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幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

男装の美剣士 中沢琴

「群馬人国記」は昭和44年から翌年にかけて上毛新聞に連載された上毛郷土史の人物小伝集。『群馬人国記』(歴史図書社)として昭和54年に単行本としてまとめられた。利根・沼田の部分を執筆したのは同地の郷土史家岸大洞であり、利根法神流の剣客の小伝を多く収めている。その中の中沢琴の小伝は彼女の伝記の基礎資料となっている。しかし、分量もかなり短いものでしかない。中沢琴について分かっていることは本当に僅かだということを教えてくれている。

抜き出してみよう。

「中沢琴女
貞祇の妹。位牌、過去帳、村の戸籍簿を調べても年齢は不詳だが、貞祇より二、三歳年下。身長は五尺六、七寸、目鼻立ちよく面長。幼いときから父孫右衛門に学び、特に長刀では父にも劣らなかったという。文久三年正月、兄貞祇が新徴組隊士になるために、妻子を送り帰郷すると、お琴は強引に貞祇について江戸へ出た。男装して貞祇と一緒に京へ上り、江戸市中見廻り、毛利、島津両屋敷の襲撃にも加わり、薩摩屋敷で左足のかかとを切られたこともあった。
 庄内戦にも官軍の放火を浴び奮戦。このときにも官軍十数人に囲まれたが二、三人を切り伏せ、たじろぐ敵中を突破して逃げた。江戸でも庄内でも娘たちに、ほれられて困った。兄と帰郷後は嫁に欲しいと申し込む男が多かったが、試合して彼女を打破る者がなく、お琴は独身で過ごした。晩年は一人暮らし。酒を飲むと詩を吟じ剣舞をしたりした。昭和二年十月十二日歿した。八十七、八歳。」

岸大洞には中沢貞祇と琴に関する事柄を書いた沼田の郷土史誌『沼田城』20号(利根沼田を愛する会、昭和42年)もあるようだが、私は未読である。あるいはこちらの方が先行するものだし記述もより詳しいものかもしれない。
また岸の『利根沼田史帖』(みやま文庫、平成5年)にも中沢琴の記述があるが、『群馬県人国記』をほぼなぞったもの。
『続沼田の歴史と文化財』(上毛新聞社、平成17年)は沼田市の市政たよりに連載された岸の郷土史の記事をまとめたものだが、そこにも中沢貞祇と琴に関する項がある。琴の死を「私を一本でも打ちこむ男が居たら結婚するとの言葉も哀れ、昭和二年十月十二日独り淋しく瞑目。八十五、六歳?」と記している。

世に行われる中沢琴の伝はことごとく岸大洞の記すものが根本であり、諸書に表れるものはそれを祖述しているにすぎない。

小西敬次郎「男装の美剣士」(『剣聖の裔』群馬出版センター、平成10年)は中沢琴を描いた伝記というよりは短編小説。
これは平成7年から10年にかけて『群馬風土記』に連載された「剣客万華鏡シリーズ」の中の一編である。
小西には主著である『上毛剣豪史 上下巻』(みやま文庫、1969-1971)がある。

諸田政治『法神流聞書』(煥乎堂、1979) 『上毛剣士総覧』(煥乎堂、1991)は諸田の全3巻に及ぶ上毛剣術史のうちの上巻と下巻にあたる。いずれも利根法神流に関するは優れた研究書。中沢琴の兄で新徴組の剣術指南を勤め、新徴組に関する記録を残した中沢貞祇に詳しい。
『上毛剣士総覧』には彼が書き残した記録二つの翻刻を掲載する。記録とは「新徴隊記録外込もの」(新徴組成立から解隊までの概要と中沢の履歴)と「無題の横帳」(庄内入り以後の詳細な記録)であり、どちらも新徴組研究の重要な史料となっている。難読なこれらの文書を解読翻字をしたのは前橋の武道家 宮内次郎という人であった。

鵜殿鳩翁の「浪士姓名簿」は現存していた!

