幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

元京都見廻組・中川四明の書いた龍馬暗殺

明治時代の京都の代表的俳人だった中川四明。本名は重麗。別号は紫明・霞城。東大予備門教授、京都日の出新聞編集を経て大阪朝日新聞に勤めた。正岡子規と親交があり、満月会を興し新派俳句興隆を促した。
その四明は嘉永2年に京都町奉行与力下田耕助の次男として生まれ、二条城御門番与力だった中川万次郎重興の養子となった人である。二条城御門番が幕府の軍制改革で廃されて京都見廻組編入されると養父万次郎は慶応2年9月に見廻組肝煎になる。当時登代蔵と名乗っていた四明も慶応3年2月に見廻組に出仕、京都見廻組表火之番次席となっている。親子二代で京都見廻組士となったわけだ。
この親子は当然ながら幕末の動乱を体験する。

中川万次郎の方は伊庭八郎と交友があり、伊庭の「征西日記」元治元年5月5日の条に名前が出てくる。江戸に帰る伊庭に餞別の扇子を贈っている。伊庭からはお返しとして菓子折を貰っている。
四明の方は俳句に興味がなくても幕末史の好きな方ならあるところで見覚えがある名前かもしれない。大正15年に出版され坂本龍馬に関する最初の史料集となった『坂本龍馬関係文書』全2巻(日本史籍協会叢書)の2巻目に同書の編者だった岩崎鏡川が自ら執筆した「坂本と中岡の死」という116ページにもおよぶ長編が掲載されている。この文章は龍馬暗殺に関して具体的に詳述された一編であるが、そこに中川四明の名が出てくる。京都見廻組に関する記述の材料として中川四明の談話が使われた旨が注記されている。しかし肝心のこの四明の談話は本文の地の文章に溶かされて叙述されているので、談話そのものだけ取り出して内容を確認することができない。岩崎鏡川の「坂本と中岡の死」は今日でも龍馬暗殺に関して必ず目を通さなければならない基礎文献であるが、せっかく集めた貴重な材料(中川四明や菊屋峰吉の談話など川田雪山採集の証言資料)が岩崎鏡川の筆を経て文章化されている。その点惜しい代物となってしまっている。青山忠正は「坂本と中岡の死」に関して〈小説を思わせるよう〉であり〈現代の水準でいう研究とは異質の文章と言わざるを得ない〉という厳しい評価を下している(『明治維新という冒険』思文閣出版)。

その岩崎鏡川の文章と比べてこちらの方が良いのではと思うものがある。宇田友猪の『板垣退助君傳記』の中の龍馬暗殺に関する叙述部分だ。板垣退助の本格的伝記でありながら長らく草稿のまま保管されていて幻の存在だった宇田友猪執筆の板垣伝は1924年(大正13年)の執筆開始から80余年の時を経て2009年~2010年に原書房から全4巻が刊行された。『板垣退助君傳記』第1巻は幕末期の板垣を描いている。龍馬暗殺部分の記述が大変整理されていてかつ詳しいものになっている。そしてその内容の確かさを担保する宇田の一文が以下のように記されている。

「著者の知友川田雪山は、先きに維新史料編纂局の委員として勤務し、特に京都に実地に就いて史料を捜索し、坂本に使用されし菊屋峰吉、並に醤油屋新助方に実話を聴取り、且つ見廻組の一人にて生存せし幕士中川重麗(霞城又四明山人と号す)の談話をも聞き、その他今井信郎五稜郭に捕はれて刑部省に審鞠せられし明治二年の口供書(内に坂本中岡暗殺の供述あり)等を参稽し、事実の真相を確めたのである。即ち此両雄遭難の記事は、主として川田雪山の提供せる材料を採用したのである」

これによれば中川四明の談話を採取したは川田雪山(瑞穂)であることが分かる。岩崎鏡川の「坂本と中岡の死」では四明への取材がどのようにしてなされたのか分からなかったが、『板垣退助君伝記』により事情が判明する。川田提供の材料をもとに、岩崎鏡川も宇田友猪も龍馬暗殺を叙述したわけだ。

叶わぬ願いかもしれないが中川四明の談話そのもの、素材そのものを読んでみたい。四明は見廻組や龍馬暗殺に関して川田雪山にどれくらいの分量でどんなことを語ったのだろうか?

