幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

「逃げの小五郎」の夜明け前

桂小五郎の異名とされる「逃げの小五郎」。

実際ににそんな風に呼ばれていたのかという問題については、Wikipedia司馬遼太郎の短編「逃げの小五郎(小説)」の項に明快に答えが述べられている。引用させてもらおう。

 

【現代では様々な桂小五郎の紹介に、「逃げの小五郎と呼ばれていた・言われた」と述べられることがよくあるが、存命中や死後に残された記録・史料にそういう記述は確認されていない。また、この小説の中にも、その当時から「逃げの小五郎と呼ばれていた」という記述はない。歴史上「逃げの小五郎」と記されたのは、この小説が初めてだと推測される。したがって、「後世の小説の題名から逃げの小五郎と呼ばれるようになった」が正しい表現である。この誤解がこれほど広まったことは、司馬遼太郎がつけたこの短編小説の題名のインパクトの大きさを物語っている】

 

なるほど大いに納得できる答えだ。これ以上他言を要する必要はなさそうだ。問題は解決している。

秀逸な題名だっただけなんだ。

 

しかし、それでも、私はなぜ司馬遼太郎がこの題名を思いついたのかが気になっている。

「逃げ」って、「逃げの」って何なのだろう?

「逃げるは恥だが…」的な含意が感じられるのは避けられない。

桂小五郎の「逃げる人イメージ」ってどこから来たものなのか?

いやいや、司馬遼太郎の見事な作家性に尽きることだからそれ以外の理由なんてないだろうと思われるかもしれない。しかし、私はいくら司馬遼太郎が大作家であろうが一切の取っ掛かりもなく桂小五郎にかくまでの「逃げ」設定を付与は出来ないだろうと思っている。何か参照するものがあったのではないだろうか?無から有はそうは作れないのではないか。

 

確かに小五郎には勝海舟が『追讃歌一話』で書いている会津藩の巡邏隊に捕まったあとの例の有名な「便意もよおし逃走劇」もある。池田屋事件でも寸でのところで危機を免れていたり、禁門の変後に乞食に身をやつした逸話、その後の出石への逃亡だとかその伝記的に「逃走中」状態が多い人である。しかしそれは志士としての困苦や転じて痛快な逃走劇の部類であって、ネガティブな「逃げ恥」的な言い方をしなくても良さそうなものではないか。

 

昭和12年吉川弘文館から『殉難志士讀本』という本が出ている。この本を司馬遼太郎は若い頃に読んだか、あるいは作家になってから資料として読んだのではないか?少なくとも確実に目を通しているのではないかと私は推測している。

著者は佐藤厳近。序によるとかつて明治大学文科に籍を置いた人で、歳もまだ若く気概に富んだ一青年だという。この本は読者層を未成年(「中学生がレッスンのかたわら読んで戴きたいと思ふ」)とした維新史に材をとった小説。17章にわたって各章に殉難志士を並べて紹介していく本である。しかし方正な小伝集というわけではなく、逸話をベースとした中途半端な小説に留まっている。

史実ベースで考えた場合、史料的価値は皆無である。

 

この本の最終章が「弱かった小五郎 桂小五郎伝」と題された桂小五郎の項になっている。

そしてその章題からすでに漂ってくるのだが、ここでは桂小五郎の「逃げ」設定がかなり強調されて書かれている。目についたところを引用しよう。

 

桂小五郎といふひとは、大変強かつたやうに考へられてゐるけれど、本当はそんなに、すぐれて強いのでは、なかつたらしい。勿論、いつ死ぬかわからぬ幕末の乱世にあつて、刀を合はしたことも、すくなくはなかつたであろうが、大ていの史実の本には、みな逃げていつたことばかり書いてある】

頓智、あるひは機智ともいへるだろう。とに角、それからのち、いくたびか新選組などに狙はれたときなど、これを用ひて、ほとんど刀を以つて立ち向つたといふことはしないで、すぐに逃げ出したのではないかと思ふ】

【大便をするかと思ふと、いきなり逃げてしまつた。飛鳥のやうだつたので、隊士の面々は呆気にとられて立つたままだつたといふ。実に、逃げることはうまかつた】

【あまり逃げることばかり、上手いやうにかいたから、ひとつ、劒の方はどうであつたか、調べてみやう】 

【剽悍そのものだつた新選組の連中が、最後までつけ狙つて、討ち得なかつたといふのは、おそらく桂小五郎ひとりだけだつたらう。これからみても、たしかに刀を合はすことよりも、戦はずして姿をくらますことにかけては、たびたび云ふようだけれども、まさに、水際たつてゐたと、考へられる】

 

等々、この様な感じで「逃げ」が前面に強調されていて「逃げる人イメージ」で桂小五郎が描かれている一編である。

どうだろうか、司馬遼太郎はこれを読んでいたのではないだろうか?

この内容が頭にあったからこそあの上手い題名が生まれたのではないかという気がするのだ。

桂小五郎をあと一押しで「逃げの小五郎」と呼びたくなるものが確かにあるのだ。

「逃げの小五郎」の夜明け前だ。

「新撰組の隊員 杉山久次郎墓」

『伊勢崎史話』第10巻8号〈通巻112号〉(伊勢崎史談会、昭和42年)に菊池宗吉「今泉八幡宮の鳥居の額」という短い文章が載っている。

その文の後半部分に新選組隊士の墓を見つけた旨の報告が載っている。

大変興味深い。

以下に引用してみる。

 

【〇新撰組の隊員杉山久次郎墓

 

 前の倉林郡蔵の墓を調査中に前から耳にしていた新撰組隊員杉山久次郎の墓をみつけたのである。以前からきいていたがようやくその機会を得たのである。墓は小さいが三角型の傘を載せている。 
 正面に徳昌院殿義山禅忠居士 
 左側に 
  上野国那波郡芝街公立小学校旧教員
   東京 府士族
      杉山久次郎墓 
 
 右側に 明治十年丁丑十月十一日    

 とある。歿年月日であろう。どのような経緯で当地方に来ていたのであろうか、とにかく石崎五郎兵衛氏、旧村長石崎牧太郎氏先祖の代にお世話になっていた模様である。
 どうして迷い込んだものかその由を知る入はもう亡くなってわからない。どなたか存じている方は御教示願たい。

 

という一文。ちなみに冒頭に出てくる倉林群蔵は安永年間の伊勢崎藩士。

さて、この新選組隊士と伝わる墓。気になったので探してみた。幸いなことに現存していた。

私は新選組隊士の名前は有名どこの人しか知らない。

杉山久次郎の名前を見ても全然ピンとこなかった。なので相川司『新選組隊士録』(新紀元社、2011年)を開いてみたのだが、残念ながら杉山久次郎の名前は出てこない。

杉山姓の人物はただ一人、初期の在隊者に杉山腰司がいた。同書によると杉山腰司は文久3年4月ころ壬生浪士組に参加。同年5月25日の隊士名簿に載るが翌月の名簿には未記載。新選組の隊名になる前に早期離隊したようだ。人物像はまったく不明。墓に眠るのは果たしてこの人なのだろうか。

 

まあ、壬生浪士組時代の人を新選組隊士とは伝承しないのではという問題はある。杉山腰司の線は薄いのかもしれない。

だれか別のちゃんとした?新選組隊士が明治に入って名前を変えて上州で教員をしてこの地で亡くなったのかもしれない。

 

ありがちな間違えとして新選組と新徴組を混同してしまってるパターンは考えられないだろうか。杉山姓の新徴組隊士には文久3年の上洛浪士組から参加している杉山弁吉とその子供の杉山音五郎の父子がいる。杉山弁吉は新徴組在隊時に江戸で亡くなり長子の音五郎が父の跡を継いでいる。音五郎は庄内入りし、戊辰戦争後は松ヶ岡開墾に従事。明治3年酒井忠篤の鹿児島行(兵学修練のために家臣70余人を引き連れた)の選抜メンバーにもなっている。

その鹿児島派遣団を写した写真が荘内史談会の写真帖に載っている。

この中にもしかしたら杉山音五郎も(同じく選抜された千葉弥一郎や分部彦五郎など旧新徴組隊士と一緒に)写っている可能性がある。杉山久次郎はその杉山音五郎の後の世の姿なのだろうか?

宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波現代文庫)の浪士組・新徴組隊士出身地別一覧表の杉山弁吉の箇所に音五郎は明治7年7月に東京府に貫属替したとある。東京府士族ということには矛盾しない。

 

ちなみに杉山弁吉は埼玉県比企郡吉見町一ツ木の出身。荒川右岸の土手沿いにある集落だ。

 杉山家はこの地の名主原家の分家筋で、元禄年間に原家の屋敷門前に別居したのを始まりとして十数軒にまで繁栄したという。 
集落の共同墓地に行ってみると杉山家の墓が一軒ある。 
杉山弁吉や音五郎の墓碑はない。真鏡道純信士という戒名の明治29年に亡くなった杉山吉五郎という人の墓碑があった。音五郎と名前が似ている。似てるだけだろう。 

杉山家の本家筋の原家とは武田信玄の家臣で鬼美濃とあだ名された原美濃守虎胤の後裔とのこと。 武田家没落後、鬼美濃の孫の原勘解由良房とその息子右馬之介は信濃から武蔵国松山(東松山)に移り住み、文禄年間にこの地の山林を伐開して横見郡箕田郷一ツ木村を草創し土着したという。 

原家は剣術も伝わる家系で13代当主の原照胤は馬庭念流の剣術家でもあった。
原家は原武館という剣術の道場を開いていた。杉山弁吉も原家に剣術を学んだことと思われる。 

以上余談。

 

伊勢崎史談会は同地域から上洛浪士組や新徴組のメンバーを何人も出しているため、会誌『伊勢崎史話』にはそれらの人々に関する報告を何篇も載せている。伊勢崎史談会員は新徴組と新選組の両者の関係性とその違いにはかなり自覚的だったであろう。だとすると単純に隊名を間違えたとは思えない。伝承として新選組の名前はあったのかもしれない。

 

ちなみに箱館戦争に参加した人の中にも杉山姓の人はいる。

彰義隊の中にも杉山姓の人はいる。

戊辰戦争を旧幕府側として戦った人という共通項で新選組と混同された可能性もあるかもしれない。やや強引なことをいえば、それらの人々もこの墓に眠る人の候補者の中にも入ってくるであろう。

 

いずれにせよ、昭和42年に菊池宗吉が抱いた疑問は今日になっても続く。

杉山久次郎という人物について

「どなたか存じている方は御教示願いたい」。

大鳥圭介と板垣退助、戊辰戦争を語り合う

栗本鋤雲が面白いことを語り残している。「匏庵雑話」(『名家談叢』第一号、明治28年)

戊辰戦争の北関東でガッツリ対決・対陣した大鳥圭介板垣退助。その経緯もあって明治に入ってからもお互いを強く意識してしまい挨拶すらできない間柄だった。モジモジして何と言って声をかけていいのか分からない彼ら二人の仲を取り持って会談させたのが栗本鋤雲。ナイスだ。

この会談、板垣の介添人としてご指名で後藤象二郎も付き添っている。仲いいねー。

鋤雲と後藤の介添にも助けられて大いに打ち解けた大鳥と板垣。お互いの戊辰戦争の闘いぶりを称え合っている。板垣が大鳥の率いた旧幕府伝習隊の練度をかなり評価している点など大変興味深い。

栗本鋤雲は語る。

〈私は無能な男でございますが、人が絶交して居て困るからお前が中へ這入つて纏めて呉れと云つて頼まれて、纏めたことが二三度ございます。それをお話致しませう。

(中略)

今一は大鳥圭介板垣退助との和睦を取計らつたこと。それは箱館戦争の時分に板垣は官軍方で土州の兵を率いて、日光へまいりました。大鳥は幕府方で佛蘭西の教師を雇つて練習した兵を連れて参りまして、餘程長く對陣して居りました。一つ月の餘對陣して居りましたが、 トウゝ仕舞に大鳥は敵ひませぬで、 奥州へ逃げ上つて仕舞ひました、それから御維新になつて大鳥は榎本に付いて五稜 廓へ行つてしまひ、 板垣は江戸へ引上げてしまひました、其中榎本は官軍に降服して、大鳥も許されてエ部省か何かに出て居りました。それで一日大鳥が私に申すにはアナタに折入つて御相談するんだが 、外でもないが、 私も以前榎本釜次郎などと脱走した時分に は幕府の兵を率いて日光へ行つて、暫く板垣と對陣して居つて、板垣とは敵味方であつた。其時随分度々戦も致したが、遂に板垣の兵は猪苗代の方へ回られ、 此方は鹽原温泉道から會津へ落ちました。 そこで今日は両人とも同じ朝廷へ仕へて居るが「誠にどうもあの分は」といふことも出來ず、始めてお目に掛つたといふ挨拶に困るから逢はないやうに外してばかり居るが、 一つ朝廷に仕へて居ながらはづして逢はないやうに するのは甚だ難義である、お前は幸ひ板垣とも往來しておいでなさるから何卒取計らつて呉れないかといふ。 それは誠に善い事であるから取計らって見ませう。とつて板垣に其話をしました所が、それは至極宜しうございます、 私共の方には異論はないが、唯そこで大鳥の方はアナタが付いて來るから宜しいが、 私の方は一人では可笑しいから後藤象二郎を連れて行きませう。 さうして何處かで出會致方しませう。と言ふ、其事を大鳥へ通じました所が、それではさうしませう。と言つて、双方上野の精養軒へ會しました。板垣の方は後藤象二郎、大鳥の方は私が付添つて参りまして、 四人で酒を飲んで和したことがありました。其時彼の日光の對陣の話が出ましたが、板垣が言ふに、どうもあの時は誠に幕府の練習の兵には感心した。 私の方の兵は度々戦爭をしたから馴れ居るけれども、どうしても兵が揃わない、アスコに至ると練習した兵は違つたものだ。どうしても兵は練習しなくてはいけない。 長い間松原で大鳥と對陣して居つて、 私の方の兵は勝つことは勝つけれどもコチラから打つた彈丸はきまりがない、人間の頭より一間も高い所へ當つたり、 或は土の中へ潜つたりして居て、 一向彈丸の高低が定まらぬ。 官軍の方は人 が大勢だから勝つたので、彈丸の打ち方は甚だ不規則であつた。 それが大鳥方の兵の打つ彈丸は チャンと揃つて身躰の所あたりへ來る、負軍で狼狽して、 逃げながら打つのでもチャンと揃つて當る。官軍の方の彈丸は勝つても負けてもチャンと同じ處へ當つて居る、どうも感心した。 軍は練習兵でなけれはならぬと思つた。そこで沼間守一は大鳥など一緒に練習兵を卒いた男だから彼を雇つて敎導させて練習したから今日も土州の兵は近衞兵になつて居る。 と言ふと大鳥も誠に官軍方の兵は強くてどうするこも出來なかつた 。 といふやうな話をして大に打寛いで別れたことがございます。〉

