幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧

若き日の馬場辰猪

長崎でフルベッキに学んでいたころの若き馬場辰猪。左から二人目だ。 上野彦馬の写場。馬場は土佐人だから撮影したのは井上俊三かな。 『明治名著集』〈太陽, 臨時増刊第13巻第9号〉(博文館, 明治40年) の口絵写真。この写真だけが目当てで買ってしまった。

勝海舟写真についての新聞記事

以前古本屋で買った楫東正彦『海舟言行録』(光融社、明治40)という本に新聞の切り抜きが貼り付けてあるのに気が付いた。裏面は「ローマ五輪日本はどこまでやれるか」という記事になっているので、その時代(1960年くらい)の新聞記事なのだろう。 石黒コレクシ…

沖田総司と滝沢馬琴をつなぐ一族

釣洋一先生のご研究によって、いま私たちは「滝沢馬琴と沖田総司は親戚」という歴史の不思議な縁を知ることができる。このことは新選組に少なからず興味をもつ私などにとっては大いなるよろこびだ。 先年、その滝沢馬琴と沖田総司を系図上につなぐ一族、真中…

子母澤寛の祖父は幕臣だったのだろうか?

子母澤寛の祖父というのは微禄の御家人であり、上野彰義隊に参加し、敗れたのち箱館でも戦い降伏。士籍を返還して札幌近郊の開墾を経て厚田村に流れ着いて網元や貸座敷業や旅館業を営み、土地の顔役として生涯を終えたという。 この祖父に盲愛にも似た可愛い…

石黒敬七『蚤の市』『巴里雀』

私は古写真をぽつぽつ蒐めている。その貧弱なコレクションを開陳するのは恥ずかしくて大いに躊躇われるのだが、それでも勇気を振り絞ってこのウェブログでも所有する古写真を紹介することもある。 古写真コレクターの大先達、巨星たる石黒敬七。その万分の一…

明治40年8月5日の報知新聞「近藤勇」

キリスト教の伝道者で明治女学校の創立者で校長、また小諸義塾を開設した木村熊二は明治教育史、文学史上に語られる人である。 しかし私にとってはこの人は幕末維新史の人である。 木村熊二は但馬出石藩の儒官の子として生まれ昌平黌に学び幕臣の家に養子と…

新選組 成合清の叔父さん

日光街道旧粕壁宿(春日部)の東陽寺に旧桑名藩士 浅野蕉斎の記念碑が建っています。 文政7年に桑名で生まれた浅野は、藩の御側役や勘定頭も勤めた優秀な藩士でした。藩主が京都所司代となり藩内多事を極める中、会計の任にあたりよくその職に尽くしたといいま…

三世 柳亭種彦の佐幕

「明治最初の文壇小説家」といわれる三世柳亭種彦こと高畠藍泉はイケメンというよりもハンサムという言葉が似合う容姿だ。 「種彦氏は写真にも見える通り痩ぎすな苦味走つた風貌、性質は稍や神経質の勝つた人であつた。稍や強情な処もあつたが友情に厚く世話…

『小伝乙骨家の歴史』『明治の兄弟』

ブックオフで購った古本2冊。 永井菊枝『小伝乙骨家の歴史 ー江戸から明治へ』(フィリア、2006) 右の本は幕臣・乙骨家について。甲府徽典館学頭の乙骨耐軒から、その子で幕末の英学者乙骨太郎乙、さらにその子で童謡「はとぽっぽ」「汽車」「浦島太郎」の…

原田左之助は龍馬と別府温泉に入ったのか

明治17年の11月の『東京自由新聞』第735号の雑報に「二宮新吉傳一夜説」という記事が載った。伊予宇和島の志士二宮新吉(呉石)の事歴に関する投稿記事で、投稿したのは二宮新吉を知る東京麻布に住む青木知友と名乗る人物。 この記事に興味深いことが書かれ…

蛭川一の顕彰碑

伊東成郎さんがお書きになったものに「新選組金談一件」(『三井文庫論叢』)という史料の紹介があります。その史料によると土方歳三は「室賀美作守様御用人之次男之由」と書かれているそうです。土方が旗本・室賀美作守の用人の子供だったという事実はない筈…

福永恭助『 海将荒井郁之助』

以前購った古本を3冊紹介してみます。 まずは真ん中。 福永恭助『 海将荒井郁之助』(森北書店、昭和18) この伝記は書き手に人を得なかったようであくまで読み物風。通俗小説的な文体の上に事実関係にアラが目立つ。福永はモダニズム雑誌『新青年』に寄稿し…

高知県士族 岩田正彦

昭和2年発行の福島成行『征韓論餘聞 赤坂喰違事変』という本から。 明治7年1月、赤坂喰違坂で岩倉具視の暗殺を企て襲撃した九人の中の一人、高知県士族 岩田正彦。斬首となった。

孝明天皇の等身大人形

前回の投稿に続いて『五十年の夢 柳昇遺稿』(非売品、大正8年)からまた幕末の等身大人形に関する逸聞を。 孝明天皇が自身の等身大人形を作らせると、その人形の「業」にて俄かに病気になり、ついには崩御あらせられたいう噂。人形霊の話。 「十二月に入りて…

ダッチワイフと徳川慶喜

幕末に朝廷の図書寮史生だった舟木宗治(号柳昇)はあまりに小禄だったため副業として宮中、宮家、門跡、堂上方に出入りして御手道具、袋物、小間物、玩弄具などを調達することも生業もしていた。舟木は生来の記録魔でもあったためその立場を活かして自らの…

砲術家としての藤堂平助

新選組の藤堂平助は撃剣家の他にも砲術家としての一面があった人である。このことはもっと世に知られるべきことではないか。 池田屋事件の働きで褒賞を受けた藤堂平助は元治元年8月には江戸に下り、以後しばらく江戸に在って隊士募集の役を担っていたとされ…