中川四明が亡くなるのが大正6年。その2年前には渡邊篤が亡くなっている。渡辺は死に際して自分が龍馬暗殺の実行者だったことを弟子と弟に遺言しそれが新聞記事になっている。掲載紙は大正4年8月5日の大阪朝日新聞の全国版であった。9月1日と2日にも同紙の京都附録で続報がなされた。これらの掲載に新聞人だった四明が関わったかどうかは不明であるが、京都見廻組の元同僚だった人物の死を前にしての犯行の告白を読んで何か特別に感じ入るものはあったであろう。それに刺激されて中川四明自身が見廻組や龍馬暗殺に関して回顧的に述べたストレートな文章があってもよさそうなものではないか。

実は、代替になるようなものはあるにはある。

『日本及日本人』(政教社)は「回顧半百年」の特集号を大正6年に発行した(第714号)。大正6年は明治50年にあたり、維新から半世紀になることを記念した特別号であった。それに中川四明の〈五十年前の京都を背景〉にした小説『怪傑岩倉入道』が掲載された。同年に亡くなった四明の遺稿であった。

その小説に龍馬暗殺と京都見廻組に関する記述があることをほとんど方は知らないのではないかと思う。
中川四明という元京都見廻組士だった人が龍馬暗殺のことを実は書いていたのだ。
もちろん期待するような直接の回顧譚や回想録ではない。あくまで小説の範囲内の描写にとどまるのだが、それでも貴重な内容が含まれている。知られざる事々を読み取ることができる。

前置きが長くなったが、中川四明『怪傑岩倉入道』からその龍馬暗殺部分をそっくり抜き出して紹介しようと思う。少しだけポイントを述べておくと、

①当日の実行者として近江屋に訪れた人員を佐々木只三郎を加えない、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の6人の名前を挙げている点。今井が刑部省口書で述べていたメンバーに重なる。今井の口書が一般的に公表されるのが『坂本龍馬関係文書』の刊行される大正15年。それ以前に四明は川田雪山から取材を受けた時点で今井の口書の内容を聞き及んだのだろうか。もっとも、大正5年に催された「坂本中岡両先生五十年祭」で岩崎鏡川は記念講演を行い、今井の口書の内容を紹介している。今井が供述書で述べた人員はこの時点で世の中に明らかにはなっている。しかしその講演の時から岩崎は今井は近江屋の一階の見張りをしていて直接の襲撃者ではなかったという態度だった。それに対して四明はごくナチュラルに今井を二階に上がった実行組の一人にしている。

京都見廻組士たちの剣の実力に関する評価を記している点。桂早之助・渡辺一郎・海野弦蔵・渡辺吉太郎など。世良敏郎の養父だった世良吉五郎(名前を吉太郎と間違えて記しているが)はかなりの剣客であったこと。その養父子二人をを混同してしまっていて養父の方の吉五郎を近江屋へ向かった人物としてしまっている。敏郎は「少し読候へ共、武芸の余り無き者故鞘を残し返ると云不都合出来、帰途平素剣術を学ぶ事薄き故、呼吸相切れ歩みも難出来始末」と渡辺篤(渡辺家由緒暦代系図履暦書)に書かれてしまうほどの実力だから、四明が称えている方はもちろん世良吉五郎のことであろう。近江屋で鞘を落とし忘れた件も、襲撃に使用した新刀の刃が曲がってしまったため鞘に入らなかったから抜身を隠しながら帰ったという肯定的なニュアンスで記している。
また、刑部省の大石鍬次郎の供述書に襲撃者候補として名前が出されている海野某こと海野弦蔵についても触れられていて、海野も剣の実力者ながら龍馬暗殺に関わっていないと四明は明言している。 

③伊庭八郎の剣技についての評価。ゴーホの絵を思わせるような剣技だと評されている。ゴーホはゴッホのことだと考えられるが、ゴッホの日本での認知とその評価例として早期のものになるのではないだろうか。ゴッホを元京都見廻組だった人物が受容していたということに新鮮な驚きを感じる。伊庭の剣が「一擧一動、皆焔のやう」だという評価がまさにゴッホの画風を的確に表現しているし、それがあの伊庭八郎に重ねられているというのが二重に面白いことになっている。

④世良吉五郎と渡辺一郎(篤)の二人を番外の小見出しを立ててフィーチャーしていること。四明は渡辺篤の告白の記事を参照しており、それは「(渡辺が)此事を遺言された上は、荷更事實たることを信じたいのである」としているところかもうかがえる。四明は世良と渡辺をメンバーと認めているので、今井の刑部省口書のメンバーにプラス2人の総勢8人(佐々木を加えれば9人)という大所帯の出動だったいうことにしてしまう。はたして四明は事件の出動メンバーを正しく把握していたかどうか。かなり疑問である。