塚越鈴彦の伝記『金蘭簿物語』

  • 塚越丘二郎『金蘭簿物語』(昭和4年)

塚越鈴彦の伝記である。またの名を塚越酸素彦とも名乗った。酸素!? 変った名前だ。実は訓みは同じ「すずひこ」。

小浜藩士で明治3年アメリカに渡った人である。明治6年に帰国。横浜税関の吏員となりその生涯を終えた。明治19年、42歳の若さであった。明治初年に渡米経験をした人物にしてはあるいは活躍の場に恵まれなかったといえるかもしれない。伝記がなければ今日その存在を知る人はほぼいなかったであったろう。

著者はこの人の次男。父親が亡くなった時はわずか4歳であった。著者にとって亡父の伝記を編むことは、おぼろげな記憶にしか残っていない父親の姿を蘇らせ再会するための行為であったろう。

伝記の冒頭に以下の文章がある。

 

余は四の時、父を喪ふた。其の際姉てるは拾貮歳、兄卯太郎は八歳であつた。余尤も幼くして父の風貌を知るに由なかった。 稍長ずるに及び、母は色々父の物語を吾々に聞かせた。余は又十三四歳の頃より毎夏、母より曝書の手傳を命ぜられたが、それは凡て父の愛讀書、遺稿及び交友との間に往復せる書簡等であった。
 此の曝書の手傳をすることは少年たる余に取り何等苦痛ではなく、寧ろ楽しみであった。 余は之の古き文書に接する毎に感興の無限に湧き来るを禁じ得なかったからである。斯様にして余は母の物語と文書研究とに依り、幾分でも父の風格を知ろうと力めた。
中略

澤山ある書類の中で最も重要な資料となったのは「金蘭簿」である。之は父が渡米前後の生活を簡単に記したノートで父の経歴を知るには欠く可からざる資料である。

中略

爾来今少し材料を集め、尚ほ母の物語などを参照して、父の経歴、性行等に関し聊か綴った記述を試みたいとの念が常に脳裡から去らなかったが、種々の事情のため、荏苒二十有餘年、到頭今日に及んだ。偶ま今次、小閑を得て書簡其他の書類を殆ど全部参照して「金蘭簿」を根幹として此書を編述したのである。依て之を「金蘭簿物語」と題した。

 

塚越鈴彦は小浜藩士であったが、実は武家の出でも小浜出身でもなかった。上州新田郡太田(群馬県太田市)の人ではじめは良之助といった。太田の塚越家といえば新田義貞にゆかりの一族で、義貞が越後で敗死すると新田荘反町館に残っていた義貞の妻子を匿って由良に逃した塚越氏が知られている。(その塚越氏の支族にあたるのだろう)太田宿近くの金山に住んだ塚越家のさらに分家の次男に生まれている。

文久元年、学問好きが高じて江戸に出て昌平黌へ入学。

しかし実家本家の家産が傾くと学資が途絶えてしまい、やむなく退校。

その後は医家の玄関番をした。伊東玄朴の世話になったこともあるという。

面白いのは、山岡鉄舟の門下となり新徴組にも加わっていたともいうのだ。伝記にはそのあたりのことがさらりと書かれているだけなので、残念ながら具体的な事歴として確定することはできない。しかし、伊東玄朴との交流に関しては塚越の妻シゲの詳言(『幕末明治女百話』)があるので確かだったことが分かる。伝記の叙述も細部にはそれなりの根拠があることなのかもしれない。新徴組の入隊に関しても何かしらの証明が見つかるといいのだが…。

新徴組には太田宿近郊の東上州からは多くの人物がその前身の文久3年の上洛浪士組以来参加している。人脈的にはあり得る話だ。

 

もっとも新徴組に加わっていたとしてのごく短期間だったようで、その後は、年次は不明ながら(伝記では慶応元年と推定)山岡の紹介で神奈川奉行所付属の「下番」(外国人居留地の警護員)になっている。鐵の橋(吉田橋)関門の警備隊に配属された。当時の隊長は多田元吉。多田とはこの時以来の縁で後に鈴彦が亡くなるとその墓誌銘を多田が草している。ちなみに多田といえば旧幕臣から勧業寮の役人になり製茶産業を興し本邦紅茶の祖として伝記(川口国昭『茶業開化 明治発展史と多田元吉』全貌社、1989年)も編まれている大物。前に投稿した内国勧業博覧会大久保利通を中心とする集合写真にも大久保の近くにいる。https://oldbook.hatenablog.com/entry/2022/06/07/161648

 

さて、神奈川奉行所の下番といえば、新選組に加入前の篠原泰之進服部武雄、加納鷲雄、佐野七五三之助らといった人物たちがいたことで知られている。時期的にかぶっていたかは微妙な線ではあるが、彼らが鈴彦と同僚だったことがあったとしたら面白い。

鈴彦は下番としての勤務の余暇に外国人に英語を学ぶようになる。よほど上達したのだろう、横浜に藩の英語教師を探しに来ていた小浜藩士池田正吉の目にとまり、その推挙で江戸藩邸での英語訓導に従事することになった。慶応3年9月、26歳の時に五人扶持を供され小浜藩士となった。

横浜時代、鈴彦は英学・医学・化学分野に特に力が入っていたようで、それまで良之助と名乗っていた名前を酸素彦(すずひこ)に改めている。化学へ強い興味からだろう。後にはその奇なる名前を鈴彦という穏当な漢字に直している。

 

この横浜時代に星亨と知り合っている。「横浜に来て、鐵の橋関所の隊中に勤務する旁、英語研究に従事し、太田町の長家で、自炊生活をして居た。丁度、其長家の一軒置いて隣に居を定めたのが、星一家で、其為め偶然、父は星と相知るに至った」

星亨は鈴彦から英学を学んだ。

「学問にかけては、余の父の方が、先輩格であったことは勿論で、後年に至っても、星の母は、余の父に対して、常に先生々々と言って尊敬していた、といふに徴しても、単なる友達関係では無かったのである」

鈴彦は小浜藩に召し抱えられるにあたり、星亨を助手として伴った。牛込矢来町の江戸藩邸に二人は同居して自炊生活をおくった。「一人が豆腐屋に走れば、一人が八百屋に行く、といふ様な具合で、極めて親密に日を送ったのである」

江戸藩邸藩士に約一年間英学を教えると、今度は若狭の藩地に転住することになった。そこでも鈴彦は星を小浜に伴っている。しかし肝心の藩地では鈴彦らの兵術を含まなかった純英語学には藩士子弟たちは興味が薄かったようで、担当講座はまるきり人気がなく生徒が集まらなかった。二人は早々にモチベーションを失ってしまう。星亨は小浜を去って大阪へ向かった。一方、鈴彦は米国への自主渡航を計画することになる。小浜藩籍のままに渡航費の一部を藩費から出してもらい、足りない分は現地でなんとかするという願書が受け入れられ明治3年6月にチャイナ号に乗って米国に渡った。

米国では特定の教育機関にじっくり留学する形式をとらず、ほぼ行き当たりばったりのようなサヴァイヴをしたらしい。丸善の洋書輸入の代理業をしたり、日本語教授の新聞広告を出してアメリカ人に教えてギャラを得たという。最終的には森有礼代理公使の時の日本公使館の書記官の職を得ている。しかし残念ながら運悪く病によって欠勤がちになり結局短期間で解雇されてしまう。明治6年に帰国。

