幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

高杉晋作の名刺版写真


慶応2年に長崎の上野彦馬の写場で撮影された写真を複写して、明治に入ってから写真舗で売られたものの一枚だろう。
『幕末明治の人物と風景 ―萩博物館所蔵古写真集成(1)―』(萩博物館、2011年)を見てみると、同館が所蔵しているの高杉の写真の1枚にこの写真と複写の画質(像のコントラストによる飛びと潰れ加減)が同程度のものがある。そちらは丸角の長方形のトリミングがなされている。

第1回内国勧業博覧会集合写真


明治10年8月から上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会。その褒賞授与式に集まった内務官僚や関係者の集合写真。

古くは勝田孫彌の『大久保利通伝』の下巻に掲載されていて有名な写真である。
2015年に国立歴史民俗博物館で開催された「大久保利通とその時代」展には大久保家子孫から寄贈された大判の実物写真が展示された。同展の図録にも載る。
古写真研究家の倉持基氏のお仕事になる『大久保家秘蔵写真』(国書刊行会、2013年)、『華族のアルバム ―秘蔵写真でたどる』(KADOKAWA、2015年)にも掲載されている。

今回紹介するのは鶏卵紙名刺版。お土産写真として写真舗で販売されたものだろう。

中心に大久保利通。その左に松方正義、河瀬秀治、渡辺洪基、宇都宮三郎、山高信離。右側は前島密楠本正隆大鳥圭介、田中芳男、鈴木利亨、武田昌次、多田元吉といった人物が並んでいる。その他に右端の方に写る老人は伊藤圭介。大鳥圭介の左後は近藤真琴。中断の左端の方で帽子?を片手で掲げて剽軽なおじさん風に写っているのは津田真道ではないだろうか。
他にも有名人がたくさん写っているはずだ。その全員の名前が分かるといいのだが。

酒井玄蕃 晩年の写真

その容姿を大山格之助に「容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年であろうとは…」と称された酒井玄蕃
酒井玄蕃の写真についてはかつて2回ほど記事にしたことがある。
酒井玄蕃の写真 - 幕末 本と写真
酒井玄蕃の写真 その2 - 幕末 本と写真

今回は酒井玄蕃晩年の写真。

玄蕃の弟の黒崎研堂の日記を現代文に編訳した『黒崎研堂 庄内日誌 第一巻』(黒崎研堂庄内日誌刊行会、昭和59年)にもこの写真をトリミングしたものが掲載されている。そちらのキャプションには「療養中の酒井了恒・吉之丞」とある。
明治9年2月5日に満33歳3ヶ月という若さで亡くなった玄蕃。確かにこの写真では無精髭を蓄え目も虚ろ、いかにも病み衰えているように見える。晩年の肖像になるであろう。

『黒崎研堂 庄内日誌』から研堂が道中で兄の死の報を受けた日(明治9年2月17日)の条を紹介したい。明治8年の秋に上京したころから重い病に苦しんでいた玄蕃の姿を知ることができる。

