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子母澤寛の祖父は幕臣だったのだろうか?

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子母澤寛の祖父というのは微禄の御家人であり、上野彰義隊に参加し、敗れたのち箱館でも戦い降伏。士籍を返還して札幌近郊の開墾を経て厚田村に流れ着いて網元や貸座敷業や旅館業を営み、土地の顔役として生涯を終えたという。

この祖父に盲愛にも似た可愛いがられ方をされたことが子母澤の文学上の源泉となり、その佐幕意識にもとずいた幕末ものの小説を数多く作り出したとされる。
 
たとえば『中央公論』(昭和42年8月)で子母澤と司馬遼太郎とが対談を行っているが、そこでも子母澤は司馬に幕臣意識を指摘されて、同意している。
 
(司馬)
私、今日伺おうと思っていたことがひとつございますんですが、それは何でもないことですが、先生の作品を読んでいて、先生の場合は幕臣だったおじいさんをお持ちで、どうしても幕臣だったおじいさんの気持ちとか、美意識とか、そういうものを自分が書かなくては、という悲壮感があるように思えてならないのですが、やはりございましょうね。
 
(子母澤)
それはありますね
 
子母澤には祖父を主人公とした作品が数作ある。
伝法肌の江戸っ子の御家人の主人公が彰義隊に参加する長編『花の雨』(主人公は三十俵取りの御家人伴鉄太郎)やほぼ同じテイストの作品『昼の月』(微禄の御家人桜井金之助)の二つの長編は子母澤の祖父斎藤鉄太郎の人物像をモデルにしていると言われている。
 
祖父の姿をストレートに描くのは短編の諸作品である。
蝦夷物語』(別冊文藝春秋、昭和33年17号)は子母澤の代表作のひとつで、上野彰義隊の戦いで敗走した御家人が、苦労しながら仙台までたどり着き、榎本艦隊に合流、蝦夷にわたり箱館戦争に参加するという祖父斎藤鉄太郎の姿を描いている。
 
その続編ともいえるのが『厚田日記』(小説新潮昭和36年10月)で、祖父斎藤鉄太郎が箱館で降伏した後、札幌近郊の開拓地で開墾を始めたが、敗残の同志と謀って逃亡、落ち延びて小漁村の厚田村に土着するまでを描く。
 
『南に向いた丘』(小説中央公論昭和36年7月)はほぼ『厚田日記』に準じた内容になっている。
 
それぞれの作品で子母澤の祖父斎藤鉄太郎を幕臣御家人としている。
 
蝦夷物語』では「斎藤鉄太郎 御家人、二十俵」としている。そして子母澤が祖父を描くときの重要な登場人物で、上野の敗走から箱館戦争厚田村の土着まで常に行動を共にする祖父の相棒の福島直次郎を「福島直次郎 御家人、踊に長じ料理うまし」と書く。
 
『南に向いた丘』では「斎藤鉄太郎 二十俵の小普請の御家人で本所南割下水に住んで居りましたが、まだ女房もなく道楽者かと思えば、ひどく切り几帳面なところがございました。二十七八ではなかったかと思います。薄あばたがありました」と描く。
相棒の福島直次郎は「やっぱり御家人。斎藤よりもっと微禄であったようです。痩せたすらりとしたなかなかの粋きな人で踊は全くの玄人で江戸で寄席に出た事がある。それに手先が器用で料理が上手だったと申します。山谷堀の八百善で内緒で頼み込んで洗い方をやりながら板前を見習ったというのも本当のようです。
江戸にいた頃は、黒八の半天などをひっかけて服装風体悉くどう見ても職人のようだった。年はよくわかりませんが斎藤より二つ三つ年下でございましょう」とする。
 
祖父を描くこれらの短編のベースとなった作品が、昭和7年に『改造』に掲載された『無頼三代』であろう。刊本は同年に春陽堂から日本小説文庫の一冊として出されている。
しかし『無頼三代』は戦後に書かれた作品と決定的に違う点がある。そこでは子母澤寛の祖父は幕臣ではない。微禄の御家人という設定ではないのだ。
伊勢の藤堂藩の家中で江戸上屋敷で生まれたものの若くして屋敷を出てヤクザになった人物、それを祖父として描いている。
 