この経歴から想像するに非常にバイタリティー豊かでかつコミュニケーション力が高く面白い性格の人物だったと思われる。

「外にあっては社交上、頗る面白く、時々滑稽洒脱の言葉が口を出ると言ふ按排」だった。鈴彦の妻シゲはたびたび人に「塚越さんは随分面白い方ですね」と言われたという。しかし妻にはこの他人の夫のへ印象が全く理解できなかった。実は、鈴彦は外面と全く違って家庭生活においては窮屈単調で無味乾燥、家庭では全然しゃべらない。あまりに会話もしない夫に堪忍袋の緒が切れた妻が「何か面白い事でも話してくださいませ」と頼んでも「ウンわしは毎日、日本人許でなく、西洋人、支那人などと色々話ばかりしているからもう沢山だ」と答えて取り合わなかったという。しかも負け惜しみが強く頑固だった。当時の日本人男性は多かれ少なかれ同じような傾向だったであろうが、現代ではまず定年後に熟年離婚を切り出されされるタイプの男性像の人だ。

著者は亡き父親に対して思慕の念ゆえに伝記を書いたわりには、母の話ではたいして慈父というわけではなかったのだ。読み手のこちらは勝手に感動的な物語を作ってしまう訳で、この梯子外しはある意味痛快で楽しい。

 

ちなみに鈴彦の妻シゲ(明治7年に結婚)は長命して、あの篠田廣造の百話ものに80代になって貴重な談話を残している。

『明治開化奇談』(明正堂、昭和18年)「幕末明治の世態推移」

『幕末明治女百話 前編』(四條書房、昭和7年)「怪傑星亨の阿母さん」

『幕末明治女百話 後編』(四條書房、昭和7年)「お大名大奥の着附と年中行事」

の三編でシゲの語りを読むことができる。篠田は当時80歳のシゲに関して「元気旺溢、記憶精確」「刀自の快話に包まれた著者は幕末の世界に逆転し」「獲難き實話」を取材したと述べている。

シゲはある種の女傑で夫の死後女手一つで3人の子供育て上げた。長女は山一證券の創業者小池国三に嫁いでいる。息子二人も実業界で活躍した。

『幕末明治女百話』で語っているが、シゲは星亨のあのクセ強の個性的な母親と上手く付き合えたらしい。凄いことだ。

 

『金蘭簿物語』の口絵写真には鈴彦が明治15年横浜税関所員らと一緒に撮った写真が掲載されている。官員録でみると15年当時の横浜税関員には彰義隊士で箱館戦争にも参加し後に横浜毎日新聞に記者となった丸毛利恒の名前を見つけることができる。鈴彦の部下であったわけだ。この写真はキャプションが鈴彦以外の人物になく他の税関員の人物比定ができなくて大変残念なのだがおそらくこの中に丸毛も写っていると思われる。

武士姿の塚越鈴彦の写真は、『塚原夢舟翁』(大正14年)に載っている。鈴彦が中心で右に星亨、左に塚原夢舟がいる。この写真は慶応4年に星亨が小浜藩に採用されるときに江戸で撮ったものという。

鈴彦は谷中に葬られた。谷中霊園に鈴彦の墓が現存しているのかどうか私は確認できていない。

墓はもう一箇所、故郷の太田市金山の受楽寺の塚越家の墓域にもある。そちらは展墓したことがある。父親と兄の墓の脇に甥によって建碑された。小さな木が生えていて名前を隠している。

幕府軍艦 富士山 その2

富士山は明治9年9月から26ヶ月をかけて改造された。機関部分が撤去され、中央にメインマストが設けられ帆柱が3本になった。我々が富士山の船体の写真としてよく見るのは純帆船となったあと姿だ。帆走練習艦として横須賀鎮守府、呉鎮守府日本海軍の若人たちを養成した。

その富士山の写真を2枚紹介しよう。1枚はおなじみの写真。

写りの悪い2枚目の方は満帆状態の富士山。こちらは少し珍しい写真かもしれない。

幕府時代の富士山とどう変化したのかも見てみよう。

箱根から箱館まで遊撃隊士として戦った玉置弥五左衛門(岡崎藩)の戦記「遊撃隊起終録」の図版集『遊撃隊起終録并南蝦夷戦争記 附録戦地写生図』(版元・発行年不明)という本に乗っている2本マストの旧幕時代の富士山の絵と比べてほしい。

幕府軍艦 富士山

アサヒグラフ』(朝日新聞社)は1968年9月に「われらが100年」という増刊号を発行している。

維新から昭和までの歴史100年を写真で振り返るという新聞社系の出版物にありがちな内容のものである。

明治維新から100年なのはもちろんだが、その年の秋に東京百年記念祭が催されるのを受けての企画になる。東京百年祭は10月1日の記念式典を中心に各種のイベントが行われた。美濃部亮吉都知事池田弥三郎徳川夢声と講演会を行ったり、都民体力テスト(!)が各所で行われたりした。

 

日本橋三越では「市民三代のあゆみ展」という記念展覧会が行われた。その展覧会で展示された写真なのかは分からないのだが、この『アサヒグラフ』増刊号に幕府軍艦「富士山」の乗組員が甲板に集合している非常に迫力のある写真が掲載されている。

キャプションには以下のような記載がある。

〈「黒船」の脅威をうけてから幕府は外国に軍艦を注文してフランス式の海軍をつくった(アメリカ製の軍艦「富士山」甲板上の幕臣と水兵 1868年) 〉

 

幕府海軍は慶応2年(1866年)1月から約3ヵ月間フランス海軍の伝習を受けている。横浜に碇泊する富士山の艦上で行われたものであった。フランスの艦船ラ・ゲリエールの乗員による伝習で期間は極短期間のものであった。幕府がフランス式の海軍をつくったというのは言い過ぎで正確ではない。年号も1868年とあるがそちらも正しいのか少し不安になる。

とりあえず1868年で大丈夫だとして富士山の行動を追ってみよう。

 

慶応4年1月10日天保山沖で近藤勇土方歳三鳥羽伏見の戦いの敗残兵を乗せて11日兵庫港を出港。紀州由良を経て14日横浜に入港。負傷者を下ろし、翌15日に品川に到着した。

江戸に戻った富士山はそのまましばらく品川沖に停泊。

江戸開城を受けて幕府艦隊の一隻として4月11日に品川から館山に脱走。勝海舟の説得により4月17日に品川へ帰投。28日には観光・翔鶴・朝陽とともに新政府へ引き渡されている。

 

慶応4年の年明けから4月28日までの激動の間にこの「幕臣と水兵」の乗組員たちの写真は撮られたのだろうか。

 

軍装史研究家の柳生悦子氏はその著書『日本海軍軍装図鑑』(並木書房、2014年)にこの富士山の甲板上の写真を元にして〈慶応4年幕府海軍「富士山」艦下級乗組員、同艦小頭、同艦水夫〉のイラストと解説を載せている。『アサヒグラフ』のキャプションを疑わずに幕府時代のものという認識で著述されている。

新政府軍に接収された後の富士山は大村藩の砲銃2隊143人を乗せて8月16日に常陸平潟に運ぶと翌17日遊撃隊人見勝太郎ら旧幕軍を砲撃し敗走させている。

柳生氏が写真に写る兵士を大村藩兵などの新政府軍の兵士としていないのは理由のあることなのだろう。

軍艦や兵士の年時の比定はとても私には無理なことである。柳生悦子氏が写されている兵士たちを疑問なく幕府海軍の軍装としている点を鑑みて、このブログでは幕府時代の「富士山」の乗組員たちがその甲板上で写された貴重な写真ということで紹介する。

 

慶応4年4月時点で富士山には軍艦頭並の柴誠一以下士官5人、士官見習21人、水夫小頭5人、平水夫130人、火焚小頭4人、平火焚35人が乗船していた。幕府海軍では旗艦開陽に次ぐ有力艦であった。