【殺仇山(大田原市の南二粁半、佐久山)をすぎて五、六里、 渋谷永太に遇う。はっと驚き、胸騒ぎして、どうした、と訊ねると、お亡くなりになりました、と語って涙は止めどなく流れ、言葉は言葉にならず。車を下りて、荊草を敷き腰を下ろす。しばらくして涙も収まり、且つ語り、且つ咽び泣きつつ、話す。聞けば、「去年の秋上京なされてから具合がすこぶるお悪いばかりか、征韓問題で、日夜病気を冒し、寝食をわすれて、奔走なさいました。これよりさき病気を歎いて、ああやんぬる哉、 天われに韓国の地を踏ましめぬかとおっしゃっていました。そして伊豆の熱海に湯治に行かれて一カ月半、療養に専念されました。ああ悲しいことでございます。私はおそばに侍って百余日になりますが、いまだかつてお宅のことなど一言半句も仰せられず、心配されることは父上の暮し向きがだん だん不如意になることだけで、面にあらわして心配して居られました。それのみならず近衛や巡査になっている庄内の者が毎日うるさい程集まってきて、入れ代り立ち代り貧乏話をして君を悩ましていました。私は殊にこのことを心配していました。 おそらく は積り積った心配が病気を悪くしたのではありますまいか。時々申し上げても少しもお取上げになりませんでした。ああ哀しい。 君はただ医師舜海の言葉を信用なされ、寝食起居ことごとく言い付けを守られていたのに、こんなことになって、医者の言うことなどまったく信用なりません。それだけではなく、発病は先月二十九日でしたが、夜中がばと起きて、ああ胸がつまる、呼吸がくるしいといわれ、一晩中休まれず、夜の明けるのをまちかねて医者に走りました。ところが医者はこっそり私をよんで、あれこれと言います。私は腹が立って腹が立って言ってやりました。そんなことは私の言うべきことではない、あなたが直接申し上げなさいと。医者は納得して、兄上を東京に返し入院させ、療養に専念させ たのです。しかも自身はのんべんだらりと温泉場にいる。いくら腕がよいといっても頼りにならないことはこの有様です。ああ哀しいことです。東京までの帰路二百里あまり(旧制五町乃至六町を一里とす)、いよいよ呼吸が困難になって立つことも出来ず、私が独りで扶けて汽車にのせてあげましたが、そのお苦しみは言葉につくせません。私が至らず、介抱が行きとどかなかったと恐縮しています。ああ哀しい。しかしながら松平様、勝山様、そして栗田様らの看護は実に行きとどいたもので葬式も盛大に営まれました。 これも御恩報じの一端にすぎません、と。聞き終って一同涙にくれるのみ、如何ともすることが出来なかった。仲兄はさらに南下し、私はひとり別れて北に引き返す。仲兄には墓誌のことをお願いし、私は後嗣ぎのことを引き受ける。再び昨日泊った宿駅に帰る。
時まさに二月十七日。死亡の日時は二月五日。発病後八日で去。ゆくゆく思うに、兄上の徳はまさに北条泰時にも匹敵しようが、その学問を完成し得なかったのは天命で致し方ないとしても、もしそれを成就していたならば、どうしてこれらの人々の比であろう。 殿様はこの武将を失い、父上はこの子を失う。わが親戚一同はさらに心を尽して殿様に、父上に報い奉らねばならない】

土方久元に間違われた土方歳三の肖像写真

土方歳三の肖像写真が明治初期にいわゆるお土産写真として土佐藩の土方久元と間違われて販売されていたという話がある。

 

子母澤寛が『新選組遺聞』(萬里閣書房、1929年)の巻頭口絵の土方の肖像写真の説明文で以下のように書いていることがネタ元と考えられる。

 

「この寫眞は永く土佐の土方楠右衛門久之(ママ)壮年時代のものと間違われてゐた」

 

子母澤はこの話をどこから仕入れたのだろうか?土方楠左衛門久元の名前を微妙に間違えている。単純に誤ったか、もしくは台紙の裏にそんな風に間違った名前が書かれた写真(名刺判の鶏卵写真)を実際に見た上でのこの記載をしたのだろうか?

私は可能性として尾佐竹猛の書いたものを子母澤が読んだがゆえの記述になったのでないかと踏んでいる。子母澤寛と尾佐竹の関係性を述べていると長くなってしまうのでここでは省かせていただく。詳しくは新人物文庫版の『新選組始末記』(2010年)の伊東成郎氏の解題部分をお読みいただくと二人の馴れ初めとその後の関係が分かる。(ただし伊東氏の解題は肝心の尾佐竹の名前をなぜかあえて秘している)

尾佐竹の胸襟に入ってその知遇をえた子母澤は東京日日新聞の連載「戊辰物語」が万里閣書房から単行本(1928年)になる際に取材元の一人として尾佐竹の名前を出して紹介している。曰く「大審院判事の職にあられるが、今では明治維新の研究家として、権威を為していられる。氏の研究はただ興味とか趣味とかいう生易しいものではなく、学者として存在するもので、著書数種、錦絵、写真の蒐集、この方面随一の人」。ここでも述べられているように、尾佐竹は古写真の蒐集家でもあった。古写真の資料的価値に早くから気が付きその保存蒐集を訴え、自らも蒐集家として著作の口絵や図版で積極的に古写真を紹介した。永見徳太郎などと並ぶ当時の古写真コレクターであった。古写真の蒐集の大家として有名な石黒敬七は尾佐竹に比べればはるかに後発の人になる。 

