幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

土方久元に間違われた土方歳三の肖像写真

土方歳三の肖像写真が明治初期にいわゆるお土産写真として土佐藩の土方久元と間違われて販売されていたという話がある。

 

子母澤寛が『新選組遺聞』(萬里閣書房、1929年)の巻頭口絵の土方の肖像写真の説明文で以下のように書いていることがネタ元と考えられる。

 

「この寫眞は永く土佐の土方楠右衛門久之(ママ)壮年時代のものと間違われてゐた」

 

子母澤はこの話をどこから仕入れたのだろうか?土方楠左衛門久元の名前を微妙に間違えている。単純に誤ったか、もしくは台紙の裏にそんな風に間違った名前が書かれた写真(名刺判の鶏卵写真)を実際に見た上でのこの記載をしたのだろうか?

私は可能性として尾佐竹猛の書いたものを子母澤が読んだがゆえの記述になったのでないかと踏んでいる。子母澤寛と尾佐竹の関係性を述べていると長くなってしまうのでここでは省かせていただく。詳しくは新人物文庫版の『新選組始末記』(2010年)の伊東成郎氏の解題部分をお読みいただくと二人の馴れ初めとその後の関係が分かる。(ただし伊東氏の解題は肝心の尾佐竹の名前をなぜかあえて秘している)

尾佐竹の胸襟に入ってその知遇をえた子母澤は東京日日新聞の連載「戊辰物語」が万里閣書房から単行本(1928年)になる際に取材元の一人として尾佐竹の名前を出して紹介している。曰く「大審院判事の職にあられるが、今では明治維新の研究家として、権威を為していられる。氏の研究はただ興味とか趣味とかいう生易しいものではなく、学者として存在するもので、著書数種、錦絵、写真の蒐集、この方面随一の人」。ここでも述べられているように、尾佐竹は古写真の蒐集家でもあった。古写真の資料的価値に早くから気が付きその保存蒐集を訴え、自らも蒐集家として著作の口絵や図版で積極的に古写真を紹介した。永見徳太郎などと並ぶ当時の古写真コレクターであった。古写真の蒐集の大家として有名な石黒敬七は尾佐竹に比べればはるかに後発の人になる。 

その尾佐竹に「古写真の蒐集」(『明治文化叢説』學藝社、1934年)という文章がある。その中で尾佐竹は明治初年にお土産写真の販売店が写真に適当な人物名を書いて売っていた例として次のように述べている。

新選組土方歳三の寫眞を土方久元として賣り出した抔の例は幾らでもある」

 

明治文化叢説』は発行年こそ『新選組遺聞』より5年ほど後だが、「古写真の蒐集」はおそらくそれよりだいぶ遡って発表された文章だろう。同文中「昨年西郷写真のことを某雑誌に掲載」したとある。ここでいう某雑誌とは『新旧時代』(大正14年)のことだ思われる。同誌に尾佐竹は相良武雄の筆名で「西郷隆盛の肖像に就いて」(第1年8冊)「再び西郷隆盛の寫眞に就いて」(第1年10冊)という文章を寄せている。「古写真の蒐集」の初出掲載誌は不明だが執筆されたのは大正15年(1926年)になるだろう。子母澤は尾佐竹の文章を読んだか、直接彼から教示を受けて土方歳三⇔土方久元写真のことを書いたと私は推測している。

 

さて、その土方歳三の肖像写真が土方久元と間違って売られたというのは実際にあったことなのだろうか?実物の写真は残っているのだろうか。

 

その写真があったという報告をするのが今回のブログの眼目。

 

御覧いただきたい。

 

名刺判の小画面に「太政官賞勲局官人像輯」という題箋が上部にあり、その下に3名×3段=9名の肖像写真を合成している。1名の写真の大きさは天地で約2㎝しかない。各々楕円トリミングがされており下部に官位と人名のレッテルがあるが、文字は薄くなっており特に下段の3名は何が書いているかわからない。しかし個々の肖像はよく見るものなので人名はたやすく判明できる。下段真ん中の写真が土方歳三の全身座像になっているのがお分かりになるだろう。

 

被写体氏名は各段右から左にみていくと、

上段に三条実美有栖川宮熾仁・小松宮彰仁親王(東伏見宮嘉彰)

中段:伊藤博文伏見宮貞愛・山縣有朋

下段:西郷従道土方歳三・鳥尾小弥太

 

土方歳三が「太政官賞勲局官人」しばりのこのメンバーの中にいるのは明らかに違和感がある。間違ってチョイスされたのは明らかだ。

明治11年12月の『改正官員録』を見てみると太政官の賞勲局のメンバーにこの写真の人員にちょうど該当する名前をみつけることができる(三条実美が総裁で他のメンバーは議定官。土方久元も同様)。そのことはこの写真の制作・販売時期を考える材料になるだろう。当然ながら土方歳三明治11年には生きていないのだから誤って土方久元の肖像としてこの集成写真に納まっているのだ。

明治10年前後に写真舗が売り出した土産写真の一種でこの手の集成写真はデザインや人物の種類も豊富である。「太政官賞勲局官人像輯」と同シリーズの「九省卿官人像輯」というものもあってそれなどは写真を差し替えて別の題箋をつけて売られた一枚になっている。この2枚のようにテーマに沿って人物を集めたものもあれば、何の脈絡も感じられない人物チョイスがされているものもある。各個人の名刺判写真をカタログ的に集成しているので、一枚一枚個人写真を買うよりもお得なものとして売られただろう。人数が多くなればなるほど個々の肖像サイズは小さくなって豆粒のようになってしまうので肝心の顔がよく分からなくなってしまうものまである。

9名ほどだと肖像としても認識できるし、個々の写真の解像度もそんなに悪くない。土方の洋服のしわもしっかり写っているし顔の目鼻もいちおうは分かる。これは合成の元となる1人写しの名刺判写真の解像度がそれなりに高いものだったことを推測させる。お土産写真として売られたその土方の1人写しの名刺判写真もおそらく存在したはずで、それには土方久元という名前が焼付けられているか台紙裏に書かれているはずである。その作例はまだ見たことがないが今後発見紹介される可能性は大いにある。

 

古写真研究家でこの手の集成写真にしぼって考察されている方はいらっしゃるだろうか?チープななお土産写真としてあまり顧みられることのない写真たちである。しかしテーマや人選、制作年代、販売店などについて深堀りした研究がすすめば、それは明治初年に写真図像を買う側だった人々を活写する「写真経験の社会史」になるであろう。

 

 

※追記 2022年5月22日

尾佐竹猛の「古写真の蒐集」の初出掲載誌は大正15年の『日本及日本人』第107号(正教社、1926年)であることが分かった。