 

富士山といえば、そう、あの近藤勇榎本武揚の有名なエピソードが思い出されるだろう。

 

勇の富士山丸艦に乗り込み東帰するや、一日、船室に榎本泉州と対話せしが、悄然として歎じて曰く、予の前年京師に赴く時、深く決するところあり、よって妻子は訣別し、心窃かに再会を期せざりき。

しかるに今、変故に遭遇し意らずも郷里に帰り、妻子の面に接せんと思えば、また何となく嬉しき様の心地もあり。あに慚愧の至りならずやと。

泉州、それ君の切情なるに感じ、おもむろに慰めて曰く、これ人の実情なり。人にして情なくんば、たとい文武に富むも何ぞ禽獣に異ならん。これ子が子たる所以なりと。

勇もその知己の言に感じ、これよりますます泉州を尊心せり。

丸毛利恒「近藤勇の伝」(『旧幕府』5巻5号)

 

この写真、近藤勇榎本武揚ら幕軍東帰の人々(もちろん土方歳三も)が踏んだであろう富士山の甲板が写っていると思うとたいへん感慨深い。

京都守護職屋敷剣術大会後の打ち上げ

前回の記事に続き中川四明の「怪傑岩倉入道」から落穂拾い的に面白そうな部分を抜き出したい。

小見出し(三)華鬘結(けまんむすび)から、京都守護職屋敷でしばしば催された剣術大会のあとの打ち上げの様子を描写している箇所である。

大会に参加した会津藩士や所司代与力や同心(桑名藩士もか)、京都見廻組の組士、新選組の隊士などが裂いたスルメや味噌をつけたネギを肴にして伊丹の樽酒をガンガン飲んで「蠻からの粉本」(バンカラの見本という意味か)のような「酒合戦」を繰ひろげた。酒どころ出身の会津藩士はここぞとばかりに会津訛りの関東弁で(ネイティブ会津弁だとさすがに会話にならないからか)武芸者たちに無理強いして、ついに彼らが泣きを入れるまでグイグイ飲ませた。

むくつけき男どものこの飲み会…パワハラアルハラ全開だ…

「 (三) 華鬘結

今から言て見れば、示威的とも、威嚇的とも謂へやう。一橋中納言慶喜公が若狭屋敷と稱へた泉苑町の西の屋敷にをられた時分、毎日のやうに歩兵の大調練をやった。三兵答知幾(たくちち)など云ふ新らしい反譯書の讀れた時代で、騎兵らしき騎兵はをらなかったが、砲兵も參加して猛烈な發火演習をやったのだ。城下一圓の人家は、障子が震ひ、屋根の瓦が摺落るばかり凄まじい音をさせたのだ。
禁裏守護職の會津、松平肥後守の役屋敷では(今の府廳の處)屢次劔術の大會を催ほした。 見廻組だの所司代組だの、壬生浪と謂はれて蛇蝎のやうに厭がられた新撰組だのが來て多勢で試合をやって其の果てが、いつも引裂鯣に伊丹の薦樽打抜て、葱の白根に生味噌を撫りつけ、それを下物(さかな)に蠻からの粉本とも謂ひたい酒合戦が始まり、汗臭い稽古衣の儘、會津訛りの阪東聲で、無理強ひに強ひ、酒尙且つ辭せない豪傑までが、兜を脱いで降參するまで飲ませたのだ。」

元京都見廻組・中川四明の書いた龍馬暗殺

明治時代の京都の代表的俳人だった中川四明。本名は重麗。別号は紫明・霞城。東大予備門教授、京都日の出新聞編集を経て大阪朝日新聞に勤めた。正岡子規と親交があり、満月会を興し新派俳句興隆を促した。
その四明は嘉永2年に京都町奉行与力下田耕助の次男として生まれ、二条城御門番与力だった中川万次郎重興の養子となった人である。二条城御門番が幕府の軍制改革で廃されて京都見廻組編入されると養父万次郎は慶応2年9月に見廻組肝煎になる。当時登代蔵と名乗っていた四明も慶応3年2月に見廻組に出仕、京都見廻組表火之番次席となっている。親子二代で京都見廻組士となったわけだ。
この親子は当然ながら幕末の動乱を体験する。

中川万次郎の方は伊庭八郎と交友があり、伊庭の「征西日記」元治元年5月5日の条に名前が出てくる。江戸に帰る伊庭に餞別の扇子を贈っている。伊庭からはお返しとして菓子折を貰っている。
四明の方は俳句に興味がなくても幕末史の好きな方ならあるところで見覚えがある名前かもしれない。大正15年に出版され坂本龍馬に関する最初の史料集となった『坂本龍馬関係文書』全2巻(日本史籍協会叢書)の2巻目に同書の編者だった岩崎鏡川が自ら執筆した「坂本と中岡の死」という116ページにもおよぶ長編が掲載されている。この文章は龍馬暗殺に関して具体的に詳述された一編であるが、そこに中川四明の名が出てくる。京都見廻組に関する記述の材料として中川四明の談話が使われた旨が注記されている。しかし肝心のこの四明の談話は本文の地の文章に溶かされて叙述されているので、談話そのものだけ取り出して内容を確認することができない。岩崎鏡川の「坂本と中岡の死」は今日でも龍馬暗殺に関して必ず目を通さなければならない基礎文献であるが、せっかく集めた貴重な材料(中川四明や菊屋峰吉の談話など川田雪山採集の証言資料)が岩崎鏡川の筆を経て文章化されている。その点惜しい代物となってしまっている。青山忠正は「坂本と中岡の死」に関して〈小説を思わせるよう〉であり〈現代の水準でいう研究とは異質の文章と言わざるを得ない〉という厳しい評価を下している(『明治維新という冒険』思文閣出版)。

その岩崎鏡川の文章と比べてこちらの方が良いのではと思うものがある。宇田友猪の『板垣退助君傳記』の中の龍馬暗殺に関する叙述部分だ。板垣退助の本格的伝記でありながら長らく草稿のまま保管されていて幻の存在だった宇田友猪執筆の板垣伝は1924年(大正13年)の執筆開始から80余年の時を経て2009年~2010年に原書房から全4巻が刊行された。『板垣退助君傳記』第1巻は幕末期の板垣を描いている。龍馬暗殺部分の記述が大変整理されていてかつ詳しいものになっている。そしてその内容の確かさを担保する宇田の一文が以下のように記されている。

「著者の知友川田雪山は、先きに維新史料編纂局の委員として勤務し、特に京都に実地に就いて史料を捜索し、坂本に使用されし菊屋峰吉、並に醤油屋新助方に実話を聴取り、且つ見廻組の一人にて生存せし幕士中川重麗(霞城又四明山人と号す)の談話をも聞き、その他今井信郎五稜郭に捕はれて刑部省に審鞠せられし明治二年の口供書(内に坂本中岡暗殺の供述あり)等を参稽し、事実の真相を確めたのである。即ち此両雄遭難の記事は、主として川田雪山の提供せる材料を採用したのである」

これによれば中川四明の談話を採取したは川田雪山(瑞穂)であることが分かる。岩崎鏡川の「坂本と中岡の死」では四明への取材がどのようにしてなされたのか分からなかったが、『板垣退助君伝記』により事情が判明する。川田提供の材料をもとに、岩崎鏡川も宇田友猪も龍馬暗殺を叙述したわけだ。

叶わぬ願いかもしれないが中川四明の談話そのもの、素材そのものを読んでみたい。四明は見廻組や龍馬暗殺に関して川田雪山にどれくらいの分量でどんなことを語ったのだろうか?

