幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

孝明天皇の等身大人形

前回の投稿に続いて『五十年の夢 柳昇遺稿』(非売品、大正8年)からまた幕末の等身大人形に関する逸聞を。

 

孝明天皇が自身の等身大人形を作らせると、その人形の「業」にて俄かに病気になり、ついには崩御あらせられたいう噂。人形霊の話。

 

「十二月に入りて俄に御異例、御水痘との事である、御年三十六にて御疱瘡とは不審である、宮中慣例として御疱瘡には臺人形を御見舞として献上するが例である、宮公卿、諸大名、我一と購求し京都にある有職人形は不残売れたとの事である。

是より先 陛下の御好として 聖上、皇后両陛下御等身御似顔の御人形を作り、之れに御装束其他春秋一切の御衣裳、御手道具一切新調せられ御紋も葉付の櫻と定り櫻印様と称せられしが、其人形の業にて俄に御異例になり給ひしと奏上するものあり迷信深きは女官の習ひ、御人形始め一切を霊鑑寺宮鹿ケ谷へ御下附になり今も同寺に保存せらる。御異例一週間以内にて崩御遊ばされしは恐入るの外はない」

 

ダッチワイフと徳川慶喜

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幕末に朝廷の図書寮史生だった舟木宗治(号柳昇)はあまりに小禄だったため副業として宮中、宮家、門跡、堂上方に出入りして御手道具、袋物、小間物、玩弄具などを調達することも生業もしていた。舟木は生来の記録魔でもあったためその立場を活かして自らの見聞や文書の写しなどを膨大に書き留めていた。それらを自伝の体裁にした草稿を遺して亡くなり、死後大正8年に息子の保次郎が編集して『五十年の夢 柳昇遺稿』と題して非売品として出版した。
「その内容は生誕の嘉永四年より明治元年に至る十八年の自伝にして、或は自伝と云はんより寧ろ、幕末見聞録、又は維新側面史とも見るべきものか」というもので、上は朝幕諸藩の国事に関係するものから下は市井の雑事に至るまでを細大洩らさず記載した京都を中心とする一種の維新史となっている。
 
その中に、徳川慶喜に関するこんな逸聞が載っている。
 
慶喜卿の西洋好きなるよりか、将軍の妾は外国より献納したる等身の人形にて御茶も汲めば御給事もする、皆ゼンマイ細工で巧みに出来てある。只、ものを云はぬ丈けが人形の悲しさである、と相当の人迄が云ふていた」
 
慶喜はダッチワイフもしくはラブドール、ないしはアンドロイドを妾としていたのか。
 
舟木はつづける。
「少し常識があれば判断の出来る事なれ共、皆迷ふていたのである」
 
 

砲術家としての藤堂平助

新選組藤堂平助は撃剣家の他にも砲術家としての一面があった人である。このことはもっと世に知られるべきことではないか。


池田屋事件の働きで褒賞を受けた藤堂平助は元治元年8月には江戸に下り、以後しばらく江戸に在って隊士募集の役を担っていたとされる。
しかし江戸で実際は何をしていたかは永倉新八の回想記に伊東甲子太郎を隊に勧誘したことなどが見えるのみで不明の点がほとんどであるといえよう。
勧誘に応じた伊東らの上洛にも同行せずに江戸に留まった藤堂のことについて、江戸駐在隊士としての募集隊士の人選を行っていたのではないかなどと新選組関係の本に書かれることがある。しかしそのことは確実な史料によることではない。
 
私はこの時藤堂は江戸に砲術を習得をするために滞在していたと考えている。もっともこの時点で本格的に修行に入ったかどうかはわからない。
このことは後段で述べよう。
 
翌慶応元年4月に土方歳三が江戸に下り大規模な隊士募集を行った。多数の加入者の一行に同行して藤堂は再び上洛する。
その後の新選組の編成で藤堂は八番組長となる。
さらに長州征伐のための軍団編成(慶応元年9月ごろの第三次の行軍録とよばれるもの)では大銃頭となるのだ。
この大銃頭に任じられていることに私は大いに意味を感じる。藤堂に砲術家としての萌芽をみる。
 
ここから慶応3年の3月まで藤堂平助は記録に姿を見せない。その足取りは不明となる。私は江戸に戻り砲術の本格的な修行を行っていたと考えている。
 
慶応3年3月の伊東甲子太郎新選組分裂騒ぎの渦中にようやく藤堂は記録に姿を見せる。いうまでもなく後世高台寺党と呼ばれる御陵衛士の人員の中にその名前を見せるのだ。もっとも伊東の隊分離時に藤堂が在京していた証明はない。
藤堂は伊東たちと時間差があって合流した。
鳥取藩記録」は伊東との合流を「藤堂平助、先日頃より美濃国へ罷越しおり候得共、これまた同意の由」として、伊東の離隊のころは美濃にいたとしている。
私はこの時期の藤堂は江戸で砲術修行を終えて美濃に行っていたと推定している。美濃で水野弥太郎らに砲術指南をしていたのでないか。
西村兼文の「新撰組始末記」には「藤堂平助は、美濃国博徒水野弥太郎に結び、農兵数百人、号令次第差し出す約を堅め、かつその勢を盛んにして士力を増殖せんと思惟し」とある。水野弥太郎配下の博徒や農兵隊に砲術ないし洋式調練を授けていた可能性があるのではないか。
 