本日、ツイッターにて貴重な情報を瓢中舎貞秀さまから教えていただきました。いやー、驚きです。瓢中舎貞秀さま、心より感謝申し上げます。
 
なんと!東京大学法学部に「浪士姓名簿」が所蔵されているという。その裏表紙には「御取締役 鵜殿鳩翁」と記名があるそうだ。頁数は60丁もあるという。そして「三田氏圖書之印」との印記があるとのこと。つまりは文行堂から購入したのは三田という人であったのか。あるいはその写本になるのか。いや、そんなことはひとまず置いておこう。
「幻の浪士姓名簿」は現存していたのだ。
これは新選組研究史上のとびっきりのトピックになる。
 
新選組研究者の方々、「さ・わ・げー!」
 

明治2年横浜、木戸孝允の写真

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木戸孝允はその生涯で数多くの肖像写真を残している。

自らの容貌に自信があったため写真を残すことを好んだのだろうか。だとしたら、ややナルシスティックな人物像を感じる。


木戸家の後裔に伝わった「旧侯爵木戸家資料」は国立歴史民俗博物館に寄贈され、そのうちの写真資料は2011年に「侯爵家のアルバム ー孝允から幸一にいたる木戸家写真資料ー」という企画展示で一般に公開された。当時私も佐倉まで展示を見に行った。東日本大震災のあとのことで佐倉の街の建物にも地震の被害が残っていた。千葉県の佐倉市あたりもだいぶ揺れのだなぁと思った。
 
展示は素晴らしいものだった。陶然とすらなった。展示プロジェクトの代表を務めた樋口雄彦氏の仕事ぶりが遺憾なく発揮されていて、幕末維新をテーマとした資料展示のうちでも展覧会史上に残るような出色の出来であったのではないだろうか。樋口氏の圧倒的な仕事にただただ瞠目した。(世の中の幕末維新好きは樋口氏のお仕事に魅了されている人は少なくない筈だ。もちろん私も樋口ファンの一人で、氏が沼津市明治史料館に在籍していた時から同館発行の図録や紀要、史料館通信を集めては氏の仕事を追ってきた)
 
歴博での展示では図録も発行された。これまた内容の最高すぎる一冊になっている。写真の収録点数、解説、コラム記事等々は木戸孝允好きはもちろんのこと、樋口マニアにもたまらなく満足する一冊となっている。私は読む用、保存用、もしものため用の計3冊を売店で買い求めた。
 
歴博の展示は木戸家に伝わり歴博に寄贈された所蔵品だけで構成されていたため、有名な木戸の肖像写真でありながら展示もなく図録にも掲載されていないものというのが何点かある。
例えば、先日このウェブログでアメリカ彦蔵の自伝を紹介したときに図版の木戸の写真をご覧いただいたが、あの上野彦馬の写場で撮られた有名な写真も木戸家には遺されていなかったのか歴博にはない。
もう一つ、明治2年横浜馬車道の内田九一の写真館で撮られた写真も歴博にはない。木戸の肖像の中でも(最近は)もっとも有名な写真といってよく、諸書に掲載されているあの写真のことだ。同じ背景の欄干(敷物は違う柄)で伊藤博文井上馨大隈重信の写真もあるとやつだといえばたちまちご理解いただけるだろう。港区郷土資料館の井関盛艮旧蔵コレクションの中の写真である。日本カメラ博物館やシーボルト記念館にも同じカットの写真が所蔵されている。さらには先日、ヤフーオークションで同カットの名刺版写真が出品されていて、30万円以上という高額で落札されていた。
 
横浜馬車道の内田九一の写場は、背景に配置された細い欄干、敷物の柄という特徴によってその撮影場所を特定することができる。そして木戸は日記を残しているため、明治2年に横浜の内田九一のところで何回か写真を撮っていることも分かっているので、写真と日記の照合を試みることができるのだ。
 
木戸孝允日記』には明治2年横浜での写真に関わる記述は以下の条々である。
 
5月28日「二字前去て写真司九市の店に至り各相写す」
 
11月9日「九市写真店に至り正二郎并に従随のもの等と写真を試む」
 
11月11日「朝晴写真店に至る」
 
12月18日「晴朝正木等来る共に写真に至る」
 
さて、前置きがすごく長くなったが、今回の投稿では木戸の有名な写真と同じ横浜馬車道の内田九一の写場で撮られた写真を紹介したい。こちらは世間的にはマイナーな木戸の写真になる。見たことがないという人も多いのでないだろうか。上述の歴博の展示や図録には見られないもので木戸家に伝来しなかった一枚ということにもなる。
出典は『みつこしタイムス』第8巻12号(三越呉服店、明治43年)。
 明治43年に三越呉服店の写真部が開催した古写真の展覧会「時代参考陳列写真」に出展された写真を紹介したページに載るものである。所蔵者は明治の写真師北庭筑波の息子の伊井蓉峰である。
(ちなみに私が『みつこしタイムス』のこの号を入手したいと思ったきっかけも樋口雄彦氏の書いたものを追っていく中で得たものだ。「写真史のなかの静岡藩と沼津兵学校」『沼津市博物館紀要』32号、『幕臣たちは明治をどう生きたか』を読んでのこと)
 