その尾佐竹に「古写真の蒐集」(『明治文化叢説』學藝社、1934年)という文章がある。その中で尾佐竹は明治初年にお土産写真の販売店が写真に適当な人物名を書いて売っていた例として次のように述べている。

新選組土方歳三の寫眞を土方久元として賣り出した抔の例は幾らでもある」

 

明治文化叢説』は発行年こそ『新選組遺聞』より5年ほど後だが、「古写真の蒐集」はおそらくそれよりだいぶ遡って発表された文章だろう。同文中「昨年西郷写真のことを某雑誌に掲載」したとある。ここでいう某雑誌とは『新旧時代』(大正14年)のことだ思われる。同誌に尾佐竹は相良武雄の筆名で「西郷隆盛の肖像に就いて」(第1年8冊)「再び西郷隆盛の寫眞に就いて」(第1年10冊)という文章を寄せている。「古写真の蒐集」の初出掲載誌は不明だが執筆されたのは大正15年(1926年)になるだろう。子母澤は尾佐竹の文章を読んだか、直接彼から教示を受けて土方歳三⇔土方久元写真のことを書いたと私は推測している。

 

さて、その土方歳三の肖像写真が土方久元と間違って売られたというのは実際にあったことなのだろうか?実物の写真は残っているのだろうか。

 

その写真があったという報告をするのが今回のブログの眼目。

 

御覧いただきたい。

 

名刺判の小画面に「太政官賞勲局官人像輯」という題箋が上部にあり、その下に3名×3段=9名の肖像写真を合成している。1名の写真の大きさは天地で約2㎝しかない。各々楕円トリミングがされており下部に官位と人名のレッテルがあるが、文字は薄くなっており特に下段の3名は何が書いているかわからない。しかし個々の肖像はよく見るものなので人名はたやすく判明できる。下段真ん中の写真が土方歳三の全身座像になっているのがお分かりになるだろう。

 

被写体氏名は各段右から左にみていくと、

上段に三条実美有栖川宮熾仁・小松宮彰仁親王(東伏見宮嘉彰)

中段:伊藤博文伏見宮貞愛・山縣有朋

下段:西郷従道土方歳三・鳥尾小弥太

 

土方歳三が「太政官賞勲局官人」しばりのこのメンバーの中にいるのは明らかに違和感がある。間違ってチョイスされたのは明らかだ。

明治11年12月の『改正官員録』を見てみると太政官の賞勲局のメンバーにこの写真の人員にちょうど該当する名前をみつけることができる(三条実美が総裁で他のメンバーは議定官。土方久元も同様)。そのことはこの写真の制作・販売時期を考える材料になるだろう。当然ながら土方歳三明治11年には生きていないのだから誤って土方久元の肖像としてこの集成写真に納まっているのだ。

明治10年前後に写真舗が売り出した土産写真の一種でこの手の集成写真はデザインや人物の種類も豊富である。「太政官賞勲局官人像輯」と同シリーズの「九省卿官人像輯」というものもあってそれなどは写真を差し替えて別の題箋をつけて売られた一枚になっている。この2枚のようにテーマに沿って人物を集めたものもあれば、何の脈絡も感じられない人物チョイスがされているものもある。各個人の名刺判写真をカタログ的に集成しているので、一枚一枚個人写真を買うよりもお得なものとして売られただろう。人数が多くなればなるほど個々の肖像サイズは小さくなって豆粒のようになってしまうので肝心の顔がよく分からなくなってしまうものまである。

9名ほどだと肖像としても認識できるし、個々の写真の解像度もそんなに悪くない。土方の洋服のしわもしっかり写っているし顔の目鼻もいちおうは分かる。これは合成の元となる1人写しの名刺判写真の解像度がそれなりに高いものだったことを推測させる。お土産写真として売られたその土方の1人写しの名刺判写真もおそらく存在したはずで、それには土方久元という名前が焼付けられているか台紙裏に書かれているはずである。その作例はまだ見たことがないが今後発見紹介される可能性は大いにある。

