幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

2020-01-01から1年間の記事一覧

清河八郎の生家

清河八郎は現山形県東田川郡庄内町清川の出身。大庄屋格斎藤家の長男として生まれた。酒造業も営む斎藤家は大変裕福な家であった。その斎藤家の写真(明治後期ころ)を本やネットで見たことがある方も多いだろう。 たとえばこちらのサイトで見ることができる。…

近藤勇の絵葉書

昭和2年11月13日、開校したばかりの関東中学校は武道大会とともに近藤勇慰霊祭を挙行する。記念の絵葉書が発行されている。近藤勇の肖像(微妙な感じのもの)と関東中学の校舎、そしてタトウ(絵葉書の袋)である。 関東中学校はいまの聖徳学園高校のこと。…

榎本艦隊をとらえた唯一の写真

「榎本艦隊をとらえた唯一の写真」とされるものがある。品川沖脱出直前、慶応四年八月十八日の歴史的な写真だという。刊本での初出は『別冊歴史読本ビジュアル版 イラストでみる箱館戦争』(新人物往来社、昭和63年)ということになるだろう。巻頭に戸高一成…

沖田総司まぼろしの写真

昭和50年ごろ、沖田総司の肖像写真が発見されたと一部新選組ファンの間で騒ぎが起こったという。その写真とは如何なるものだったのだろう?結論からいえば沖田の写真などは発見されなかった。訛伝による間違いであった。どういうことか。まずはウィキペディ…

鶴ヶ城の古写真

会津鶴ヶ城の天守を西面から見た古写真。名刺判の鶏卵写真。明治初年にお土産ものとして写真舗で販売されたものだろう。おなじみのカットである。

松平権十郎親懐の写真

文久3年、幕府は江戸市中の治安警察強化のために庄内藩はじめ13藩に市中巡邏を命じた。庄内藩では若き中老・松平権十郎親懐をその総指揮者とし付属の新徴組をもって治安護持に当たらせた。 松平権十郎の勇名は江戸市中に轟き、河原崎権十郎(九代目團十郎)と…

金玉チン右衛門こと大久保一蔵

『維新長崎』は長崎市教育會から昭和16年に出た本。維新期の長崎を平易な文体で描いている。平山蘆江が装幀しており雰囲気のあるルックになっている。 さて、その本の中に大久保利通に関する面白い話が出てくる。大久保は自らを男性の陰部に擬えた名前「金玉…

『元治甲子 禁門事變實歴談 附木戸氏之行動』

【元治甲子 禁門事變實歴談 附木戸氏之行動 洋一冊 馬屋原二郎演述 元治元年禁門事變の實況を、當時の戦闘に參加して、九死に一生を得たる後の貴族院議員馬屋原二郎(小倉衞門介)が、自己の見聞並に木戸孝允の手記書翰共他先輩諸士の談話實録等に據りて、演述…

原市之進『尚不愧齋存稿』

原市之進の遺稿集『尚不愧齋存稿』。 この本については高梨光司の解説(『維新史籍解題』)が簡潔にして明瞭なので引用させてもらおう。 【『尚不愧齋存稿』和四冊 線引泰編 水戸藩士にして、徳川慶喜の左右に侍し、その帷幄の概機に參せる原市之進(名忠敬、後…

『推轂集』

牧頼元は庄内藩士牧半右衛門の長男として弘化元年鶴岡に生まれた。到道館に学ぶ。明治8年に新潟師範学校に入学。卒業後は庄内の小学校訓導・校長に奉職。晩年は東京に出て日下部鳴鶴、芳賀剛太郎らと風交を結ぶ。書家として名があった。明治44年4月30日、68…

生駒親敬

出羽矢島藩主 生駒親敬の名刺判鶏卵写真。 この人の写真は単独で写ったものが馴染みがあるかもしれない。「最後の藩主」を特集したようなムック本でよく紹介されている。下膨れの顔がチャーミングな人。 こちらの写真は家臣二人を前に座らせて真ん中に立って…

酒井玄蕃研究誌『冬青』について

酒井玄蕃研究家の坂本守正は『酒井玄蕃の明治』稿了後すぐ、玄蕃の戊辰までの前半生の研究に着手する。そして昭和57年玄蕃の伝記研究のための会員制の個人誌『冬青』を創刊する。玄蕃自筆文書の解読を誌上に連載して読者の批判訂正を乞うとともに、新史料の…

『酒井玄蕃の明治』坂本守正の著作

幕末維新の庄内藩および酒井玄蕃の研究家だった坂本守正。その著作で私が持っているのは『酒井玄蕃の明治』『戊辰東北戦争』『出羽松山藩の戊辰戦争』『七星旗の征くところ−庄内藩戊辰の役−』の4冊である。この中でもっとも一般的なのは『戊辰東北戦争』(新…