「慶応雑聞録」には藤堂と富山弥兵衛、斯波良作、清原清の四人について「先日脱局、これも同意」とある。これによれば、四人は伊東の分離以前に新選組を別途離隊してその後に伊東たちと合流したと読むことができる。
この藤堂、富山、斯波、清原の四人には何か関係があるのだろうか。彼らには砲術ないし洋学志向という共通項があることを指摘出来るだろう。
富山は元治元年秋の伊東甲子太郎入隊直後の編成で七番大砲隊の一員になっている。
斯波良作は史料上名前の混乱があるが西村兼文の「新撰組始末記」に洋行を希望して学術修行のため離隊した司馬良蔵こと新選組文学師範をつとめた斯波雄蔵だとされる。洋行を企図していたことから斯波の新選組での文学師範の内容は洋学系統のものだったと私は推定する。
清原清は入隊直後の慶応元年閏5月の編成で砲術師範となっている人だ。秦林親はその手記に清原を「此人ハ鉄砲ノ達人ナリ」と評し、その経歴に「尾濃間二遊歴シ」たことがあると記している。あるいは清原は藤堂と共に水野弥太郎らに砲術を指南していたのでないだろうか。
 
肝心の藤堂はどうだろうか。阿部隆明は史談会速記録で藤堂平助のことを「藤堂は小兵でございますけれど、なかなか剣術はよく使いまして、また文字(学問のこと)もございます」と語り残している。藤堂平助の「文字」とは砲術や洋式調練や兵学に関わる蘭学知識、数学や語学のことだったのではないだろうか。
 
さて、ここまで読まれた方は私の述べていることにいささか不信を持つのではないか。私の推論は飛躍がすぎているだろうか。
 
肝の部分を述べたい。
 
韮山の江川文庫には嘉永6年から慶応3年までの江川家の砲術指南を受けた門人たちの名簿が残されている。二冊あるこの「御塾簿」を大原美芳「江川家砲術指南の記録 御塾簿について」(『韮山町史の栞』第9号、昭和60年)で読むことが出来る。これは2冊分の「御塾簿」を整理編集したもので原史料そのものの翻刻ではないのだが、名簿の解読不明の文字を○で表記するなどの史料に対する姿勢から江川塾の門人帖として信頼を置くことができるものと考える。
さて、その「御塾簿」の中に藤堂平助の名前を見つけることができるのだ。
 
「慶応三丁卯八月二十三日免許 松平肥後守附番新撰組 藤堂平輔」
 
これはどう控え目に考えても新選組藤堂平助のことであろう。
藤堂は慶応3年8月23日に江川塾で砲術の免許を得ている。
 
江川塾のことを説明すべきだろうか。
いうまでもなく高島流の砲術教育機関として江川担庵が天保13年に開設した「韮山塾」が江川担庵の死後、安政2年江川英敏もとに開設された芝新銭座大小砲習練所内に「縄武館」として移転し、幕臣や諸藩士に砲術を授けた学塾のことである。
正課の砲術稽古として小銃操法、銃隊調練、大砲打方、火薬製方等があり、講義では歩騎砲操典、築城学、戦場医学等が教えられていた。
 
あえて繰り返すが、藤堂平助はその江川塾で砲術を学び免許を受けている人である。
 
免許の交付が慶応3年8月23日になっていることにあるいは不信を抱くかもしれない。この15日前の8月8日に京都で藤堂は伊東甲子太郎三木三郎斎藤一と連名で柳原前光板倉勝静長州藩の寛典と兵庫開港の是非についての建白書を呈している(『中山忠能履歴資料』)。この時期に藤堂が江川塾にいるはずはないではないかと。
しかし免許が藤堂が江戸にいないこの日付になったことの理由はそれなりにある。それは前将軍徳川家茂の喪があけるのを待っていたからだと考えられるだろう。前年7月20日に薨去した家茂の喪中の一年間に江川塾で砲術修行の教程を終了していた者に、喪があけるのを待って8月23日に免許が与えられたのだろう。「御塾簿」には同日付で免許を取得したものが夥しい人数いる。江川塾が大量の免許者を同じ日付で出す理由はそこにあったと考えられる。
 