 

古写真研究家でこの手の集成写真にしぼって考察されている方はいらっしゃるだろうか?チープななお土産写真としてあまり顧みられることのない写真たちである。しかしテーマや人選、制作年代、販売店などについて深堀りした研究がすすめば、それは明治初年に写真図像を買う側だった人々を活写する「写真経験の社会史」になるであろう。

 

 

※追記 2022年5月22日

尾佐竹猛の「古写真の蒐集」の初出掲載誌は大正15年の『日本及日本人』第107号(正教社、1926年)であることが分かった。

清河八郎の生家

清河八郎は現山形県東田川郡庄内町清川の出身。大庄屋格斎藤家の長男として生まれた。

酒造業も営む斎藤家は大変裕福な家であった。その斎藤家の写真(明治後期ころ)を本やネットで見たことがある方も多いだろう。
たとえばこちらのサイトで見ることができる。
ものすごい先生たちー82 ( 清河八郎・伝記ー1 ・ 誕生、 清川村 ) - 日本国家の歩み
正面の清川学校に伸びる道の左側に斎藤家の外観の一部(板塀と通用門、高くおい繁った屋敷林)が写っている。清河の伝記本や新選組関係の本によく載る写真だ。

これとは別の写真もあり、そちらも板塀と通用門と鬱蒼とする屋敷林が写っているほぼ同じような写真ながら画角はより斎藤家に向けられている。そちらは清河八郎に詳しいこちらのサイトで見ることができる。
清河八郎人物図鑑(齋藤家とその時代)〜回天の魁士 清河八郎〜


これらの写真を見ると斎藤家の豪家ぶりがよく分かる。しかし惜しむらくは斎藤家の建物自体、母屋や屋敷内の様子のなどが分かるものにはなっていない。私は長い間清河八郎を育んだ斎藤家の建物が分かる写真を見たいと願っていた。

数年前に訪れた清川の斎藤家跡地は何もない駐車場っぽい空き地になっていた。清河の生家を示す看板がだだっ広い空間に立ててある。その場所に立つと斎藤家が巨大な屋敷であったことが体感的に分かった。遺構はなにも残っていない。清河の育った家屋敷を想像できるようなもの、そのよすがとなるような他の写真資料はないのだろうか。

後に陸羽西線となる清川地域の鉄道敷設工事の様子をテーマにした明治末から大正初年ごろ発行の絵葉書「横断線工事記念絵はがき」(齋富商店発行)というものを手に入れた。その中の一枚が清川の町を俯瞰した写真であった。大正初年ころの清川の街を見ることができる絵葉書である。
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明治天皇明治14年の東北巡幸の際に行在所になった清川学校が表題になっている。右上にその2階建ての特徴的な建物(名棟梁高橋兼吉による疑似洋風建築)があるのがすぐに分かる。この清川学校の場所から考えてここだと思われる位置に屋敷林に囲まれた大きな屋敷が認められる。清河八郎の生家斎藤家であろう。拡大して青い破線で囲ってみた。その目印のポイントを見てほしい。

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古い絵葉書のうえに遠景なので明瞭に屋敷の様子が分かるとまではいかないのだが、屋敷の両端に樹木がうっそうと繁り、母屋と思われる2階屋の建物とそれに連なる建物、最上川側に小さな三角屋根ふうな2階屋の建物(最上川の眺望が素晴らしかったという楽水楼か?)があるのがわかる。清河の生家の建物を遠目ではあるが見ることができる写真だ。現在の地図と見比べると生家跡地になっている空き地より北西のもう一区画の半分ほどまで斎藤家の屋敷地がおよんでいるように見える。
手前には清河八郎墓所がある歓喜寺も写っている。
なかなかに貴重な絵葉書なのではないかと独りごちている。