中川四明が亡くなるのが大正6年。その2年前には渡邊篤が亡くなっている。渡辺は死に際して自分が龍馬暗殺の実行者だったことを弟子と弟に遺言しそれが新聞記事になっている。掲載紙は大正4年8月5日の大阪朝日新聞の全国版であった。9月1日と2日にも同紙の京都附録で続報がなされた。これらの掲載に新聞人だった四明が関わったかどうかは不明であるが、京都見廻組の元同僚だった人物の死を前にしての犯行の告白を読んで何か特別に感じ入るものはあったであろう。それに刺激されて中川四明自身が見廻組や龍馬暗殺に関して回顧的に述べたストレートな文章があってもよさそうなものではないか。

実は、代替になるようなものはあるにはある。

『日本及日本人』(政教社)は「回顧半百年」の特集号を大正6年に発行した(第714号)。大正6年は明治50年にあたり、維新から半世紀になることを記念した特別号であった。それに中川四明の〈五十年前の京都を背景〉にした小説『怪傑岩倉入道』が掲載された。同年に亡くなった四明の遺稿であった。

その小説に龍馬暗殺と京都見廻組に関する記述があることをほとんど方は知らないのではないかと思う。
中川四明という元京都見廻組士だった人が龍馬暗殺のことを実は書いていたのだ。
もちろん期待するような直接の回顧譚や回想録ではない。あくまで小説の範囲内の描写にとどまるのだが、それでも貴重な内容が含まれている。知られざる事々を読み取ることができる。

前置きが長くなったが、中川四明『怪傑岩倉入道』からその龍馬暗殺部分をそっくり抜き出して紹介しようと思う。少しだけポイントを述べておくと、

①当日の実行者として近江屋に訪れた人員を佐々木只三郎を加えない、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の6人の名前を挙げている点。今井が刑部省口書で述べていたメンバーに重なる。今井の口書が一般的に公表されるのが『坂本龍馬関係文書』の刊行される大正15年。それ以前に四明は川田雪山から取材を受けた時点で今井の口書の内容を聞き及んだのだろうか。もっとも、大正5年に催された「坂本中岡両先生五十年祭」で岩崎鏡川は記念講演を行い、今井の口書の内容を紹介している。今井が供述書で述べた人員はこの時点で世の中に明らかにはなっている。しかしその講演の時から岩崎は今井は近江屋の一階の見張りをしていて直接の襲撃者ではなかったという態度だった。それに対して四明はごくナチュラルに今井を二階に上がった実行組の一人にしている。

京都見廻組士たちの剣の実力に関する評価を記している点。桂早之助・渡辺一郎・海野弦蔵・渡辺吉太郎など。世良敏郎の養父だった世良吉五郎(名前を吉太郎と間違えて記しているが)はかなりの剣客であったこと。その養父子二人をを混同してしまっていて養父の方の吉五郎を近江屋へ向かった人物としてしまっている。敏郎は「少し読候へ共、武芸の余り無き者故鞘を残し返ると云不都合出来、帰途平素剣術を学ぶ事薄き故、呼吸相切れ歩みも難出来始末」と渡辺篤(渡辺家由緒暦代系図履暦書)に書かれてしまうほどの実力だから、四明が称えている方はもちろん世良吉五郎のことであろう。近江屋で鞘を落とし忘れた件も、襲撃に使用した新刀の刃が曲がってしまったため鞘に入らなかったから抜身を隠しながら帰ったという肯定的なニュアンスで記している。
また、刑部省の大石鍬次郎の供述書に襲撃者候補として名前が出されている海野某こと海野弦蔵についても触れられていて、海野も剣の実力者ながら龍馬暗殺に関わっていないと四明は明言している。 

③伊庭八郎の剣技についての評価。ゴーホの絵を思わせるような剣技だと評されている。ゴーホはゴッホのことだと考えられるが、ゴッホの日本での認知とその評価例として早期のものになるのではないだろうか。ゴッホを元京都見廻組だった人物が受容していたということに新鮮な驚きを感じる。伊庭の剣が「一擧一動、皆焔のやう」だという評価がまさにゴッホの画風を的確に表現しているし、それがあの伊庭八郎に重ねられているというのが二重に面白いことになっている。

④世良吉五郎と渡辺一郎(篤)の二人を番外の小見出しを立ててフィーチャーしていること。四明は渡辺篤の告白の記事を参照しており、それは「(渡辺が)此事を遺言された上は、荷更事實たることを信じたいのである」としているところかもうかがえる。四明は世良と渡辺をメンバーと認めているので、今井の刑部省口書のメンバーにプラス2人の総勢8人(佐々木を加えれば9人)という大所帯の出動だったいうことにしてしまう。はたして四明は事件の出動メンバーを正しく把握していたかどうか。かなり疑問である。

等々である。他にも文武場のついての記述など興味深い記述が見いだせるが、細々追っていくと際限がないのでもう止めよう。


中川四明著「怪傑岩倉入道」(一)~(一〇一)のうち小見出し(六九)から(七〇)までの部分が龍馬暗殺の該当箇所になる。転載しよう。


(六九)北時雨   

  霜月の中句までも、御札踊の騷ぎは尚ほ止まなかつた。此の騷ぎに紛れて長州の奴が入込のでないか、とは少し時勢の分つた人には、想像もされたので、油斷はならぬと、慕府でも浪人だの、勤王家だの、取締を厳重にしてをつた。  
何處から聞たか、見廻組の骨であった取締役の佐々木只三郎が、才谷梅太郎と變名して、土佐の阪本龍馬が、河原町三條下る醤油屋の二階にをることを探知した。 大政返上の主謀者であるので、豫て嫉んでをつたから、 直ぐに組下の股肱を集めた。その名の世に知られてゐるのが、今井信郎、渡邊吉太郎 、桂早之助高橋安太郎、土肥仲蔵 、櫻井大三郎の六人であった。  
桂は京都の新屋敷出で、才氣のあつた人だったから、佐々木に何か言含められ、他に先立て出た。他は夕刻から忍び廻りのやうに、羽織袴で、先斗町の一亭で會食し、戍刻を以て襲込む時刻としてをつた。    
一度伏見の寺田屋で、新選組に踏込れ手傷を負うた事もあるので、 常に警戒はしてゐたものゝ、町家にゐてはと危む友人の忠告も容れす、  
『何に、草莽の志士が奔走する時代は、早や過ぎ去た。何日殺されても大勢は動かない。』と、應しなかつたのだ。さもあらう、大政奉還のことも、我が意見の如く運び、永井玄蕃の役宅へも行たことがある、慕府にする好意は、天も知り、地も知り、慶喜亦知りをられるので、他は眼中になかつたのたのだろう。  
斯う云ふ覺悟であったので、例の二階で、用談を帯びて來た中岡愼太郎と火鉢を間に對坐して、談し合てをつたのだ。後の床には、春の待たるゝ梅椿の掛物が掛けられてゐた。  
處が、をかしいのは、 阪本の奇癖と謂うか。彼れは人と話しをする時、いつも羽織の紐を口にして舐るのであつた。否、舐る許りか、 その紐の末の大きな流蘇になった處の唾液に濡れてをるのも構はないでくるくる、環に廻すのだ。  
談話に熱が湧き、夢中になればなる丈け、環に振る勢ひも烈しくなるので四邊に霏々と飛ぶものも多くなる。中岡も其の奇癖の甚だ劍呑なことを知つてをるので、用心もしてゐたけれども霜月十四日の寒い のこと、何うかすると、此の北時雨に面を濡されるのであった。  
『おいおい、また君困るぢやないか、さう羽織の紐を振り廻はされちや。』   
『やあ、失政した、だが君も不覺ぢやないか、吾輩に此の湯立ての癖のあることを。』  
此時醤油屋の門前を徘徊してゐた乞食があつた。三條の橋の下を我家としてをる其徒の如く、薦を著て頬冠りをしてをつた。その 物音を怪しむ暇もなく、近江屋の猿戸の明た音に足を止め、人の出る氣配を月影に透して身を隠した。  
『何處の難肉屋が好いでせう。』  
『四條まで出やう、僕が案内をしてやらう。』  
『先生が是から一杯やられるのですから評判の好い所を敎て下さい。』  
出て行たのは、土州の岡本某と學僕のやうにしてゐた菊屋峰吉といふ少年であつた。二人の影が行き過ぎた時、彼の乞食は走り去つた。見廻組の桂であつたらしい。  
間もなく佐々木が、醬油屋の門に現はれた。案内を請ひ、  
『私は、十津川の者です、先生に内々御目に掛りたくて出ました。』 
名札には、何と書てあつたか、僕の藤吉は、何も覺らず、 
『畏りました、一寸お待下さい』 
 言ひながら、二階へ昇る、其後から隱れてをつた今井高橋の二人が尾て昇り、今井だらうか 、高橋だらうか、  一刀に斫落す。その物音を怪しむ暇もなく、渡邊桂など亂入し、 阪本も中岡も哀れ霜夜の 露と消えたのだ。 
十月の北時雨か、霜月の湯立か、 一滴 二滴、飛で梅椿の書に灑いだものがあつた。志士の血痕で、靈山に於ける五十毎祭に、人の眼を驚かし 長岡詢氏の筆であつた。  