安藤惟親『切山椒 九十三年の思い出』

安藤惟親『切山椒 九十三年の思い出』(萬葉堂出版、昭和58年)荘内館は本郷元町にあった荘内出身者のための東京の学生寮であった。 安藤惟親は明治43年に荘内中学を卒業すると上京、東京高等工業学校に学んだ。荘内館に寄宿した。 この人はスペンサー銃で装…

蝦夷共和国の面々の写真

「蝦夷共和国」の面々のおなじみの写真の複写である。 戦前の五稜郭で絵葉書代わりのお土産として売られていた写真ではないかと推測している。 榎本武揚の写真がないのは、なぜか榎本だけはサイズ違いの絵葉書大になっているため。そちらもいつか紹介してみ…

岡田盟のこと

文久三年の浪士組に参加し道中目付の役に就いていた岡田盟。 本庄宿で芹澤鴨の宿をとり忘れたためにその憤怒を買い篝火騒動を引き起こされてしまう人として名前を覚えらているかもしれない。 いかなる人物だったのか。岡田盟、新田郡大原の人。代々の医家で…

ある旗本奥方の墓

本庄市沼和田の宝輪寺に当地の名主だった卜部家の墓がある。卜部家は鉢形城主北条氏邦の臣卜部平三郎の後裔だという。北条没落後は徳川に仕え小鷹という姓を賜ったというが後にまた卜部に改めたという。そのこととおそらく関係があるのだろう、故ありてこの…

旗本 正木安次郎康房

埼玉県加須市多門寺にある観音寺に、この地を知行していた旗本正木氏の墓がある。 正木氏は家康の側室で紀州・水戸両藩の藩祖の母となったお万の方の弟の家系で一千石の旗本。 幕末期の当主は正木安次郎康房で、長州戦争に砲術世話心得として従軍。その際大…

高杉晋作は生きていた

高杉晋作は慶応3年4月14日下関で死んだわけだが、実は死んでなんかいなかった、生きていたんだ、なんてことを言ったら、さて賢明な皆様はどうお思いになるだろうか。 明治8年の12月に、生きていた高杉晋作に会ったという人がいる。土佐人の米山政人である。 …

ある会津人の殉職

埼玉県東松山市の松山神社境内には渡辺隆治という人物の頌徳碑がひっそりとたたずんでいる。会津の人。 渡辺隆治は会津藩士の子として万延元年に生まれる。幕末や戊辰の争乱をどう生きたのかは不明だが、明治10年に埼玉県に来ると四等巡査の警察官となる。勤…

根岸信五郎と藤田五郎

埼玉県戸田市本町の多福院という寺院に高さ3.7メートルにもなる巨大な石碑「根岸先生之碑」があります。 根岸信五郎資剛は長岡藩士。神道無念流の錬兵館に学ぶ。慶応元年に免許皆伝を得て錬兵館の師範代となる。北越戦争では官軍との戦闘で重傷を負う。明治…

平尾道雄の戦前の著作

平尾道雄の戦前の著作を蒐めています。ネットで買ったものは一冊もなく古本屋と古書展を何十年とコツコツ歩いて手に入れたものばかりです。 いまのご時世ならこれらの本はネットを駆使すればたちどころに蒐めることが出来るでしょう。この中で一番高額だった…

姫路藩士 小林順則の肖像

太田臨一郎の『日本の軍服』(国書刊行会、昭和55年)にも転載掲載されているのでそちらで見たことあるかもしれません。 元ネタは『風俗志林 』第一巻第八号(風俗研究会、明治45年)の口絵写真です。小林彦次順則、姫路藩兵嚮導役。明治二年九月六日撮影。…

屋代義雄のこと

埼玉県羽生市の建福寺には田山花袋の小説『田舎教師』の主人公のモデルとなった小林秀三のお墓がおりますが、同寺には屋代義雄という人の墓碑もあります。 屋代義雄は南部の出身で、旧名を高田立春という医師でした。幕末江戸に出て佐藤舜海や松本良順につい…

五代友厚と寺島宗則の亡命先

文久三年七月、薩英戦争で英艦隊の捕虜になった五代友厚と寺島宗則は横浜で釈放されると、清水卯三郎に救護され清水の姉婿にあたる吉田六左衛門を頼って埼玉は熊谷の四方寺村で亡命生活を始める。六左衛門の屋敷の表二階に潜んだ。後年屋敷を解体する時に二…

本庄宿篝火事件は解明されたのか

文久3年2月10日、その2日前に江戸を発した浪士組は中山道本庄宿に宿をとった。そこで起きたとされるのが芹澤鴨による本庄宿篝火事件だ。 この事件に関しては菊地明氏に「本庄宿篝火騒動の真相」(『ここまでわかった!新選組の謎』新人物文庫、2015年)があ…