幕末 本と写真

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三世 柳亭種彦の佐幕

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「明治最初の文壇小説家」といわれる三世柳亭種彦こと高畠藍泉はイケメンというよりもハンサムという言葉が似合う容姿だ。
 
「種彦氏は写真にも見える通り痩ぎすな苦味走つた風貌、性質は稍や神経質の勝つた人であつた。稍や強情な処もあつたが友情に厚く世話好きで且座談には長じて居た」(野崎左文『私の見た明治文壇』春陽堂、昭和2年)
 
この人の前歴は戊辰戦争の際に佐幕をなそうとした人である。
 
天保9年、幕府御本丸奥勤の御茶坊主衆の家に高畠求伴の次男として浅草七軒町組屋敷に生まれる。(銀座役人辻某の庶子で幕府御坊主衆の株を買って一家を興したという説もある)
慶応の始めに画を松前藩士高橋波藍に学ぶ。藍泉は画号である。弟に家を継がせ壮年に隠居し画家となった。
これより先に好んで稗史小説を読み殊に種彦の作品を愛読したという。
 
戊辰戦争に際し画筆を投げ打って佐幕党に加わり、陸軍奉行松平太郎と謀って豪商をまわり軍資金を集めた。さらに東北に脱した幕兵のために軍器輸送の事を引き受け、銃砲を箱館に回漕したが旧幕府軍は敗れたため、その尽力は徒労となった。身の置き所を失った藍泉は房総に逃れたのち江戸に戻り、草双紙を綴って辛うじて生活の糧を得るようになったという。
 
明治5年東京日々新聞の創刊後に同社に入り編輯に従事し、明治8年には平仮名絵入新聞に移り主筆の任に就いた。
 
明治18年48歳で死去。浅草松葉町正定寺に葬られた。
 
 
『新聞記者奇行傳』(細島晴之編、明治14年)よりその小伝を抜き出してみる。
 

 

「幕府の小吏にして、演劇を好み、花柳に沈醉し、所謂務め嫌ひにして遊蕩怠惰いふべからず。故に同僚親戚に疎まるれど、君更に意とせず、慶應の初め畫工と成て力食せんと實弟に家を繼がしめ、壯年にして隱遁す。君は畫を松前藩士高橋波藍に學び、藍泉は則ち畫名なり。戊辰の役佐幕の士東北に脱して官軍に抗戰せんと欲すれども銃器に乏し、時に君憤然と起て名を政(たゞす)と改め、陸軍奉行松平太郎君と謀り、單身四方に馳て御用達なる者を説諭し、巨萬の金額を募集するに、毫も暴言剛強の氣を顯はさず、却て渠をして落涙せしめ、銃砲を凾館へ廻漕せしが、諸道の脱兵潰るゝと聞て大に落膽し、再び畫工と成て諸方を遊歴す。明治五年日々新聞創立の際日報社に入て編輯に從事し、又繪入新聞を起しゝが、社論の合はざるより、去て各社に聘され、同十三年再び日報社に歸す。君近頃近世古物を愛すの癖あるを以て、假名垣魯文翁戲れに元祿古器の精なりといへり」