少年と一緒に写っているこの写真はおそらく11月9日の日記に書かれた(「正二郎并に従随のもの等と写真を試む」)写真ということになろう。少年は木戸の甥で養子となった正二郎で間違いなさそうだ。木戸はこの正二郎やその兄の来島彦太郎(のちの木戸孝正)とよく写真を撮っている。子供とのツーショットが多いのが木戸の写真の特徴でもある。
 
2日後の11日に「写真店に至る」とあるがこれはこの時の写真が出来上がったので取りにいったということかもしれない。
 
5月28日の日記の写真は『松菊木戸公伝』(明治書院、1927年)の口絵写真に掲載された「明治初年の木戸孝允公肖像」という写真になるだろうか。服装から考えて寒い時期のものではない筈だ。キャプションには「明治初年の撮影にして其右端に立てるは公なり」とある。
 
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木戸の写真のうち、内田九一の細い欄干のセットで撮られた写真は私が知るところ上述の3点である。
今回は木戸の肖像写真のうち、『みつこしタイムス』を入手したことから横浜馬車道の内田九一のところで撮られたものだけに限って紹介してみた。
 
最後に木戸の写真に関しての参考文献をあげておこう。
 
まずはなにより国立歴史民俗博物館の図録『伯爵家のアルバムー孝允から幸一にいたる木戸家写真資料ー』(国立歴史民俗博物館、2011年)を参照してほしい。現在、歴博ミュージアムショップで僅かながら入荷したようだ。買わない手はない。
 
『龍馬タイムズ』第117号(東京龍馬会、2016年夏号)には古写真研究家森重和雄氏の「幕末・明治初期に撮影された木戸孝允の写真について」という論考が載る。
 
ネット上では囂庵のホームページにかつては木戸の写真に関する項があった。非常に参考になるものだったが残念ながら現在は見ることができない。再アップをぜひぜひ期待したい。
 
また内田九一の写真スタジオの変遷に関しては石黒敬彰・森重和雄「内田九一写真鑑定術」(『日本写真芸術学会誌』第14巻1号、2005年)、高橋信一『古写真研究こぼれ話』(私家本、2013年)といったの研究の蓄積がある。

井野左近春房

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井野左近春房

慶応元年大坂心斎橋の中川信輔の写場で撮られた肖像写真。


井野家は三河以来の譜代の幕臣
左近は小十人格、歩兵指図役頭取を勤めたという。江川塾で砲術、講武所で洋式調練を学ぶ。幕府の陸軍人として慶応年間は将軍上洛にあわせて京都大坂へ。鳥羽伏見戦い、上野彰義隊戦争で戦ったという。
榎本艦隊にも投じて箱館戦争にも参加。一聯隊差図役として名前が残っている。箱館で敗れた後は静岡県掛川勤番組之改支配二等勤番組。後には工部大学校に奉職したという。

ぐろりあ・そさえて版でいこう!アメリカ彦蔵

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『開国逸史 アメリカ彦蔵自叙伝』(ぐろりあ・そさえて社、昭和7年)

 
アメリカ彦蔵の自叙伝は最初英文で書かれ『 Narrative』(ナラティブ)と題され丸善から明治25〜28年に上下2巻で出版された。邦訳は、先ずは上巻の方を土方久徴が訳して『漂流異譚開国之滴』として出版した。残る下巻はヒコ自らの委嘱で藤島長蔵が翻訳を進めていたが、ヒコが明治30年に亡くなるとその訳稿は出版されずヒコの未亡人のもとに残された。これを惜しんだのが入澤達吉で、話を吉野作造尾佐竹猛石井研堂らに図った。神戸の出版社「ぐろりあ・そさえて」社長伊藤長蔵はジョセフ彦と同郷で彼の先代がヒコと親交があったことから全訳の出版を請け負い、明治文化研究会編集、高市慶雄校訂で昭和7年に上梓された。いわば土方の『開国之滴』と藤島の訳稿との合本の体裁なのであるが、『開国之滴』が原書から省略してしまった部分を高市が補充している。
 