等々である。他にも文武場のついての記述など興味深い記述が見いだせるが、細々追っていくと際限がないのでもう止めよう。


中川四明著「怪傑岩倉入道」(一)~(一〇一)のうち小見出し(六九)から(七〇)までの部分が龍馬暗殺の該当箇所になる。転載しよう。


(六九)北時雨   

  霜月の中句までも、御札踊の騷ぎは尚ほ止まなかつた。此の騷ぎに紛れて長州の奴が入込のでないか、とは少し時勢の分つた人には、想像もされたので、油斷はならぬと、慕府でも浪人だの、勤王家だの、取締を厳重にしてをつた。  
何處から聞たか、見廻組の骨であった取締役の佐々木只三郎が、才谷梅太郎と變名して、土佐の阪本龍馬が、河原町三條下る醤油屋の二階にをることを探知した。 大政返上の主謀者であるので、豫て嫉んでをつたから、 直ぐに組下の股肱を集めた。その名の世に知られてゐるのが、今井信郎、渡邊吉太郎 、桂早之助高橋安太郎、土肥仲蔵 、櫻井大三郎の六人であった。  
桂は京都の新屋敷出で、才氣のあつた人だったから、佐々木に何か言含められ、他に先立て出た。他は夕刻から忍び廻りのやうに、羽織袴で、先斗町の一亭で會食し、戍刻を以て襲込む時刻としてをつた。    
一度伏見の寺田屋で、新選組に踏込れ手傷を負うた事もあるので、 常に警戒はしてゐたものゝ、町家にゐてはと危む友人の忠告も容れす、  
『何に、草莽の志士が奔走する時代は、早や過ぎ去た。何日殺されても大勢は動かない。』と、應しなかつたのだ。さもあらう、大政奉還のことも、我が意見の如く運び、永井玄蕃の役宅へも行たことがある、慕府にする好意は、天も知り、地も知り、慶喜亦知りをられるので、他は眼中になかつたのたのだろう。  
斯う云ふ覺悟であったので、例の二階で、用談を帯びて來た中岡愼太郎と火鉢を間に對坐して、談し合てをつたのだ。後の床には、春の待たるゝ梅椿の掛物が掛けられてゐた。  
處が、をかしいのは、 阪本の奇癖と謂うか。彼れは人と話しをする時、いつも羽織の紐を口にして舐るのであつた。否、舐る許りか、 その紐の末の大きな流蘇になった處の唾液に濡れてをるのも構はないでくるくる、環に廻すのだ。  
談話に熱が湧き、夢中になればなる丈け、環に振る勢ひも烈しくなるので四邊に霏々と飛ぶものも多くなる。中岡も其の奇癖の甚だ劍呑なことを知つてをるので、用心もしてゐたけれども霜月十四日の寒い のこと、何うかすると、此の北時雨に面を濡されるのであった。  
『おいおい、また君困るぢやないか、さう羽織の紐を振り廻はされちや。』   
『やあ、失政した、だが君も不覺ぢやないか、吾輩に此の湯立ての癖のあることを。』  
此時醤油屋の門前を徘徊してゐた乞食があつた。三條の橋の下を我家としてをる其徒の如く、薦を著て頬冠りをしてをつた。その 物音を怪しむ暇もなく、近江屋の猿戸の明た音に足を止め、人の出る氣配を月影に透して身を隠した。  
『何處の難肉屋が好いでせう。』  
『四條まで出やう、僕が案内をしてやらう。』  
『先生が是から一杯やられるのですから評判の好い所を敎て下さい。』  
出て行たのは、土州の岡本某と學僕のやうにしてゐた菊屋峰吉といふ少年であつた。二人の影が行き過ぎた時、彼の乞食は走り去つた。見廻組の桂であつたらしい。  
間もなく佐々木が、醬油屋の門に現はれた。案内を請ひ、  
『私は、十津川の者です、先生に内々御目に掛りたくて出ました。』 
名札には、何と書てあつたか、僕の藤吉は、何も覺らず、 
『畏りました、一寸お待下さい』 
 言ひながら、二階へ昇る、其後から隱れてをつた今井高橋の二人が尾て昇り、今井だらうか 、高橋だらうか、  一刀に斫落す。その物音を怪しむ暇もなく、渡邊桂など亂入し、 阪本も中岡も哀れ霜夜の 露と消えたのだ。 
十月の北時雨か、霜月の湯立か、 一滴 二滴、飛で梅椿の書に灑いだものがあつた。志士の血痕で、靈山に於ける五十毎祭に、人の眼を驚かし 長岡詢氏の筆であつた。  

