幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

坂本龍馬

元京都見廻組・中川四明の書いた龍馬暗殺

明治時代の京都の代表的俳人だった中川四明。本名は重麗。別号は紫明・霞城。東大予備門教授、京都日の出新聞編集を経て大阪朝日新聞に勤めた。正岡子規と親交があり、満月会を興し新派俳句興隆を促した。 その四明は嘉永2年に京都町奉行与力下田耕助の次男…

龍馬の勝海舟への入門時期について

坂本龍馬は文久2年の秋に勝海舟もとに入門したという通説は、いまでは次のような理解になりつつある。(菊地明『クロニクル坂本龍馬33年』など) それでいいのだろうか。 文久2年12月5日に龍馬と間崎哲馬、近藤昶次郎は越前藩の常盤橋藩邸に松平春嶽を訪ね…

お龍がもっていた龍馬の写真

明治三十二年十一月『土陽新聞』に「千里の駒後日譚拾遺」と題して連載された川田雪山(瑞穂)によるお龍への聞書があるのはご存じの方も多いだろう。当時お龍が所蔵していた坂本龍馬の肖像写真に関する証言が含まれる。 その部分を抜き出してみよう。 ◎龍馬の…

原田左之助は龍馬と別府温泉に入ったのか

明治17年の11月の『東京自由新聞』第735号の雑報に「二宮新吉傳一夜説」という記事が載った。伊予宇和島の志士二宮新吉(呉石)の事歴に関する投稿記事で、投稿したのは二宮新吉を知る東京麻布に住む青木知友と名乗る人物。 この記事に興味深いことが書かれ…

松平源太郎の写真

2014年にNHKの番組がきっかけで発見された慶応3年11月の龍馬直筆の書簡(草稿)。大政奉還の後、越前を訪ねた龍馬が帰京後に後藤象二郎への報告のため記したもので、そこには福井での三岡八郎と龍馬の会談に越前藩の立会人として同席した松平源太郎の姿も活…

龍馬暗殺メモ その2

「龍馬暗殺の件を会津藩士に問うた男」阿波徳島の人で日本人として初めてカラフトを一周した北地探検家•海防家の岡本監輔は、慶応3年京都に出て侍従清水谷公考の屋敷に寄食する。 京都では木屋町にいた坂本龍馬を訪問し、幕府のカラフト政策を批判し北地開拓…

知られざる安政五年の坂本龍馬

愛知県岡崎市にある三河武士のやかた家康館という郷土資料館が発行している図録『岡崎藩長尾家と西洋砲術』 に安政五年の龍馬の動向が分かる史料(岡崎藩の西洋砲術家長尾錬次郎興寧の日記「萬代記」)が翻刻されています。そこには江戸での神道無念流の剣術修…

龍馬暗殺メモ その1

「たとえば高台寺党説」平戸藩出身で島根、新潟、滋賀の県知事や元老院議官、貴族院議員を務めた籠手田安定は「牧民偉績」(未刊)という自伝を残している。 籠手田が生前友人の北川舜治に自記を託し北川が整理執筆したものだ。 その中から籠手田が慶応3年に…

道路拡張前の河原町通り

龍馬の殺害された近江屋が面していた河原町通りは、当時は現在と違い道幅の狭い通りであったことはご存知の方も多いと思います。さて、具体的にどれくらいの道幅だったのか?道路拡張前の河原町通りの写真が『京の町並み 写真で綴る百年』に載っています。四…

坂本龍馬と写真を交換したこと

海援隊士だった関義臣が大正12年に発行した漢詩集『秋声窓詩抄』の中に坂本龍馬と写真を交換っこしたという回想があります。 「慶応三年丁卯春、余与阪本龍馬後藤象二郎同在長崎、互写真像交換。而二氏真影仍在於余手、恐其経久磨滅、複写代筆画、縦大尺余、…

龍馬と酒

坂本龍馬は酒が飲めたのか?酒が好きだったのだろうか? 忘年会シーズンがやってきたので、ちょっと考えてみようと思います。明治期の外交官、安藤太郎は幕末期には幕府の海軍操練所、陸軍伝習所を経て幕軍の騎兵となり、さらに榎本艦隊に投じて宮古湾の海戦…

坂本龍馬の檜垣逸話をサルベージしてみる

千頭清臣の『坂本龍馬』(博文館、大正3年)は龍馬の様々な逸話を掲載していて龍馬伝説の元ネタとして後年諸書に引用される名著だ。中でも非常に有名な龍馬の逸話に、龍馬の嗜好が長刀→短刀→ピストル→万国公法に変わったというエピソード、檜垣逸話がある。 …