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本庄宿篝火事件は解明されたのか

文久3年2月10日その2日前に江戸を発した浪士組は中山道本庄宿に宿をとった。そこで起きたとされるのが芹澤鴨による本庄宿篝火事件だ。

この事件に関しては菊地明氏に「本庄宿篝火騒動の真相」(『ここまでわかった!新選組の謎』新人物文庫、2015年)があり、長年にわたり真偽不明であるこの事件に迫っている。
菊地氏は、芹澤鴨の宿を取り忘れた人物は道中目付だった岡田盟であり、その時点で「先番宿割」の役に就いていない近藤勇はこの件に関しては無関係であり、芹澤が大篝火を焚いたのは岡田盟との悶着が原因だったと推定している。
菊地氏は石坂周造の残した「廻状留」の深い読み込みと、浪士組五番組の高木泰運の残した「御上洛御供先手日記」の記す次の一節に拠って立論している。
〈十二日清し 三番組小頭軍礼を敗り、岡田盟本庄宿ニ手違江有之候〉
という条である。これは本庄宿から2日後の日記の記載である。
 
高木泰運の「御上洛御供先手日記」は『新田町誌』第二巻 資料編(上)(新田町、1987年)に所収。菊地明氏は「本庄宿篝火騒動の真相」の中でなぜかこの日記を高橋常太郎の書いたものと誤ってしまっている。高木泰運も高橋常太郎も同じ上州人だが、高木泰運(潜一郎または要次郎とも)は新田の人、高橋は渋川宿の人。姓も違う二人をなぜか混同してしまっている。もっとも菊地氏の『新選組謎とき88話』(PHP研究所、2013年)という著作の中ではちゃんと高木泰運の日記としている。発売はそちらの方が先である。『ここまでわかった!新選組の謎』はその2年後の本になる。後発のものの方が誤っているという珍現象が起こっている訳だが、そもそも菊地氏の論考の初出は雑誌『歴史読本2012年9月号に書かれたもの。そこから校正、訂正を丸っきりしないで改められた認識のものをすっ跳ばして書籍化した出版社の姿勢はいただけない。

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高木泰運(要次郎または潜一郎ともいった)のお墓
さて、その高木泰運の日記は肝心の2月10日の記述自体はいたって淡白である。
「十日之朝少之西風 」「泊り  本庄宿  角屋」とあるだけである。
 
その夜の本庄宿に関してはもう一つの記録、浪士組二番組の村上俊平の「浪士組上京日記」を参照すべきだろう。
 
村上俊平、浪士組の参加に際しては菅俊平の変名を用いている。上州境の人。勤王の志士。贈従五位父親は高野長英とも交流があった蘭医村上随軒である。浪士組のとんぼ帰りの帰東を拒み京都で脱盟し以後独自に尊攘活動をする。元治元年六角獄舎で行動をともにしていた浪士組参加者の南雲平馬とともに殺される。

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村上俊平の墓
その村上の日記「浪士組上京日記」は『境町歴史資料』170号(境町地方史研究会、1990年)に翻刻紹介されている。
以下その日2月10日の条
 
「十日 馬上にて熊谷にて蒸し飯酒二合、夫よりかご原に休、又飲酒深谷を過ぎ、親戚硯三郎に寄り、談数刻、此家にてウンドン並酒一樽を以て我を遇す、此日黄昏時分本庄駅に至る、途上にて粟田口立五郎の妻に逢い、此夜菓子を携い山倉氏を叩き、又立五郎の妻に逢い、飯酒数刻にして別れ、泊処に帰る、此夜月明、泊家にて酒肴を備、吾輩を遇す、酔極て誤、田に落つ、実に一奇なり」
 
村上はその日の道中、昼食の熊谷宿でも酒を飲み、休憩の籠原でもまた飲む。深谷宿を過ぎて親戚の家に立寄り樽酒でもてなされる。本庄宿に着くと「山倉氏」のところに菓子をもって挨拶にいく。「山倉氏」とは本庄宿で多くの文人墨客を招き「小倉山房」という文化サロンを主催していた小倉紅於のことだろう。小倉紅於は浪士組の上州勢の大物だった大館謙三郎(霞城)とかねてから交流があり、小倉の求めに応じて大館は「本庄八景」の詩を賦したこともある。本庄宿近郊から浪士組に参加した者は小倉のもとに挨拶に訪れたはずだ
 