江川塾では入門から免許取得までの年月は各人の技量により多様であるが、長ければ10ヶ月から1年ほど近くかかる。その期間まるまる江戸新銭座の江川塾に在学していたとしてとも、慶応元年の秋から慶応3年の3月まで新選組隊士として在京の記録のなくなる藤堂が江戸に戻り江川塾に入門し長期間修行していたとしても矛盾はない。
入門時期は「御塾簿」に「松平肥後守附番新撰組 」とあるから、新選組の総員が幕臣となる以前、慶応3年6月以前であると思われる。幕臣となり幕府機関のとなったあとでは新選組を松平肥後守附番とは書かないだろう。
あるいは入門はもっと早かったかもしれない。元治元年の江戸行きの際に入門を済ませていて目録課程までいっていた可能性もあるのではないか。江川塾での目録取得は3ヶ月から半年ほどの期間が必要だったという。藤堂はその時は半年以上江戸にいたわけで、ならば目録取得も出来ない話ではなくなる。
先に慶応元年秋に大銃頭になったことを藤堂の砲術家としての萌芽だったと述べたが、その時点でなんらかの砲術に関わる技術と知識を持っていたと考えれば大銃頭の役職就任も得心がいく人事である。
最初の江戸行きと在京の記録のなくなる時期とで前後二回に分けて修行したならば、新選組での京都での活動歴と江戸での砲術修行との間に時間的余裕が出来るだろう。
 
新選組が激しい砲術教練を隊士に課していたことは周知のことである。すでに元治元年10月に東下中の近藤勇に宛てた土方歳三の書簡に「局一同、炮術ちょうれん、残らず西洋つつ致し候て毎日仕り候」とある。肝心の藤堂は江戸にいるときであるので彼と砲術調練とをストレートに結べないのは残念だが、以後も新選組の砲術調練は西本願寺壬生寺で行われていく。
強火薬をつかった発泡演習で西本願寺門跡の覚如上人はノイローゼになったというし、壬生寺からは寺内の戸や天井板が壊れ屋根瓦がゆるんだと苦情が出るほどだったという。
この新選組の砲術調練に砲術家として藤堂平助がどう関わったか史料がなく現状ではそのことは不明とせざるおえない。
 
藤堂が江川塾門下で砲術の免許皆伝を受けていた砲術家だったということ、このことは新選組研究の好題目となり得るだろう。
今回は江川塾の「御塾簿」に藤堂の名前を見つけたというそれだけのことによって私は稿を草した。当然ながら断定が下されないことばかりであり、多くの事実についても知りえることが甚だ少ないことを遺憾とせざるを得ぬ。
他日このことの研究が進められることを期待したい。

彰義隊士 水橋右京之亮の墓

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埼玉県深谷市畠山にある満福寺というお寺は、畠山重忠が寿永3年(1184)に再興したという由緒ある真言宗の古刹です。そのお寺に慶応四年五月二十九日にこの地で没した彰義隊士水橋右京之亮の墓があります。

 

水橋は「此士上野及飯能に敗れ、顔振峠竹澤臺福寺を経て、当院に来り、官軍の為に本堂裏にて卒す、此地に埋葬」されたというような人物です。目撃者の談によると骨格偉大威風堂々たる立派な風格を備えていた武士だったといいます。

 

飯能戦争に敗れた振武軍の水橋右京之亮はなんとかこの満福寺まで逃れてくると、住職に匿われ本堂裏の雑木小屋に潜みました。しかし早々官軍の一隊の追撃にあってしまいます。官軍は容赦なく雑木小屋に銃弾を浴びせ、堪らず小屋から出てきた水橋は腹を一文字にかき切って自刃したそうです。 

官軍はその首を討ち、松山の陣屋(東松山にあった前橋藩の陣屋)に晒しました。 後に住職は首をもらい受けると、胴体と共に懇ろに葬り、一碑を建立し菩提を弔ったということです。

 

参考/酒井天外「彰義隊水橋右京亮」(『埼玉史談』第9巻第1号)

甘利源治の墓

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中村彰彦の短編小説に「甘利源治の潜入」という作品がある。 

 

韮山の農兵だった原宗四郎という男が会津藩に密偵として仕えて甘利源治と名乗り、幕府への挑発のために浪士を集めて御用盗騒ぎを起こし江戸市中を撹乱していた薩摩藩江戸藩邸に潜入し、その策謀と挙兵計画を身を呈して防ごうとするという話だ。

 

この短編のネタモトとなった『会津戊辰戦史』は甘利源治の活躍を次の様に描いている。

 

「我が留守居柏崎才一周旋して甘利源治を薩邸暴徒の中に入れ偵察せしむ、源治暴徒と共に市中を狼藉す、ゆえに少しもこれを疑う者なかりき、これによって暴徒の多寡およびその情実を知ることを得たり」   