『Narrative』の邦訳は別に平凡社東洋文庫中川努・山口修訳『アメリカ彦蔵自伝』上下巻(昭和39年)としても出ている。この東洋文庫版の方が世間的には流布しているし、統一された訳業なのでおそらくテキストとしてはしっかりしていると思う。
 
しかし、私は声を大きくして言うが、もしアメリカ彦蔵の自伝を書架に納めたいという人がいるなら、ぐろりあ・そさえて社版のこの『開国逸史 アメリカ彦蔵自叙伝』を絶対にお勧めする。古書をぜひ入手して欲しい。実はこの本は復刻版が平成10年にミュージアム図書から出ているが、その復刻版でもダメです。昭和7年のぐろりあ・そさえて社版がマストです。なぜならこの本は図版が豊富でとても素晴らしいからです。33点に及ぶ図版の大部分はヒコの孫の本間英太郎所蔵の原物を撮影して版にしており、原書『Narrative』に収めるものより鮮明なものになっている。
 
慶応3年長崎でヒコが伊藤俊輔から直接に貰い受けた伊藤や木戸孝允の写真も見ることができるのだ。これらはお馴染みの肖像ではあるが、図版は鮮明で木戸孝允の写真には指紋の痕のようなものが確認できる。木戸の指紋かもしれない!(いや、ヒコの指紋、撮影した上野彦馬の指紋かもしれないけれど)
いやはや、とにかく、手にとって欲しい一冊なのです。

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岩瀬忠震に関する本

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岩瀬忠震には中公新書松岡英夫岩瀬忠震』(昭和56年)の他に単書のしっかりした伝記が編まれていない。白鬚神社にある岩瀬鷗處君之墓碑は岩瀬の顕彰碑になっているが、開国の恩人にして幕臣中屈指の才子に相応しい紙碑(伝記本)が新たに編まれることを期待したい。
 
今回のこのウェブログでは、古い本の中から岩瀬の事歴に有益なものを三点ほど紹介してみる。
 
川崎紫山『幕末三俊』(春陽堂、明治31年)
矢部定謙川路聖謨と共に幕末三俊の中の一人として篇を成したもの。岩瀬の初めての詳しい伝記であるとともに、「余、曾て栗本匏庵及び向山黄村諸老を訪ひ、鷗處の人と為りを聴き、また鷗處生前の親友たる永井介堂の嗣岩之丞君より、鷗處と介堂と唱酬の詩歌を得、又幕末の旧記を参稽し、僅に此篇を成す」という内容だけあり資料価値が高い。
 
 
京口元吉「岩瀬肥後守忠震とその手記」(『史観』第62冊、早稲田大学史学会、昭和36年
岩瀬の家臣で「甚愛の親臣」といわれた白野夏雲(今泉耕作)の後裔に伝わった岩瀬の日記、詩稿などが早稲田大学国史研究会に寄贈されたことから、それらを援用して岩瀬の事歴を紹介した論文。白野家からの寄贈の条件が岩瀬の顕彰を行ういうことであったため、その受領の約束を果たすために編まれた論文である。しかしどうせ約束を果たすのなら論文にとどまらないで寄贈史料全部の翻刻がなされるべきだったと思うのだが…。
早大が受贈した岩瀬の遺品は地図、色紙、短冊のほかに「丁巳西征轎中日乗」二冊、「丁巳東遷行程日乗」一冊、「戊午西上日記」一冊、「詩稿手控」二冊の手記類であった。手記類はいずれも備忘追想のため文言は詳細におよんでおらず、忠震の事歴に深く新しいものを加えることができなかったという。しかし、筆跡が見事で文章が簡潔暢達、詩情が裕かであり、挿絵スケッチが精緻である点において岩瀬の詩文書画に秀でていること知らしめる史料だという。今からでもいいからそれらは深く紹介がされて欲しい。
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森篤男『横浜開港の恩人 岩瀬忠震』(横浜歴史研究普及会、昭和55年)