小倉紅於の壮行を受けたあと村上は二番組の粟田口辰五郎の妻女を交えて酒を飲みながら夕飯を食べる。粟田口の妻は夫の晴れ姿を見ようと伊勢崎の伊与久から本庄まで約10キロの道程を出てきたのだろう。内輪の壮行も終えると村上は泊家に戻る。しかしさらに泊家でも酒肴でもてなされている。もうベロベロに酔いが極まってしまったのだろう、とんだオチが待っていた。酔い覚ましか手洗いのためか屋外に出ると誤って田んぼに落っこちてしまったのだ。田んぼに近いような宿泊場所は本庄宿の中心から離れたところだったかもしれない。「泊家」と書くのは旅籠でなく民家に泊まったからかもしれない。
これが村上俊平のその日の本庄宿である。月明かりの夜であった。

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粟田口辰五郎の墓
さて、村上の日記からはこの日に篝火騒動らしきことがあったことなどは微塵も感じられない。村上本人が本庄宿に到着後、早々出歩いて酒を飲んでいるのだから、宿でなにか事件が起きたとしても聞き及ばぬことだったのだろうか
騒動などなかったか、あるいは仮篝火事件に類するものがあったとしても宿場全体を騒然とさせるようなことではなかったはずである。
浪士組は小頭に率いられた約10人ごとのパーティ行動であったはずで、他のパーティの出来事は直接見聞できなければあずかり知らぬことであったろう。
本庄宿篝火事件とは極めて限られた場所で起こった小さな事件であったのであろう。あくまで事件自体があったとしたらだが。
 
さて、村上の日記で、彼が随分酒を飲んでいる、というか飲みまくっていることに注目されたい。
また、出発から2日目のこの日の道中は親戚の家に寄ったり知人に会ったり、かなり自由度のあるのびのびしたものであったことが知れる。
隊伍の厳格さはパーティーリーダーたる小頭の裁量によるもので各パーティごとにずいぶん差があったのかもしれないが、いままで抱いていた整然と隊伍を組んで中山道を上って行く厳しい武士団というイメージとは違う実態があったといえよう。
浪士組の上洛中たびたび出る廻状で禁酒が謳われているが、それなどは校内暴力全盛時代の荒れた学校の校則・生活指導程度の効力だっただろう。
清河八郎は京都に到着直後にしたためた父親への書簡で「萬事頭取、道中とも昼夜眠る間もなく、心労申す計りも無く候」と道中は気を揉んで睡眠もあまりできなかったとぼやいている。
むくつけき男どもの道中は種々騒動のタネは尽きなかったはずだ。
本庄宿で岡田盟の手違いで三番小頭が軍礼を破ったと意味がとれる高木泰運の日記の記述がある。それと芹澤鴨の篝火事件を結びつけたくなるのは仕方ないことだ。しかし篝火事件が起きたという直接の証拠はいまもって存在しない。本庄宿で岡田盟の手違いで何かあったらしいことは確かだが、それが何かは今もって不明であるとしか言えないだろう。
 
と一旦は結論めくが、そこから少し後段を。
久しぶりのブログ投稿で前のめりになっているのか長い文章になった。ご容赦を。
 
浪士組は本庄宿の次の11日は上州松井田宿の泊まりとなる。村上の11日の日記の条。
「翌早朝に本庄駅を出て、新町にて休、此間川あり、上武の界表を立つ、高崎にて午飯、夫より板鼻、安中の数駅を過ぎ、松枝に泊す、此夜小議沸騰、小生憤怒、帰家応者十数人」
 
松井田宿(松枝)でも何かトラブル(議論)が持ち上がり沸騰した。憤怒した村上とそれに応じる者が十数人いて怒りのあまり家に帰るとまでいったとある。
このことをどう解釈すべきか。
村上自身が前日酒を飲み過ぎた自由行動が咎められ、そのことに逆ギレしたのか。
いや、やはり都合よく篝火事件に引き寄せて考えてみたくなるのが人情だろう。前日の本庄宿で芹澤鴨の起こした騒動は実際あったことで、そのもとになった岡田盟の手違い(芹澤の宿を取り忘れたこと)の責をうけて岡田盟がこの日に謹慎処分となったと新通説に拠って考えてみたい。(高木日記には岡田の謹慎は12日の条に書かれている)
岡田盟に下されたその処分が不当だと岡田と同じ上州人で尊王攘夷の同志的結合があった村上とその他の上州勢は怒ったのだろうか。
村上は怒りゆえ冷静さを欠いたのか、前日の日記の条とこの日の条を一続きに書いて、松井田宿での宿泊も10日と記載してしまっている。そのため翌日以降の日記の日付が1日ずれてしまう。ようやくそのことに気づき日付けが正しく戻るのは20日の武佐宿までかかってしまう。
 