近藤勇の絵葉書

昭和2年11月13日、開校したばかりの関東中学校は武道大会とともに近藤勇慰霊祭を挙行する。記念の絵葉書が発行されている。近藤勇の肖像(微妙な感じのもの)と関東中学の校舎、そしてタトウ(絵葉書の袋)である。
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関東中学校はいまの聖徳学園高校のこと。武蔵境にある男女共学の中高一貫校Mr.Children桜井和寿の母校である。開校当時は男子校の旧制中学であった。
創立者は和田幽玄。聖徳太子の「和の御教え」を建学の精神とした。
関東中学は武蔵境に立地しており、近藤勇の生地である上石原村(調布市野水)と近かった。近藤の慰霊祭を和田が行ったのは単純に近所のよしみということだったのか。あるいは和田は特別に近藤や維新史に対して興味を抱いていたのだろうか。

近藤勇 関東中学」のワードでネット検索すると、永倉新八の生家ご子孫のブログがヒットする。慰霊祭の内容が分かるものになっている。該当の記事をお読みいただきたい。
昭和2年、関東中学校での近藤勇の供養祭! | 岡山新選組の新八参上のブログ

昭和2年、關東中学校での近藤勇供養祭(中) | 岡山新選組の新八参上のブログ
この慰霊祭には永倉新八の従兄長倉嘉一郎の子供の長倉正が参加していた。佐藤彦五郎資料館にはその時の長倉と和田幽玄の名刺が残されており、長倉のものには「昭和二年十一月十三日關東中学校ニテ面談ス 永倉新八の息(ママ) 銀行員」、和田幽玄の名刺には「昭和二年十一月十三日 近藤勇先生慰霊祭執行」とメモされているという。

絵葉書という体裁で近藤勇の肖像が残されているものは他に類例があるのだろうか。もしかしたらなかなかに希少なものかもしれないと思い今回紹介した次第である。

榎本艦隊をとらえた唯一の写真

「榎本艦隊をとらえた唯一の写真」とされるものがある。

品川沖脱出直前、慶応四年八月十八日の歴史的な写真だという。

刊本での初出は『別冊歴史読本ビジュアル版 イラストでみる箱館戦争』(新人物往来社、昭和63年)ということになるだろう。巻頭に戸高一成の解説によって紹介された。

写真の来歴もこの本によってわかる。
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「この写真は幕臣松尾一化子旧蔵の紙焼きを所持していた造船史の権威・故山高五郎氏から海事評論家の飯盛汪太郎氏が譲り受け、複写したものを、飯盛氏のご厚意により借用しました」

松尾一化子とは松尾矗明こと写真史家の梅本貞雄のことであり、本来この写真は梅本のコレクション品だったわけだ。梅本が幕臣だった訳ではない。おそらく旧幕臣の持ち物を梅本が手に入れたのではないだろうか。慶応四年八月十八日と日時も明らかなのは鶏卵写真の台紙の裏書きにそのように記載があったのだろう。
いずれにしろ、飯盛汪太郎氏の所蔵という写真を確認すれば何事かは明らかになる筈だ。

沖田総司まぼろしの写真

昭和50年ごろ、沖田総司の肖像写真が発見されたと一部新選組ファンの間で騒ぎが起こったという。

その写真とは如何なるものだったのだろう?

結論からいえば沖田の写真などは発見されなかった。訛伝による間違いであった。

どういうことか。

まずはウィキペディア沖田総司の項から彼の写真について書かれている部分を抜き出してみたい。

〈沖田の写真は一枚も残されていないが、ミツの証言によると、「沖田の次姉キンの文机の引き出しに彼の写真がある」と伝えられていたが、新選組研究者によると、キンの文机の引き出しを調べたが写真はなかったという。家を引越しする際、可燃ごみと一緒に処分してしまったのではないかとされる〉

という一文。注記によれば日野新選組同志会のサイトの記事に拠ったものとある。

日野の井上家(井上源三郎資料館)の2軒先の石坂家には沖田家から伝来した文机が遺されている。その文机の写真を新選組関連の本でご覧になった方も多いだろう。文机の引き出しの中に沖田総司の写真が遺されていたという言い伝えがあったというのだ。