「私の祖父は江戸の無頼(やくざ)でありました。
本来は伊勢の藤堂さんの家中であります。何時頃から、何うしてそんな仲間に入つたのかは解りませんがー身体一面に龍の刺青があつて、その背中の真ン中のところに丈五寸幅三寸位の観音様の御立姿が、輪郭をとつて立派に彫つてあつた。このお姿の開眼を、何処からどう手を廻したものか、その頃の浅草伝法院の偉い坊さんに、あの本堂の御厨子の前で、一針ちくりとやつて貰つたのが、二十一の春だつたーと話してゐましたから、もうその頃には、一人前の無頼者(やくざもん)だつたと思われます。」
 
「本名が松村十次郎といふのですが、その時分は、斎藤鐡五郎と偽名し、刺青が異名になつて、観音の鐡が通り名だつたと云ひます。」
 
「祖父などは、伊勢ですが江戸で生れて江戸で育ち、しかも年少からの無頼(やくざ)です。」
 
「まして祖父に至つては、屋敷を出て、(よくわからないが、例の観音様を彫るのに三年半かかつたといふから、十七八頃と思ふ)以来といふもの、ばくちを打つのが全くの渡世で」
 
まず祖父の本名を松村十次郎としている。これは子母澤の本姓である梅谷を梅から松に変えて作中では松村としたのだろう。梅谷十次郎が祖父の本名と考えられる。また戦後の諸作品が斎藤鉄太郎と名乗ったとしているところを斎藤鐡五郎と偽名したとするのも特徴的だ。
そしてなにより『無頼三代』では子母澤の祖父は上野の彰義隊に加わっていない。
斎藤鐡五郎は吉原の妓楼に居続けしていたのだが金が足りなくなって、行灯部屋に押し込められていたところを、腕のいい板前だったがいまは身を持ち崩して妓夫となっていた直次郎という男に、品川に停泊している榎本艦隊が北走前に兵士を募集しているからそれに参加しようと誘われたのがきっかけとなり妓楼を逃げ出て、榎本軍の徴募に応じて蝦夷地に渡った。蝦夷地では榎本軍でもヤクザばかりの組で大砲を引いていたというからほとんど軍夫としての参戦だったように描かれている。
幕府の禄を食んでいたわけではなく、やくざが身も持ち崩してそこから脱するために榎本軍に徴用されたという設定なのだ。相棒の福島直次郎も元は板前であり、御家人などとはしていない。
 
『無頼三代』を読む限り、祖父が御家人だったというのは子母澤の戦後に後付けたことではないのだろうかという疑問が湧きあがる。子母澤が家の歴史を騙った可能性はないだろうか。
思い切りちゃぶ台返しをするようなことを言っている。
幕臣の孫としての子母澤の文学的源泉を疑おうというのだ。
 
いや、好意的に解釈すべきか。江戸勤番の津藩士の子弟が微禄の御家人の養子となったという可能性もないではない。斎藤が養家の姓であるかもしれない。
しかしこの『無頼三代』での語り口は一切その素振りを伝えてくれていない。
 
北海道に栗賀大介という史家がいた。永倉新八の伝記『新選組興亡史 永倉新八の生涯』(新人物往来社、昭和47)の著者といえば新選組好きには通りがいいだろうか。その栗賀に『サムライ移民風土記 北海道開拓士族の群像』(共同文化社、昭和63)という著作もある。この本は会津藩士や淡路稲田家家臣たちの入殖、あるいは新選組御陵衛士阿部隆明の明治に入ってからの北海道での履歴について詳しかったりするのだが、梅谷十次郎にも項がたてられている。
そしてそこには以下の記述がある。
厚田村役場の明治の古い戸籍簿によると、梅谷十次郎は、三重県度会郡山田府内町拾貳番地亡梅谷与市四男分家、母は亡サエ。出生は嘉永元年拾貳月貳日となっている」
 
果たして子母澤寛の祖父は本当に幕臣(御家人)だったのだろうか。そして上野彰義隊の戦いに参加したのだろうか。
我々は戦後の諸編に巧みに加えられ子母澤の創作部分を真実だと思い込んでいる節はないのだろうか。
 
子母澤寛の佐幕意識の源泉が那辺にあったのか、これらは作家子母澤寛に関する文学研究、作品研究上の大いなる課題となるのではないか。
そしてそれらの解明は、やはり国文学を探求する人々に託されるべきであろう。