 横浜郷土研究会の副会長だった森篤男による伝記。薄冊のものではあるが、岩瀬を概観するにはコンパクトに良くまとまっている。

 

岩瀬忠震

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岩瀬忠震には写真が残っている。
英国にあるヴィクトリア&アルバート博物館所蔵のものだ。安政5年、日英修好通商条約交渉の英国側の使節エルギン卿の秘書であったウィリアム・ナッサウ・ジョスリンが撮影した幕府側交渉委員7人の中にその姿が収まっている。しかし後列左の岩瀬は撮影中に動いしまったためか、ぼんやりとブレて写ってしまっている。残念ながら写真からはその白皙の美男子ぶりを伺うことができない。その顔を思い浮かべるには土屋禿木が描いたお馴染みの肖像画をよすがにするしかない。
 
岩瀬忠震はどんな顔であったか、想像を補填するものとして例の幸田露伴の「幕末の政治家」から抜き出してみる。これを読むと岩瀬にちゃんとした写真が残っていたらどんなに良かっただろうと思う。
 
〈岩瀬肥後守

目付として、外国奉行として評判ありし人なり。眉のかかり目のあたり立派にして色白の顔、りりしきところあり。義経様といふ諢名負ひたまへりとかや。挙動やや軽くして今の所謂才子肌ともいふべし。高聲のハキハキしてる物言ひにて、人先に発言し、よく自らも笑ひ人をも笑はしめ、面白からぬ談話中にも茶利を交へ警語を放ち、時には人を呑んでかかりて、嘲弄するとまでにはあらねどやや其気味あることあり。中々才ある人と見えたり。〉

 

 

 

松平春嶽

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今回も幸田露伴の「幕末の政治家」から。

松平春嶽です。思案顔、愁い顔で威厳がなく気魄も薄い…。

 

 門地は高き人なれど威やや乏しく、身の丈は普通、やせ形にて面の色青白く、殿様らしくも見ゆれど、俗にいふ思案顔または愁ひ顔ともいふべき歟、細おもての頬こけ、自然に口尖りて見ゆ。つき袖せずして袖の中段あたりに手を下げ居給ふとおぼしく、打見たるところ其為に勢無き異な形に見え、加之少々前かがみにスーッと歩まるるさま、おろかなる眼には威儀無く気魄薄げに見えたり〉

 

 

 

大久保一翁

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幸田露伴の「幕末の政治家」から、今回は大久保一翁の印象記を抜き出してみる。

錆びた声で物静かに語り、光輝く目をしていた。雰囲気のあるシブい大人であったのだろう。

 

〈大久保越中
 顔の構へ立派にて容儀好く、俗にグリ眼といふ眼にて、其ぎらぎらと光り輝くこと当時第一なり。声少し錆ありて、語らんとするに先だち、エーといひて後、静かにものいふ癖あり〉
 
 

箕作麟祥

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露伴全集』第5巻(岩波書房、1951年)に「幕末の政治家」が収められている。幸田露伴が明治30年に発表したもの。焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上のお香・反魂香を用いるという体で幕末の大名や幕臣の容姿、人となりを紹介する興味深い一編である。
 
〈「小説材料帳」といへる秘密の経を心誦しつつ、そぞろに幕末の人々が上をおもひて、観得たるおもむきを語らんかな。〉
 
露伴父親である幸田成延は奥御坊主衆として、江戸城に勤務して、大名や幕臣と身近に接していた幕臣であるため、露伴はその父の回想を主要な材料としてこの一編を書いたものと推定される。
この幕末の幕閣、幕臣らのポートレートの中なら、今回は短めの箕作麟祥勝海舟の姿を抜き出してみよう。
 
箕作麟祥勝麟太郎の同じ麟のつく者同士(二麟)が当時極めて異相ともいえる総髪姿であったことが語られている。
 

〈二麟

 衣服の異様なる人よりも少きは惣髪の人なり。翻訳方の箕作麟祥軍艦奉行勝麟太郎と、揃ひも揃ひて麟の字の付きたる人のみ同じく惣髪なりしは不思議に思はれぬ。〉
 

 この二麟、お互いに目がぱっちり大きくて日本人離れした顔立ちなのもなんとも面白い。