幕末 本と写真

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屋代義雄のこと

埼玉県羽生市の建福寺には田山花袋の小説『田舎教師』の主人公のモデルとなった小林秀三のお墓がおりますが、同寺には屋代義雄という人の墓碑もあります。
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屋代義雄は南部の出身で、旧名を高田立春という医師でした。幕末江戸に出て佐藤舜海や松本良順について西洋医学を修めます。

戊辰に際しては榎本艦隊に身を投じて、美加保丸の軍医として北走します。
同船には左手を失った伊庭八郎も乗船していたわけだから、医師として屋代が伊庭にどのように接したのか気になるところです。
美加保丸は不幸にも台風にあって銚子沖で難破してしまいます。

辛くも上陸した屋代は師の松本良順がいる会津に向かいますが、途中で偵吏に捕らわれてしまいます。後に赦されると泉藩(磐城)の少参事平野正海に気に入られ藩医屋代岱庵の跡を継ぐことになり、名も屋代義雄と改めます。

明治4年、藩命により泉藩の支配地であった羽生に来て領民に種痘を施します。これを縁にこの地で開業し診療を始めました。公立明治病院長を務めたり、私立羽生病院を創設するなど北埼玉における洋式病院の創始者となりました。明治26年46歳で逝去。
地域の人々に慈父のように慕われといいます。

ちなみにこの人の一人娘みきには、東大医学生の河合達次郎という婚約者がおり、河合は屋代の養嗣子となるという内約のもとその学資を援助してもらっていたのですが、ついに二人は結ばれることはありませんでした。屋代の死後、河合はこの婚約を反故にし、順天堂の佐藤家の養子となってしまいます。順天堂医院を継ぎ男爵、貴族院議員。
一方みきも別の人に嫁ぎましたが早くに子を亡くしたため、屋代義雄の血筋は絶えてしまいました。