡開墾に従事。明治3年酒井忠篤の鹿児島行(兵学修練のために家臣70余人を引き連れた)の選抜メンバーにもなっている。

その鹿児島派遣団を写した写真が荘内史談会の写真帖に載っている。

この中にもしかしたら杉山音五郎も(同じく選抜された千葉弥一郎や分部彦五郎など旧新徴組隊士と一緒に)写っている可能性がある。杉山久次郎はその杉山音五郎の後の世の姿なのだろうか?

宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波現代文庫)の浪士組・新徴組隊士出身地別一覧表の杉山弁吉の箇所に音五郎は明治7年7月に東京府に貫属替したとある。東京府士族ということには矛盾しない。

 

ちなみに杉山弁吉は埼玉県比企郡吉見町一ツ木の出身。荒川右岸の土手沿いにある集落だ。

 杉山家はこの地の名主原家の分家筋で、元禄年間に原家の屋敷門前に別居したのを始まりとして十数軒にまで繁栄したという。 
集落の共同墓地に行ってみると杉山家の墓が一軒ある。 
杉山弁吉や音五郎の墓碑はない。真鏡道純信士という戒名の明治29年に亡くなった杉山吉五郎という人の墓碑があった。音五郎と名前が似ている。似てるだけだろう。 

杉山家の本家筋の原家とは武田信玄の家臣で鬼美濃とあだ名された原美濃守虎胤の後裔とのこと。 武田家没落後、鬼美濃の孫の原勘解由良房とその息子右馬之介は信濃から武蔵国松山(東松山)に移り住み、文禄年間にこの地の山林を伐開して横見郡箕田郷一ツ木村を草創し土着したという。 

原家は剣術も伝わる家系で13代当主の原照胤は馬庭念流の剣術家でもあった。
原家は原武館という剣術の道場を開いていた。杉山弁吉も原家に剣術を学んだことと思われる。 

以上余談。

 

伊勢崎史談会は同地域から上洛浪士組や新徴組のメンバーを何人も出しているため、会誌『伊勢崎史話』にはそれらの人々に関する報告を何篇も載せている。伊勢崎史談会員は新徴組と新選組の両者の関係性とその違いにはかなり自覚的だったであろう。だとすると単純に隊名を間違えたとは思えない。伝承として新選組の名前はあったのかもしれない。

 

ちなみに箱館戦争に参加した人の中にも杉山姓の人はいる。

彰義隊の中にも杉山姓の人はいる。

戊辰戦争を旧幕府側として戦った人という共通項で新選組と混同された可能性もあるかもしれない。やや強引なことをいえば、それらの人々もこの墓に眠る人の候補者の中にも入ってくるであろう。

 

いずれにせよ、昭和42年に菊池宗吉が抱いた疑問は今日になっても続く。

杉山久次郎という人物について

「どなたか存じている方は御教示願いたい」。