 
 (番外) 尚ほ二人  

  阪本龍馬を殺した見廻組は前に記した六人丈けの名が世に知られてゐをるが、尚ほ同じ組に二人あつた。一人は世良吉太郎で、他の一人は渡邊一郎(後に篤といふ)二氏であつた。それが今他と別れて、成るべく人通りの少ない處を選て歸るのだ。 
『渡邊さん、お互ひに首尾能くやつては來たが、わたしは困つてゐることがある。』 
世良は見上るほど脊が高い、渡邊は低い方だつた。  
『何うなさったか。』 
『いや、實は今夜などは、好い試し時なので、先日買た新刀を持て行つたのですが、少し曲つたと見えて、何うしても鞘に収まらないのです。』 
『それはお困りでせう。』 
月影に見ると、右の手に抜た儘の長い奴を堤げ、狂言の隠し狸のやうに、袴の中へ挿れて、隠して歩いてゐるので、鋒尖が、袴の裾から覗きもするのだ。 
『大久保彦左衛門の殿中刀のやうですがそれぢや並んで歩きませう。』 
渡邊は、斯う言て、世良の右の 方へ廻り 、肩を並べるやうに食附て歩いたのだ。 
『斯うして行けば大丈夫です、然し、今は何處を通っても賑やかですね。』  
無論血は拭って あったけれども、 血腥臭い香が、袴の裾風に動くのであつた。 
此の二人の名前が、何うして洩れてゐるかは、今も尚ほ疑問である。然し世良は、桂早之助と供に、新屋敷の同心であったが、自から願つて見廻組に轉じ、渡邊一郎は、城番與力で、 一般に見廻組にさせられた時、見習勤の身であったのを召出されたのであった、それで、その地位から見ても、また撃劍に於ても、二人とも優れてをつたので、斯う云ふ場合に人選に預かることも、亦可能なので、 一郎氏が此事を遺言された上は、荷更事實たることを信じたいのである。 
今にわたしの忘れないのは、世良氏の撃劍振りである、新屋嗷の大野鷹之助の門人には、四天王ともして安藤伍一郎、富田純蔵、桂早之助、渡邊一郎を數へたが、これらを殆ど子供あしらひにしてをつたのが世良であった。無論年配も違ひ大野とは相弟子であつたので、その地位か然らしめたのではあらうが、然し、その撃劍は、特殊な性格を發揮してをつた。 
當時は、 道具まで形式が改まり、 胴などは、今と同じやうに短かいのを喜んで用ゐたに、世良は脊も高かつたからではあるが、長い行燈のやうな革胴を著け、これも脊の高いからであらうが、腰が臍の處で、くの字に折れてゐた。それに普通の呼吸に合はす 、 所調半間な行き方で相手を馬鹿にしてゐるやうだった。禪気を帚びてをるやうで、繪に喩へたら、仙崖の漫書のやうな所もあった。 
それから、渡邊吉太郎の撃劍は、大きくて、蘆雪の繪にも似通うてをらうか。尚ほ阪本殺しには、關係はないが、見廻組、 否、 元は別手組であった海野弦蔵の撃劍は、 ヌーボー式とも謂へやうか、太刀の返りの美しかつたのみか、特殊の曲線と見られもした。今一人は伊庭八郎君の撃劍で、一擧一動、皆焔のやうで、ゴーホの筆も思ひ出されるが、旗本氣質の癇癪玉は、蕭伯の畫にも喩ヘられやうか。武徳殿の撃劍を見る毎に、わたし は昔の花を思ひ出さすにゐられないのだ 。 

   (七〇) 文武場  

 阪本中岡の二名士が、前夜見廻組の手で殺された事は、町繪師の秋蓬知らうやうなく、知てもゐるべき同組の杉浦直三郎左衞門も更に知らすにをつたのだ。 その知らす同士が、今ま日暮通りを南へ、暗殺の主謀者であった佐々木 只三郎のことを話しつゝ行たも、何かの暗示のやうであった。 
『御存じはあるまい、佐々木は會津の家老、手代木直右衞門の實弟で、慕臣の家を嗣でるますのぢや、あの男が世に名を知られたは、新徴組の首領頭として近藤勇などゝ、京都へ來てゐた清川八郎を殺した一條からですぢや。』 
『左様で御座りまするか。』 
人を殺したと聞ては、秋蓬の足は進み兼たが、木帷子袴の先生は氣も付かず、  
『清川の事に就ては、わたしは能く事情を知らん、先將軍が初て上洛されるに當り、春嶽さんの建議で、江戸の浪人を集め、淸川を隊長に、京都へ差向けられたので、共の用向が濟むと、將軍の後を追うて淸川も江戸へ歸る、近藤勇は、京の事情が案せられるので、後に殘つて新選組の隊にとなる、清川と議論が合なかつたとも聞てはゐるが、 兎に角清川は其後江戸にて攘夷の軍用金と稱し、町人輩から金を出させ、酒を飲む、女郎屋へ行く、甚だ不評判でもあったので、終に幕府に忌まれ、奴はあゝしても置かれまい、殊に京都の勤王派と氣脈を通じてをる嫌疑もあったので、終に佐々木に内命が下り、赤羽根橋で、酔うて歸る所を、見ごとに一太刀でやつたので、それから重く用るられたのですぢや。』 
『然し、書も御見事になされまするさうで…。』 
『和歌はやります。けれども貴方の御望みのやうな小さい物に能く書くか知ら、唐紙に大きな字ばかり書いてゐるので、お受合は出來ぬが、兎にかくわたしが賴んで見ませう。』 
二人は佐々木の旅宿へ行くのだ。出水を下る間の筋の西の突當りの寺におつたのだ。然し生憎今日は留守であつた。松屋町の文武場へ出てをつたのだ。文武場といふのは、京都の講武所で、家茂將軍上洛後に出來たのだ。 
 江戸の講武所と同じく、劍槍の師範役は面に白紐を著け、教授方が赤紐、世話心得が藍と白との打紐で今の武德殿のやうな宏壯な建物では無かつたけれども、それでも京都では他に類のない檜板を張詰て十間餘りもあり、今堀千五百蔵が最初の師範役であつたのだ。  
 初めは所司代の書院前に假に設けられ、 土間であつたが、此の柿葺の假屋は家茂將軍が二倏城で、武術の上覽をした其の遺物であつたのだ。それが今南明りに窓が設けられ、北に一段高く役員の席が設けられ、東に總溜りの廣間があつて、學問所は北に様を別にし、荷ほ西手には銑陣の調練場もあったのだ。  
  佐々木は今日此の道場へ來て撃劍を見てをつた。諸組から非番の人達が來て、 朝から試合をやつてをつたのだ。前夜の血汐を洗つた許りの渡邊吉太郎も來てをつた、桂早之助も來てをつた、二人とも世話心得で、虎を刺し、龍を屠つて來たので 常よりも元氣に、冬も汗みどろにつて取立てをやつてゐたのだ。 渡邊は白の道具、桂は紺、胴はれは 同じやうに黒の蝋色で、武者振りも好く、殊に渡邊は大わざで人目をひいた。  
 二人が面を脱ぐと、佐々木が來てをつたので、顔を拭き拭き出て行て、他の讀むことの能ない笑ひを浮べ、『昨晩は。』と一禮した。佐々木も『昨夜は御苦勞でた。』と昨夜食たやうな顔もしないで會釋をした。 
 そこへ高橋安太郎も來て、同じ仕事をして置きながら、佐々木に一禮し、 
『只今市中で承りましたが、昨夜壬生の連中が、河原町の醤油屋へ踏込み、土藩の阪本龍馬、中岡慎太郎の兩人を殺したと申すことで。』 
『はゝあ、それは事實かな。』 
『全く事實で……』 
 腹の中で笑つてゐたらうが、竹刀の音の火を出す計りの中で、こんな話しもあつたのである。後に鳥羽の戦争で、此の三人は同じ枕に打死したが、今は大阪城に近き小橋村の心眼寺に、三士は同じ墓田で葬られ、地下に當年のことを語り合てもゐやうか。 


