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「逃げの小五郎」の夜明け前

桂小五郎の異名とされる「逃げの小五郎」。

実際ににそんな風に呼ばれていたのかという問題については、Wikipedia司馬遼太郎の短編「逃げの小五郎(小説)」の項に明快に答えが述べられている。引用させてもらおう。

 

【現代では様々な桂小五郎の紹介に、「逃げの小五郎と呼ばれていた・言われた」と述べられることがよくあるが、存命中や死後に残された記録・史料にそういう記述は確認されていない。また、この小説の中にも、その当時から「逃げの小五郎と呼ばれていた」という記述はない。歴史上「逃げの小五郎」と記されたのは、この小説が初めてだと推測される。したがって、「後世の小説の題名から逃げの小五郎と呼ばれるようになった」が正しい表現である。この誤解がこれほど広まったことは、司馬遼太郎がつけたこの短編小説の題名のインパクトの大きさを物語っている】

 

なるほど大いに納得できる答えだ。これ以上他言を要する必要はなさそうだ。問題は解決している。

秀逸な題名だっただけなんだ。

 

しかし、それでも、私はなぜ司馬遼太郎がこの題名を思いついたのかが気になっている。

「逃げ」って、「逃げの」って何なのだろう?

「逃げるは恥だが…」的な含意が感じられるのは避けられない。

桂小五郎の「逃げる人イメージ」ってどこから来たものなのか?

いやいや、司馬遼太郎の見事な作家性に尽きることだからそれ以外の理由なんてないだろうと思われるかもしれない。しかし、私はいくら司馬遼太郎が大作家であろうが一切の取っ掛かりもなく桂小五郎にかくまでの「逃げ」設定を付与は出来ないだろうと思っている。何か参照するものがあったのではないだろうか?無から有はそうは作れないのではないか。

 

確かに小五郎には勝海舟が『追讃歌一話』で書いている会津藩の巡邏隊に捕まったあとの例の有名な「便意もよおし逃走劇」もある。池田屋事件でも寸でのところで危機を免れていたり、禁門の変後に乞食に身をやつした逸話、その後の出石への逃亡だとかその伝記的に「逃走中」状態が多い人である。しかしそれは志士としての困苦や転じて痛快な逃走劇の部類であって、ネガティブな「逃げ恥」的な言い方をしなくても良さそうなものではないか。

 

昭和12年吉川弘文館から『殉難志士讀本』という本が出ている。この本を司馬遼太郎は若い頃に読んだか、あるいは作家になってから資料として読んだのではないか?少なくとも確実に目を通しているのではないかと私は推測している。

著者は佐藤厳近。序によるとかつて明治大学文科に籍を置いた人で、歳もまだ若く気概に富んだ一青年だという。この本は読者層を未成年(「中学生がレッスンのかたわら読んで戴きたいと思ふ」)とした維新史に材をとった小説。17章にわたって各章に殉難志士を並べて紹介していく本である。しかし方正な小伝集というわけではなく、逸話をベースとした中途半端な小説に留まっている。

史実ベースで考えた場合、史料的価値は皆無である。

 

この本の最終章が「弱かった小五郎 桂小五郎伝」と題された桂小五郎の項になっている。

そしてその章題からすでに漂ってくるのだが、ここでは桂小五郎の「逃げ」設定がかなり強調されて書かれている。目についたところを引用しよう。

 

桂小五郎といふひとは、大変強かつたやうに考へられてゐるけれど、本当はそんなに、すぐれて強いのでは、なかつたらしい。勿論、いつ死ぬかわからぬ幕末の乱世にあつて、刀を合はしたことも、すくなくはなかつたであろうが、大ていの史実の本には、みな逃げていつたことばかり書いてある】

頓智、あるひは機智ともいへるだろう。とに角、それからのち、いくたびか新選組などに狙はれたときなど、これを用ひて、ほとんど刀を以つて立ち向つたといふことはしないで、すぐに逃げ出したのではないかと思ふ】

【大便をするかと思ふと、いきなり逃げてしまつた。飛鳥のやうだつたので、隊士の面々は呆気にとられて立つたままだつたといふ。実に、逃げることはうまかつた】

【あまり逃げることばかり、上手いやうにかいたから、ひとつ、劒の方はどうであつたか、調べてみやう】 

【剽悍そのものだつた新選組の連中が、最後までつけ狙つて、討ち得なかつたといふのは、おそらく桂小五郎ひとりだけだつたらう。これからみても、たしかに刀を合はすことよりも、戦はずして姿をくらますことにかけては、たびたび云ふようだけれども、まさに、水際たつてゐたと、考へられる】

 

等々、この様な感じで「逃げ」が前面に強調されていて「逃げる人イメージ」で桂小五郎が描かれている一編である。

どうだろうか、司馬遼太郎はこれを読んでいたのではないだろうか?

この内容が頭にあったからこそあの上手い題名が生まれたのではないかという気がするのだ。

桂小五郎をあと一押しで「逃げの小五郎」と呼びたくなるものが確かにあるのだ。

「逃げの小五郎」の夜明け前だ。