しかしこの話はかなり訛伝と曲解が含まれている。オリジナルのネタ元にあたる必要がある。ネタ元に拠ればこの話のニュアンスが少し違うことが分かる。ネタ元というのは井上泰助の孫にあたる井上信衛が『歴史研究』183号「特集・沖田総司新選組」(新人物往来社、昭和51年4月号)に寄せた「沖田総司の文机」という一文になるであろう。
文机の伝来を示すおそらく最初の文章がこれになるかと思われる。
抜き出してみよう。
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【昭和五〇年七月の暑い日曜日の夕方だった。近くに住む石坂頼三氏が一脚の真黒くすすけた文机を持 って来られた。
 石坂氏の説明ではこの机は沖田家に伝来したものであり、沖田総司もこの文机で幼い頃勉学したのではないかと…言われる。
 面白い話なので、 石坂氏の話と私宅に残る史料や言い伝えを照合してみた。するとこの文机は次のような理由で石坂家に伝来したことがわかった。
 明治六年、 庄内で新徴組解散のため東京へ帰った沖田林太郎一家は、一時日野へ住んだが、 のち長男芳次郎の西南戦争参戦、 林太郎の死等もあり、 明治二二年芳次郎が憲兵として仙台へ赴任した
(中略)
仙台へ赴任する芳次郎は一一、二歳の卓吉を勉強のため東京へ残し、母ミツ、妻花、長男重治を連れ旅立った。この芳次郎の妻花が私ども井上家の祖父泰助の妹である。
(中略)
 芳次郎の塩釜での事業(製塩業とも漁業ともいわれる)は数カ月で大失敗となり、多額の負債を背負ってしまった。その上芳次郎は翌二八年一月二六日に急死してしまった。
 この報せをうけた祖父泰助は田甫を質地として金を借りて仙台へ急行し、後始末をして帰郷した。この時の質地は三反歩ぐらいだったという。
 芳次郎の死後日野へ引揚げた沖田家は、石坂家の東隣りに空家があったのでこれを借りて住んでいた。しかし家が狭かったため不用の荷物等は私宅や隣家の石坂家に預けておいた。
 この石坂家は私宅から東へ大野家、石坂家と並んでいて、石坂家の主婦ブンさん(頼三氏の祖母)は大野家から石坂家へ嫁入りした人で、沖田家へ嫁いだ花とは子供の頃から隣合った家で育ち、小学校の同級生であったため非常に仲が良く、ブンさんも嬉んで荷物を預かってくれた。
 沖田家の日野での生活は七年ほど続き、明治三四年頃立川へ移り住んだ。この時不用になった古い文机は石坂家へ御礼に進呈された。立川へ移ってからもブンさんと花の交際は続き、花は私宅へ用事で来た時も帰りには石坂家へ寄り話し込んでいった。花には死ぬまでプンさんが幼なじみの良い友達だったのであろう。
 さてこの文机だが、素材は杉板で、甲板の両端に筆返しがつけられており、 板脚で両側にかんたんなくり型がほどこされ中央に亥の目が抜かれている。中央に六センチほど深さのある引き出しがつけられている。
 甲板は長さ七五センチ、巾三一一センチ、高さは二〇.五センチだが高さはこの机が作られた時より少し切り、低くされたと思われる。全体に真黒くすすけている上、甲板には誰のいたずらかきりか小刀であけられたような穴が五つほどあり小さなきずが一面にある。引き出しを抜いた甲板の裏に□□□年、三月廿八日と書かれているが、年より上は引き出しの出し入れのため擦れて完全に消えている。 引き出しの奥板の裏にすすけて板が黒くなっているが「をきん女」とあまり上手でない字で書いてあるのがかすかに読みとれる。
 この机は手法、および全体の古さから幕末かそれ以前に作られたものであることがわかり「をきん女」の落書から、沖田総司の姉きん関連あるものと思われ、弟の総司もこの石机で勉強したものであろうことが連想される。
 石坂ブンさんもこの机について「沖田家の机である」と孫の頼三氏や清治氏に語り残されている。
「こんな古机がと思ったが、おばあさんが沖田の机だと話していたので棚からおろしてみたが、沖田総司にも関係があり大切なものだんにったら、大事に保存しておきましよう」と石坂頼三氏は持参されたときより大切そうに机を持ち帰られた。
 またこの文机の引き出しに入っていたものか、総司の写真が石坂家にあり、昭和の初め頃ある新聞社がこの写真を借りに来たという話を谷春雄氏が聞き込み、石坂氏にせがんで天井裏まで探してもらったが、昭和四〇年頃の改築の時に他のゴミと一緒に庭で燃されてしまったものか遂に発見できなかった。昨年この話を総司ファンの人にどう聞き違えられたものか、「日野で沖田の写真が発見された」と騒がれたらしい。 「とんだ話で…」と当の谷氏は苦笑していた。】