『怪傑岩倉入道』はこの部分の他にもまだまだ幕末の京都に関することや、見廻組の個性派・杉浦直三郎左衛門や薩摩の中村半次郎などに関する面白い記述がある。また別の機会に紹介したい。

北白川宮能久親王と清水谷公考や酒井忠篤たち


名刺判の鶏卵写真。明治6年か7年の撮影だろうと考えられる。留学先のベルリンで写された北白川宮能久親王を囲む公家・大名の子弟らの写真。

『海外における公家大名展』(霞会館、1980年)や『坊城俊章 日記・記録集成』(芙蓉書房出版、1998年)といった図録や本に、それぞれ北白川家と坊城家に伝わったものが紹介されている。鶴岡市の致道館博物館にもパネルで展示されていたものをだいぶ前に見た記憶がある。

どのような人々が写されているのかは『海外における公家大名展』に分かりやすい人物配置図が載っているので転載させてもらおう。
  

戊辰戦争彰義隊に奉ぜられ、奥羽越列藩同盟の盟主と仰がれた輪王寺宮は一年の京都での謹慎ののち明治3年に兄の小松宮彰仁親王の後を追って、プロシア(ドイツ)に軍学を修めに留学。留学中に北白川家を相続した。ドイツ陸軍大学を卒業し明治10年に帰国する。

箱館府知事として榎本軍と戦った清水谷公考。明治4年にロシア留学のため渡航するもロシアを嫌がり病と称してベルリンに留まりそのままドイツ留学に変更になった。明治8年に帰国している。伯爵。

抜群の強さで戊辰戦争を戦った庄内藩酒井忠篤と忠宝兄弟。忠篤は鹿児島での兵学修行のあと西郷隆盛らの勧めで明治5年にドイツに軍事を学ぶために留学。陸軍士官学校に入学。21歳からの8年間をベルリンで過ごした。明治12年に帰国。陸軍中佐として帰朝したが、いかなる事情か中尉に降格され千葉の佐倉に左遷されるなどの処遇を受ける。郷里鶴岡に戻った忠篤はドイツ留学以降のこの間の事情を終生家族にも語らなかったという。
忠宝は明治6年に法律を学ぶために留学。帰国は12年。

坊城俊章は初代山形県知事を経て明治4年ドイツ留学(軍事)。この人も清水谷公考と一緒でロシア留学をドイツ留学に変更した人。
明治7年帰国。陸軍少佐、貴族院議員、伯爵。

鷹司煕通は九条尚忠の子で鷹司輔政の養子。明治5年ドイツ留学(軍事)。明治11年帰国。侍従長、陸軍少将、公爵。

武者小路実世は明治4年ドイツ留学(法律)。明治7年に帰国。日本鉄道創設に参画。参事院議官、子爵。

姉小路公義は萬里小路博房の子で姉小路公知の養子。明治5年ドイツ留学。明治21年に帰国。外務省に出仕。ドイツ・イタリー公使館に勤務。伯爵。

入江為福は柳原前光実弟明治6年ドイツ留学(農芸化学)。明治7年に病を得て帰国後没した。子爵。

裏松良光は明治5年ドイツ留学。翌年の帰国令に従わず明治8年まで在留。陸軍歩兵少佐、貴族院議員、子爵。

前列の右に座る少年だけは残念ながら誰なのか不明である。公家や大名の子弟の一人だろうから簡単に分かりそうのだが…。
どなたか心あたりのある方がいらっしゃいましたら教えください。

江川英武の写真


最後の韮山代官だった江川英武の鶏卵紙名刺版の写真。その容姿に「幕末のイケメン」というタグをつけることに異論はないだろう。

兄江川英敏の死により幼くして江川太郎左衛門家を継承し韮山代官となった英武。維新後は代官所韮山県に移行するとそのまま知事になっている。 
明治4年に海軍の官費留学生として「海軍将帥学并砲術修業」のため米国に留学を命ぜられる。出発は岩倉使節団と一緒であった。そこから明治12年の帰国まで8年間も米国で暮らしている。

留学先はニューヨーク近郊のピークスキル兵学校であった。
英武には同兵学校の制服姿で撮られた写真が何枚かあり、韮山の二人の叔母にその写真を送っている。それら英武の肖像写真や兵学校の教師や学友、岩倉使節団の団員たちや留学生と交わした写真群は公益財団法人江川文庫「江川家関係写真」として保存されている。幕末から明治前半まで江川家に伝わった貴重な写真の一部は重要文化財に指定されている。
重文指定を記念して『写真集 日本近代化へのまなざし 韮山代官江川家コレクション』(吉川弘文館、2016年)が刊行されており、その本を開くと端麗な顔の江川英武の写真を多数見ることができる。

今回紹介する江川英武の写真は上記の写真集46頁に掲載されているピークスキル兵学校の制服姿のものと同じ図像である。江川家コレクションのオリジナル写真はティンタイプ(フェロタイプ)とよばれる漆やエナメルで黒く塗った鉄板に写された一種の湿板写真なのだが、こちらは名刺判の鶏卵紙写真である。オリジナルのティンタイプから複写したもので間違いないだろうが、どういった経緯で複写が作られたのかは不明である。江川家コレクションの目録で確認すると現在この写真はイメージ部分(写真本体)のみ残っているようで、他の英武の兵学校制服姿の写真にはある台紙(金色の縁取りの飾り窓が楕円形に開ている)が失われてしまったようだ。この名刺判写真には楕円の飾り窓が写っているので、台紙がまだ付いていた状態のものを複写したものになる。