 
 (番外) 尚ほ二人  

  阪本龍馬を殺した見廻組は前に記した六人丈けの名が世に知られてゐをるが、尚ほ同じ組に二人あつた。一人は世良吉太郎で、他の一人は渡邊一郎(後に篤といふ)二氏であつた。それが今他と別れて、成るべく人通りの少ない處を選て歸るのだ。 
『渡邊さん、お互ひに首尾能くやつては來たが、わたしは困つてゐることがある。』 
世良は見上るほど脊が高い、渡邊は低い方だつた。  
『何うなさったか。』 
『いや、實は今夜などは、好い試し時なので、先日買た新刀を持て行つたのですが、少し曲つたと見えて、何うしても鞘に収まらないのです。』 
『それはお困りでせう。』 
月影に見ると、右の手に抜た儘の長い奴を堤げ、狂言の隠し狸のやうに、袴の中へ挿れて、隠して歩いてゐるので、鋒尖が、袴の裾から覗きもするのだ。 
『大久保彦左衛門の殿中刀のやうですがそれぢや並んで歩きませう。』 
渡邊は、斯う言て、世良の右の 方へ廻り 、肩を並べるやうに食附て歩いたのだ。 
『斯うして行けば大丈夫です、然し、今は何處を通っても賑やかですね。』  
無論血は拭って あったけれども、 血腥臭い香が、袴の裾風に動くのであつた。 
此の二人の名前が、何うして洩れてゐるかは、今も尚ほ疑問である。然し世良は、桂早之助と供に、新屋敷の同心であったが、自から願つて見廻組に轉じ、渡邊一郎は、城番與力で、 一般に見廻組にさせられた時、見習勤の身であったのを召出されたのであった、それで、その地位から見ても、また撃劍に於ても、二人とも優れてをつたので、斯う云ふ場合に人選に預かることも、亦可能なので、 一郎氏が此事を遺言された上は、荷更事實たることを信じたいのである。 
今にわたしの忘れないのは、世良氏の撃劍振りである、新屋嗷の大野鷹之助の門人には、四天王ともして安藤伍一郎、富田純蔵、桂早之助、渡邊一郎を數へたが、これらを殆ど子供あしらひにしてをつたのが世良であった。無論年配も違ひ大野とは相弟子であつたので、その地位か然らしめたのではあらうが、然し、その撃劍は、特殊な性格を發揮してをつた。 
當時は、 道具まで形式が改まり、 胴などは、今と同じやうに短かいのを喜んで用ゐたに、世良は脊も高かつたからではあるが、長い行燈のやうな革胴を著け、これも脊の高いからであらうが、腰が臍の處で、くの字に折れてゐた。それに普通の呼吸に合はす 、 所調半間な行き方で相手を馬鹿にしてゐるやうだった。禪気を帚びてをるやうで、繪に喩へたら、仙崖の漫書のやうな所もあった。 
それから、渡邊吉太郎の撃劍は、大きくて、蘆雪の繪にも似通うてをらうか。尚ほ阪本殺しには、關係はないが、見廻組、 否、 元は別手組であった海野弦蔵の撃劍は、 ヌーボー式とも謂へやうか、太刀の返りの美しかつたのみか、特殊の曲線と見られもした。今一人は伊庭八郎君の撃劍で、一擧一動、皆焔のやうで、ゴーホの筆も思ひ出されるが、旗本氣質の癇癪玉は、蕭伯の畫にも喩ヘられやうか。武徳殿の撃劍を見る毎に、わたし は昔の花を思ひ出さすにゐられないのだ 。 