ブログ冒頭に沖田の写真が発見されたと騒ぎなったとことがあると書いたのはこのことである。
そして一読してもらえたら分かるように、石坂家に沖田家の文机が伝来していたことと沖田の写真が石坂家に残っていたことはセットの話ではない。
石坂家に沖田の写真が遺っていると聞いた谷春雄が石坂家に問い合わせてくまなく探してもらったが遂に見つからなかった。見つからなかった理由として昭和40年ころの石坂家の改修の際にゴミと一緒に燃やされてしまったからかももしれないと谷は推測した。そしてその写真が石坂家に遺されたのは文机の引き出しに入っていたからものかもしれないと推測に推測を重ねているだけの話なのだ。

整理しよう。
石坂家に沖田の写真は遺されていたという話があった。ただしその写真は沖田家の文机の引き出しにあったかものかどうかは分からない。文机の引出しに偶然に残置されたものでなく写真は写真としてちゃんと遺されていた可能性がある。しかし結局実物は見つかっておらず、ないのではあればゴミとして燃やされたのかもしれない。つまりこれがネタ元の井上信衛の文章から読み取れる最大限の情報なのである。

もとより伝聞要素の強い話、というか伝聞要素しかない話で、実物の写真については何一つ明らかななものがない。つまりこれを事実であったとは積極的には思えないのだが、唯一沖田の写真が残っていた可能性があったとすれば、この話の石坂家に伝来した写真がそれであったであろう。沖田総司まぼろしの写真だ。

近藤勇は幕末の京都で写真を撮っている。谷万太郎が大坂屋与兵衛で撮った写真もある。新選組隊士のうち幕末の京都で撮影された写真はこの二人のものであるが、当然その他の隊士も幕末の京都や大坂の写真師のもとで写真をのこしていた可能性はある。沖田の写真もまた同様であろう。

※沖田の肖像にについては沖田要をモデルとした肖像画や偽写真として有名な原康史『激録 新撰組』の表紙の写真(ベアト撮影の武士モデル写真)などがあるが、それらは話題にされつくされている感があるので今回は(『激録 新撰組』の表紙だけ掲げるが)触れないでおく。
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松平権十郎親懐の写真

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文久3年、幕府は江戸市中の治安警察強化のために庄内藩はじめ13藩に市中巡邏を命じた。庄内藩では若き中老・松平権十郎親懐をその総指揮者とし付属の新徴組をもって治安護持に当たらせた。
松平権十郎の勇名は江戸市中に轟き、河原崎権十郎(九代目團十郎)と並び称され「江戸の団十郎、庄内の権十郎」と喝采を浴びた。錦絵が売り出されるほどであったという。
その権十郎の写真。これはあまり知られていない写真かと思われる。老境に差し掛かっているが貫禄がある姿だ。ハットとステッキがお洒落である。江戸市民に噂されたのもなんだか分かるようだ。

権十郎天保9年4月27日、藩中老松平親敏の長子として生まる。幼名市之允。
慶応2年、酒井右京・大山庄太夫ら藩政革派を弾圧し(丁卯の大獄)藩論の統一を図った。
戊辰戦争では本営にあって帷幄の首脳となる。
明治2年泉藩大参事。
明治4年〜明治7年まで酒田県知事。
明治5年に着手した後田山開墾には総長として統括に当たった。明治11年租税1万余円を流用した罪により禁獄235日に処せられる。出獄後も長く開墾場の統理に任じられた。
大正3年9月30日没す。墓所は大督寺。