「甘利源治もまた同伴して八王子に至り、源治謀りて隊長を青樓に誘い、ひそかに娼妓をしてその短銃を盗ましめ、隊長を斬り同盟簿を奪い、源治ただちに帰りてこれを我が藩邸に報告す、これによって暴徒の人員姓名等ますます明暸なるに至れり」   

 

さて、その甘利源治のお墓が埼玉県本庄市の大正院にある。

面白いことに本庄に伝わる甘利源治の姿は小説とは違って勤王の志士としてのものなのだ。

 

甘利源治、本名は林常三郎。上州多野郡美土里村 久保豊三郎の三男。幼時に上州箕輪村 林直之丞の養子となる。

会津藩に仕えたが時勢を悟り、これを去って勤王党に与る。

討幕ために富豪を説いて百両を越える多額の資金を集め江戸に入らんと、慶応3年10月15日同志と共に本庄宿の旅籠広木屋に宿泊。翌朝駕籠に乗り出立しようとしたところを幕吏に襲われ地元の北辰一刀流の剣客高橋辰三郎に槍で太股を突かれる。深手にめげず脱出し、身をを軽くするため懐中の金を撒き散らしながら逃げたが力尽き倒れ捕縛された。おそらく深傷のために没す。 二十六才。 

 

 

墓石は初めにごく小さいものが建てられたが、やがて苔むして忘れ去られ、これを悲しんだ上州出身の蹄鉄商 北嶋倉吉という人が昭和5年に新しい墓石を建立した。

長身でロン毛のメガネ男子 陸奥宗光

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西南戦争に乗じて政府転覆を謀った立志社事件に関与した陸奥宗光は、禁獄5年の刑に処せられ山形監獄、続いて宮城監獄に投獄される。

明治16年赦免。

出獄し東京に帰る前に記念写真を撮った。

 

左から二人目。長身、ロン毛。メガネ男子の陸奥宗光である。

 

宇野量介『仙台獄中の陸奥宗光』(宝文堂、1982年)

山田顕義

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明治4年、米欧を歴訪する岩倉使節団の中に少年みたいな人物が加わっているのを見つけて欧州人は驚いたそうだ。

山田顕義のことである。

 

「顕義、時に歳未だ三十に満たず、矮小にして白皙無髭なり、欧人、皆怪み問ふて曰く

日本には少年の将官あるやと。」

ヒゲを生やした土方歳三⁈

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箱館では実はヒゲを生やしていた土方歳三

 

『大日本名家肖像集」(経済雑誌社、明治40年)が掲載するものだ。

いやいや、川村録四郎の別バージョンの写真だろうて。


※追記

好川之範『土方歳三最後の戦い 北海道199日』(北海道新聞社、2014)もこのヒゲ土方を載せ、本当は誰かと疑問を投げかけている。好川氏は川田瑞穂『片岡健吉先生』(立命館出版、昭和15年)に掲載のものからからこの写真を採っている。もとより初出は『大日本名家肖像集』であり、誤解の元もまたここにある。


※さらなる追記

ヤフーオークションにこの写真の全身像の名刺判写真が出品されていた。土方歳三が座る猫脚の椅子と同じ椅子に座る全身像で楕円のマスクがなされていた。既に入札は終了し高額で落札されている(2016,8,31)

ヤフオクの画像で見ると台紙の裏書きには「中将海軍卿 海軍川村公」の文字が書かれていた。川村違いで川村録四郎を川村純義と誤って(あるいはワザと)記載している。

土方歳三が土方久元と間違われて明治初年にその写真が売られていたと尾佐竹猛が書いていて、後に子母澤寛もそのことを書くが、この川村の写真も旧幕府側の人物の肖像写真が新政府側の人物に化けた同じような例といえる。そしてお土産写真を売る写真舗は土方久元として売っていた写真と川村純義として売っていた写真を取り違えていたことがあったかも知れない。

有馬藤太の写真

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流山で近藤勇を降伏させ、その助命を訴えていた薩摩藩士 有馬藤太(真ん中の人物)

 

晩年の立派なヒゲの写真(『維新史の片鱗』)は知られているかと思います。こちらはそれよりもだいぶ若い時の写真。

 

 

両サイドは左が今泉利春(佐賀藩)、右は近江西郷と言われた大東義徹(彦根藩)。

 

東京呉服町の清水東谷撮影。

箱館戦争の史料覆刻本

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市立函館図書館蔵郷土資料複製叢書という函館市立図書館発行の函館の郷土資料の叢書がある。

 

その内の27巻『一年乃夢/蝦夷土産』、28巻『峠下ヨリ戦争之記』、31巻『麦叢録』は箱館戦争に関わる史料の覆刻本になっている。

 

この叢書には他にどんな書目があるのか私はいまひとつ曖昧なままなのだが箱館戦争に関するものはこの3冊でいいのだろう。