   (七〇) 文武場  

 阪本中岡の二名士が、前夜見廻組の手で殺された事は、町繪師の秋蓬知らうやうなく、知てもゐるべき同組の杉浦直三郎左衞門も更に知らすにをつたのだ。 その知らす同士が、今ま日暮通りを南へ、暗殺の主謀者であった佐々木 只三郎のことを話しつゝ行たも、何かの暗示のやうであった。 
『御存じはあるまい、佐々木は會津の家老、手代木直右衞門の實弟で、慕臣の家を嗣でるますのぢや、あの男が世に名を知られたは、新徴組の首領頭として近藤勇などゝ、京都へ來てゐた清川八郎を殺した一條からですぢや。』 
『左様で御座りまするか。』 
人を殺したと聞ては、秋蓬の足は進み兼たが、木帷子袴の先生は氣も付かず、  
『清川の事に就ては、わたしは能く事情を知らん、先將軍が初て上洛されるに當り、春嶽さんの建議で、江戸の浪人を集め、淸川を隊長に、京都へ差向けられたので、共の用向が濟むと、將軍の後を追うて淸川も江戸へ歸る、近藤勇は、京の事情が案せられるので、後に殘つて新選組の隊にとなる、清川と議論が合なかつたとも聞てはゐるが、 兎に角清川は其後江戸にて攘夷の軍用金と稱し、町人輩から金を出させ、酒を飲む、女郎屋へ行く、甚だ不評判でもあったので、終に幕府に忌まれ、奴はあゝしても置かれまい、殊に京都の勤王派と氣脈を通じてをる嫌疑もあったので、終に佐々木に内命が下り、赤羽根橋で、酔うて歸る所を、見ごとに一太刀でやつたので、それから重く用るられたのですぢや。』 
『然し、書も御見事になされまするさうで…。』 
『和歌はやります。けれども貴方の御望みのやうな小さい物に能く書くか知ら、唐紙に大きな字ばかり書いてゐるので、お受合は出來ぬが、兎にかくわたしが賴んで見ませう。』 
二人は佐々木の旅宿へ行くのだ。出水を下る間の筋の西の突當りの寺におつたのだ。然し生憎今日は留守であつた。松屋町の文武場へ出てをつたのだ。文武場といふのは、京都の講武所で、家茂將軍上洛後に出來たのだ。 
 江戸の講武所と同じく、劍槍の師範役は面に白紐を著け、教授方が赤紐、世話心得が藍と白との打紐で今の武德殿のやうな宏壯な建物では無かつたけれども、それでも京都では他に類のない檜板を張詰て十間餘りもあり、今堀千五百蔵が最初の師範役であつたのだ。  
 初めは所司代の書院前に假に設けられ、 土間であつたが、此の柿葺の假屋は家茂將軍が二倏城で、武術の上覽をした其の遺物であつたのだ。それが今南明りに窓が設けられ、北に一段高く役員の席が設けられ、東に總溜りの廣間があつて、學問所は北に様を別にし、荷ほ西手には銑陣の調練場もあったのだ。  
  佐々木は今日此の道場へ來て撃劍を見てをつた。諸組から非番の人達が來て、 朝から試合をやつてをつたのだ。前夜の血汐を洗つた許りの渡邊吉太郎も來てをつた、桂早之助も來てをつた、二人とも世話心得で、虎を刺し、龍を屠つて來たので 常よりも元氣に、冬も汗みどろにつて取立てをやつてゐたのだ。 渡邊は白の道具、桂は紺、胴はれは 同じやうに黒の蝋色で、武者振りも好く、殊に渡邊は大わざで人目をひいた。  
 二人が面を脱ぐと、佐々木が來てをつたので、顔を拭き拭き出て行て、他の讀むことの能ない笑ひを浮べ、『昨晩は。』と一禮した。佐々木も『昨夜は御苦勞でた。』と昨夜食たやうな顔もしないで會釋をした。 
 そこへ高橋安太郎も來て、同じ仕事をして置きながら、佐々木に一禮し、 
『只今市中で承りましたが、昨夜壬生の連中が、河原町の醤油屋へ踏込み、土藩の阪本龍馬、中岡慎太郎の兩人を殺したと申すことで。』 
『はゝあ、それは事實かな。』 
『全く事實で……』 
 腹の中で笑つてゐたらうが、竹刀の音の火を出す計りの中で、こんな話しもあつたのである。後に鳥羽の戦争で、此の三人は同じ枕に打死したが、今は大阪城に近き小橋村の心眼寺に、三士は同じ墓田で葬られ、地下に當年のことを語り合てもゐやうか。 


『怪傑岩倉入道』はこの部分の他にもまだまだ幕末の京都に関することや、見廻組の個性派・杉浦直三郎左衛門や薩摩の中村半次郎などに関する面白い記述がある。また別の機会に紹介したい。