幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

幕府軍艦 富士山

アサヒグラフ』(朝日新聞社)は1968年9月に「われらが100年」という増刊号を発行している。

維新から昭和までの歴史100年を写真で振り返るという新聞社系の出版物にありがちな内容のものである。

明治維新から100年なのはもちろんだが、その年の秋に東京百年記念祭が催されるのを受けての企画になる。東京百年祭は10月1日の記念式典を中心に各種のイベントが行われた。美濃部亮吉都知事池田弥三郎徳川夢声と講演会を行ったり、都民体力テスト(!)が各所で行われたりした。

 

日本橋三越では「市民三代のあゆみ展」という記念展覧会が行われた。その展覧会で展示された写真なのかは分からないのだが、この『アサヒグラフ』増刊号に幕府軍艦「富士山」の乗組員が甲板に集合している非常に迫力のある写真が掲載されている。

キャプションには以下のような記載がある。

〈「黒船」の脅威をうけてから幕府は外国に軍艦を注文してフランス式の海軍をつくった(アメリカ製の軍艦「富士山」甲板上の幕臣と水兵 1868年) 〉

 

幕府海軍は慶応2年(1866年)1月から約3ヵ月間フランス海軍の伝習を受けている。横浜に碇泊する富士山の艦上で行われたものであった。フランスの艦船ラ・ゲリエールの乗員による伝習で期間は極短期間のものであった。幕府がフランス式の海軍をつくったというのは言い過ぎで正確ではない。年号も1868年とあるがそちらも正しいのか少し不安になる。

とりあえず1868年で大丈夫だとして富士山の行動を追ってみよう。

 

慶応4年1月10日天保山沖で近藤勇土方歳三鳥羽伏見の戦いの敗残兵を乗せて11日兵庫港を出港。紀州由良を経て14日横浜に入港。負傷者を下ろし、翌15日に品川に到着した。

江戸に戻った富士山はそのまましばらく品川沖に停泊。

江戸開城を受けて幕府艦隊の一隻として4月11日に品川から館山に脱走。勝海舟の説得により4月17日に品川へ帰投。28日には観光・翔鶴・朝陽とともに新政府へ引き渡されている。

 

慶応4年の年明けから4月28日までの激動の間にこの「幕臣と水兵」の乗組員たちの写真は撮られたのだろうか。

 

軍装史研究家の柳生悦子氏はその著書『日本海軍軍装図鑑』(並木書房、2014年)にこの富士山の甲板上の写真を元にして〈慶応4年幕府海軍「富士山」艦下級乗組員、同艦小頭、同艦水夫〉のイラストと解説を載せている。『アサヒグラフ』のキャプションを疑わずに幕府時代のものという認識で著述されている。

新政府軍に接収された後の富士山は大村藩の砲銃2隊143人を乗せて8月16日に常陸平潟に運ぶと翌17日遊撃隊人見勝太郎ら旧幕軍を砲撃し敗走させている。

柳生氏が写真に写る兵士を大村藩兵などの新政府軍の兵士としていないのは理由のあることなのだろう。

軍艦や兵士の年時の比定はとても私には無理なことである。柳生悦子氏が写されている兵士たちを疑問なく幕府海軍の軍装としている点を鑑みて、このブログでは幕府時代の「富士山」の乗組員たちがその甲板上で写された貴重な写真ということで紹介する。

 

慶応4年4月時点で富士山には軍艦頭並の柴誠一以下士官5人、士官見習21人、水夫小頭5人、平水夫130人、火焚小頭4人、平火焚35人が乗船していた。幕府海軍では旗艦開陽に次ぐ有力艦であった。

 

富士山といえば、そう、あの近藤勇榎本武揚の有名なエピソードが思い出されるだろう。

 

勇の富士山丸艦に乗り込み東帰するや、一日、船室に榎本泉州と対話せしが、悄然として歎じて曰く、予の前年京師に赴く時、深く決するところあり、よって妻子は訣別し、心窃かに再会を期せざりき。

しかるに今、変故に遭遇し意らずも郷里に帰り、妻子の面に接せんと思えば、また何となく嬉しき様の心地もあり。あに慚愧の至りならずやと。

泉州、それ君の切情なるに感じ、おもむろに慰めて曰く、これ人の実情なり。人にして情なくんば、たとい文武に富むも何ぞ禽獣に異ならん。これ子が子たる所以なりと。

勇もその知己の言に感じ、これよりますます泉州を尊心せり。

丸毛利恒「近藤勇の伝」(『旧幕府』5巻5号)

 

この写真、近藤勇榎本武揚ら幕軍東帰の人々(もちろん土方歳三も)が踏んだであろう富士山の甲板が写っていると思うとたいへん感慨深い。