幕末 本と写真

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三宅友信

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三宅友信の肖像写真を絵葉書にしたものを入手した。

明治2年の撮影の肖像だという。敷物は初めて見るもので、セットから写真師が誰かを類推することができない。

 

三宅友信
「名は鋼蔵、毅齋と号す。三河国田原藩主十一代康友侯の第四子にして封を受くべくして襲がず、早くより時勢のおもむくところを達観し蘭学を究め泰西事情に精通す。幕末の田原藩が我が国外交史上に燦然たる光を放つに至りしは信友侯の力あづかりて大なりしなり。けだし侯の如き維新大成の隠れたる功労者と云ふべし。明治十九年八月八日江戸巣鴨の藩邸に薨ず。歳八十一、東京雑司ケ谷真要山本浄寺に葬り芳春院殿毅翁大居士と諡す。」
(『三宅信友侯 鈴木春山 遺芳絵葉書』より)
 
絵葉書の袋に書かれている上記の伝は簡略に過ぎようか。
三宅友信は渡辺崋山伝中の重要人物として知られるだろう。
 
友信は田原藩(三宅家)第八代藩主康友の四男として生まれ、九代康和・十代康明は異母兄にあたる。
兄康明が文政10年に亡くなると、後継問題が噴出。血統の友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しいことから、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直)が養子として迎えられ、友信は病弱を理由に跡継ぎとして排された。
翌年、友信は前藩主扱いの隠居格とされ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、隠居していた巣鴨田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていたという。高野長英・小関三英らに蘭書の翻訳を行わせた。
安政3年には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。
維新後は田原に居住し、明治14年には、『華山先生略伝補』(重要文化財)を著す。晩年は東京巣鴨にまた移り、明治19年逝去。東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。
没後50年の昭和10年に従四位を贈られる。

 

著書に『括襄録』、『桂蔭鎖語』、三河国志』、『芳春園寓筆』、『崋山先生略伝補』。訳書に『鈐林必携』、『西洋人検夫児日本誌訳』、『泰西兵鑑初編』(安政3年刊)、『泰西兵鑑二編』などがある。