間違った記載の11日(本当は12日)の日記の条、「軽井沢にて午飯、此地寒甚し」の記載のあとに唐突に芹澤鴨の名前が出てくる。
「水府浪士下邨姓    芹沢鴨
   同                      新見錦
   鴻巣在五段田河岸 杉山弁吉
                                  吉見
   同  大神宮社官      須永土佐
   同                       徳永大和
   北有馬太郎門人      山川立蔵」
今までの文脈に関係なく日記はなぜかこの6人の名前を記載する。
前日の松井田宿での憤怒に深く関わる人名なのだろうか。もしくはあるいは、10日の本庄宿でなくこの日12日に三番小頭(芹澤)は軍礼を破るなにか騒動を起こしたのか?
芹澤の名前が最初に出てくることに何か特別な意味を感じたくなってしまう。この唐突な人名表記にすら芹澤鴨という人のもつ尋常ならざる不穏な印象を私は感じてしまう。(下邨=下村の本姓が記されてあることにも注目)
また須永土佐の名前が出てくることも意外である。須永(須長)土佐は上洛浪士の姓名簿にいっさい出てこない人である。同じ須永でも甲源一刀流の剣客須永宗司は浪士組参加者であるが、須永土佐はそれとは別人。武州勢の大物・根岸友山が住む冑山村の近隣の吉見村の吉見宮の大宮司を勤めていた人。「従五位下・中臣朝臣・須永土佐守宜忠」のことである。根岸友山が率いた浪士組中の一大勢力の冑山勢に本来は加わっていてもおかしくないような人ではある。慶応2年に武州世直し一揆が根岸友山の屋敷を襲おうとした際には須永土佐の二男須長道次郎宜興が徳永大和豊洲(浪士組参加者)などとともに応戦している。須永土佐この人が浪士組に参加していたというのは他に記録もないしそんな話は聞いたことがない。居るべきでない人が浪士組と行動を共にしているのだ。思うに、正規の浪士組参加者とはべつに自費参加の人々もこの上洛行に参加していた可能性はあるのではないか。当初浪士組は50人ほどを企図していた。支度金は一人50両で総額2500両の準備しかなかった。それを上回るに5倍の人員が結果的に浪士組に参加した。松平主税介忠敏が浪士取扱を辞任する理由も予算オーバーで進退窮まったためだといわれている。この浪士組の上洛に加わっていない斎藤一や佐伯又三郎がこのあと壬生浪士組にすんなり京都で合流する謎はこの辺りに隠されているのではないだろうか。正規の人選に漏れた人々が有志的に自費参加(ゆえに名簿に表れない)で一部浪士組の上洛に従っていた可能性があるのではないか。まあ、このことなども後考を待とう。
 
とにもかくにも、本庄宿での篝火事件の真相は未だ確かなものは何も分からないのではある。
長々書いてきたが結論は出せないままだ。
今はただ、浪士組の参加者は各々憤怒と憤懣と放埓などを胸にいだきつつ中山道を京都に向かって行ったということが想像されるだけだ。
 
 
※追記(2020.2.24) 
本庄の郷土史家柴崎起三雄氏に『本庄のむかし こぼれ話』がある。初版は平成22年だが平成29年の増補再版の方に本庄宿篝火事件について「新選組焚火事件、近藤勇は無実だ」の項が立てられている。高木泰運の日記を用いて宿割りに失敗したのは岡田盟であり近藤はこの事件には関りが無かったとする新通説をお書きになっている。
柴崎氏は「本庄には資料が一切ないことから事件の場所を特定することは難しい」としながらも、さすが地元の史家だけあって宿のどのあたりで事件があったのかを推定されている。
「浪士隊は二四〇人に近い大人数であり、彼等を掌握しておくには可能な限り分散させずに宿泊させたい」はずなので、当時の旅籠総数の半分の40軒が集まっていた台町に宿泊していたのではないかと推測している。台町は高木泰運が泊まった角屋のあった場所だということを、天保年間の本庄宿街並図を示して明らかにされている(角屋は台町の東端にあった)。
「芹沢にしても仲間が大勢見ている中でやってこそ自己の存在をアピールできるというものである。この点からも台町の路上とするのが良いようである」と柴崎氏はその一文を結んでいる。
地元郷土史家のご見解なので大いに傾聴したい。私はブログの本文で述べたとおり本庄宿での浪士組の泊りは広い範囲での分宿だったろうと考えている。なので、篝火事件があったとしてもそれを見聞していない浪士組参加者の方が多かったのではないかと思っている。宿場の人々にとっても決して周知の事件ではなかっただろう。なにせ本庄宿にこの事件の史料や口伝は一切ないのである。
ともかく、柴崎氏がご著書で篝火事件は台町の路上での出来事だったのでないかと推測されていることは広く知られるべきことだと思ったので追記とする。