幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

大鳥圭介と板垣退助、戊辰戦争を語り合う

栗本鋤雲が面白いことを語り残している。「匏庵雑話」(『名家談叢』第一号、明治28年)

戊辰戦争の北関東でガッツリ対決・対陣した大鳥圭介板垣退助。その経緯もあって明治に入ってからもお互いを強く意識してしまい挨拶すらできない間柄だった。モジモジして何と言って声をかけていいのか分からない彼ら二人の仲を取り持って会談させたのが栗本鋤雲。ナイスだ。

この会談、板垣の介添人としてご指名で後藤象二郎も付き添っている。仲いいねー。

鋤雲と後藤の介添にも助けられて大いに打ち解けた大鳥と板垣。お互いの戊辰戦争の闘いぶりを称え合っている。板垣が大鳥の率いた旧幕府伝習隊の練度をかなり評価している点など大変興味深い。

栗本鋤雲は語る。

〈私は無能な男でございますが、人が絶交して居て困るからお前が中へ這入つて纏めて呉れと云つて頼まれて、纏めたことが二三度ございます。それをお話致しませう。

(中略)

今一は大鳥圭介板垣退助との和睦を取計らつたこと。それは箱館戦争の時分に板垣は官軍方で土州の兵を率いて、日光へまいりました。大鳥は幕府方で佛蘭西の教師を雇つて練習した兵を連れて参りまして、餘程長く對陣して居りました。一つ月の餘對陣して居りましたが、 トウゝ仕舞に大鳥は敵ひませぬで、 奥州へ逃げ上つて仕舞ひました、それから御維新になつて大鳥は榎本に付いて五稜 廓へ行つてしまひ、 板垣は江戸へ引上げてしまひました、其中榎本は官軍に降服して、大鳥も許されてエ部省か何かに出て居りました。それで一日大鳥が私に申すにはアナタに折入つて御相談するんだが 、外でもないが、 私も以前榎本釜次郎などと脱走した時分に は幕府の兵を率いて日光へ行つて、暫く板垣と對陣して居つて、板垣とは敵味方であつた。其時随分度々戦も致したが、遂に板垣の兵は猪苗代の方へ回られ、 此方は鹽原温泉道から會津へ落ちました。 そこで今日は両人とも同じ朝廷へ仕へて居るが「誠にどうもあの分は」といふことも出來ず、始めてお目に掛つたといふ挨拶に困るから逢はないやうに外してばかり居るが、 一つ朝廷に仕へて居ながらはづして逢はないやうに するのは甚だ難義である、お前は幸ひ板垣とも往來しておいでなさるから何卒取計らつて呉れないかといふ。 それは誠に善い事であるから取計らって見ませう。とつて板垣に其話をしました所が、それは至極宜しうございます、 私共の方には異論はないが、唯そこで大鳥の方はアナタが付いて來るから宜しいが、 私の方は一人では可笑しいから後藤象二郎を連れて行きませう。 さうして何處かで出會致方しませう。と言ふ、其事を大鳥へ通じました所が、それではさうしませう。と言つて、双方上野の精養軒へ會しました。板垣の方は後藤象二郎、大鳥の方は私が付添つて参りまして、 四人で酒を飲んで和したことがありました。其時彼の日光の對陣の話が出ましたが、板垣が言ふに、どうもあの時は誠に幕府の練習の兵には感心した。 私の方の兵は度々戦爭をしたから馴れ居るけれども、どうしても兵が揃わない、アスコに至ると練習した兵は違つたものだ。どうしても兵は練習しなくてはいけない。 長い間松原で大鳥と對陣して居つて、 私の方の兵は勝つことは勝つけれどもコチラから打つた彈丸はきまりがない、人間の頭より一間も高い所へ當つたり、 或は土の中へ潜つたりして居て、 一向彈丸の高低が定まらぬ。 官軍の方は人 が大勢だから勝つたので、彈丸の打ち方は甚だ不規則であつた。 それが大鳥方の兵の打つ彈丸は チャンと揃つて身躰の所あたりへ來る、負軍で狼狽して、 逃げながら打つのでもチャンと揃つて當る。官軍の方の彈丸は勝つても負けてもチャンと同じ處へ當つて居る、どうも感心した。 軍は練習兵でなけれはならぬと思つた。そこで沼間守一は大鳥など一緒に練習兵を卒いた男だから彼を雇つて敎導させて練習したから今日も土州の兵は近衞兵になつて居る。 と言ふと大鳥も誠に官軍方の兵は強くてどうするこも出來なかつた 。 といふやうな話をして大に打寛いで別れたことがございます。〉