北埼玉郡長などを勤めた林有章の喜寿を記念して発刊された『幽嶂閑話』(非売品、昭和10)は林の自叙および回顧録であるとともに熊谷の郷土史誌として優れた一冊である。昭和55年には国書刊行会から『熊谷史話』と改題して復刻されている。
明治10年、旧島原藩士の漢学者大竹政正は熊谷に招聘され変則中学として設立された折遆学社で教鞭をとることになった。
大竹に学んだ林は自らの回想記に大竹政正に関する項をたててその人物像を伝えている。
大竹政正は幕末に島原藩の公用方として慶応期に京都にあって幕末の動乱を経験した人である。
大竹がある集会で薩摩藩の大久保一蔵と席を同じくした時のこと。議論は白熱してついには激論となってしまった。独断場の大久保は大竹や居並ぶ諸藩の公用人に次のような暴言を吐いという。
「今から俺がその丼に小便をするから、お前ら、それに顔をつけてを目を覚ませ!」
大久保利通の面目躍如という感じのエピソードである。暴言を吐かれた大竹政正は怒り心頭となった。
「慶応年間国事漸く多端ならんとするや、各藩の俊秀は概ね輦轂の下に集まつた、其頃先生も亦藩命に依て公用人となり、京師に駐まり日夕各藩の公用人と折衝して居られた或る時、各藩公用人集会の席上、薩藩の公用人大久保市蔵(後の内務卿大久保利通公)と激論を闘はしたが、大久保は「諸君の如き時勢を見るの明なき者は今我輩が此丼に放尿するからそれを附けて目を覚し玉へ」と豪語した、これを聞いた一同の者は非常に憤慨し、若し彼大久保が果して放尿ひたならば、一刀の下に斬り捨てやうと約した、そして其斬り手を引受けられたと云ふが、然し大久保も結局そんな粗暴な事もしなかつたので無事に治まつた。」
大竹政正。号を青山。島原藩の人。文武師範役の家に生れ、初め権太夫と称し後勝太郎と改め魁菴とも青山とも号した。少時藩校の稽古館に学び嘉永四年から安政二年まで江戸にあり古賀謹堂に学ぶ。安政四年長崎に出て砲術練習の命を受く。幕府の訳官名村貞五郎に従い蘭学を修め文久元年までそこにとどまった。当時の同窓に福沢諭吉、福地源一郎、細川潤次郎らがいた。
慶応年間、藩の公用人として京都に駐まり諸藩士との折衝の役を務めた。
維新後は熊谷の折遆学社で教鞭をとり、のち熊谷公立中学校長となる。
明治16年54歳で熊谷にて歿す。熊谷寺に埋葬された。