坂本龍馬は文久2年の秋に勝海舟もとに入門したという通説は、いまでは次のような理解になりつつある。(菊地明『クロニクル坂本龍馬33年』など)
坂本龍馬は文久2年の秋に勝海舟もとに入門したという通説は、いまでは次のような理解になりつつある。(菊地明『クロニクル坂本龍馬33年』など)
鳥羽伏見での敗れ江戸に逃げ帰った慶喜に対して、小栗上野介は徹底抗戦を主張したという。
「福沢先生と長岡人
明治三十二年十一月『土陽新聞』に「千里の駒後日譚拾遺」と題して連載された川田雪山(瑞穂)によるお龍への聞書があるのはご存じの方も多いだろう。当時お龍が所蔵していた坂本龍馬の肖像写真に関する証言が含まれる。
その部分を抜き出してみよう。
◎龍馬の書いたものも日記やら短冊やらボツ/\ありましたが、日記は寺田屋のお登勢が持つて行くし、短冊は菅野が取て行きましたので、私の手元には此の写真(襄の譚に云へる民友社の挿絵に似たるもの是也)一枚だけしか有りませむ。それから一ツ懸軸がありました。コレは龍馬が死ぬる少し前に越前へ行つて三岡八郎(由利公正)さんに面会した時呉れたのださうで、私は大事にして持て居りましたが何時か妹が取て行つたなり返してくれませぬ。私は此の写真を仏と思つて毎日拝んで居るのです。と語り来つて感慨に堪えざるものゝ如く凝乎と手中の写真を見詰るので、傍の見る目も気の毒となつて、ソツと顔をそむけると床の間には香の煙りのゆら/\と心細くも立昇るので僕は覚えずも、人間勿レ為二読書子一、到処不レ堪二感涙多一、の嘆を発するを禁じ得なかつた。
お龍の証言によるとこの写真は、明治29年に民友社から出た弘松宜枝著『阪本龍馬』の巻頭に掲載されている肖像画に似たものだという。そこから考えると龍馬の肖像写真の中でも「丸腰の座像写真」(『英傑たちの肖像写真』渡辺出版、2010)と呼ばれるものがそれにあたることになる。
龍馬の遺族に残されたこの写真はおそらくオリジナルプリントだったか、複写にしても限りなくオリジナルに近い状態のものだったのではないかと考えられる。お龍が持っていたという価値を考えれば、今日その写真がもし残存していたらすこぶる貴重なものとなるだろう。
先日、ある本を読んでいたらこのお龍所蔵の写真に関して興味深いことが書いてあった。三浦叶『明治の碩學』(汲古書院、平成15)という本なのだが、漢学者の著者三浦叶は川田雪山の早稲田大学での教え子にあたる。この本の中で三浦は旧師川田雪山に対して愛惜に満ちた回想を残しているのだが、その一節に川田雪山がお龍から龍馬の肖像写真を複写させて貰い、以後それを非常に愛蔵していた姿が語られていた。
龍馬は幕末薩長の連合をなしとげ、明治維新の大業を導いた土佐の偉人である。雪山先生も土佐人であるから少くして已に敬慕の情があったのであろう。それが後に明治維新の史料編纂官として、その最期の史實を調査されたのであるから、龍馬を敬慕するの情たるや大變なものであった。屢々龍馬の未亡人お龍さんを訪ねて色々の話を聞いている。殊に明治三十年にお龍さんから頂いた龍馬の寫佩(半身像)は大切にしていつも身にもっておられ、今次の日米戦争の空襲で西大久保のお家が焼かれ火中を遁れる際にも、この寫眞は肌身につけて離されなかったという。
この寫眞の裏には次ぎの如く之を贈られた経緯が書かれてある。
龍馬像
嗚呼。是坂本龍馬先生之像也。先生未亡人楢崎氏。今在湘州。予屢往訪。一日
探小照於筐底。戚然謂予日。是亡夫在長崎日所撮之眞影也。予太懇々焉。未亡
人察予意。屬者複寫以見附。不禁感佩。吝裏面記其厚意。明治庚子正月初五
川田瑞穂
又先生の宅にはお龍さんが歌を書いたものを屏風に張ってあったが、この屏風は空襲で焼けてしまった。しかし幸い先生の未亡人豊子さんがその歌を記憶されていた。それは次の如き歌であった。
舊詠呈川田氏
思ひきや宇治の川瀬の末つひに君と伏見の月を見んとは
川田雪山がお龍から複写させて貰った龍馬の写真。戦火をかいくぐって現存しているならば是非見てみたいものだ。
お龍を慰め続けた写真の中の龍馬の表情を知りたい。
北埼玉郡長などを勤めた林有章の喜寿を記念して発刊された『幽嶂閑話』(非売品、昭和10)は林の自叙および回顧録であるとともに熊谷の郷土史誌として優れた一冊である。昭和55年には国書刊行会から『熊谷史話』と改題して復刻されている。
「慶応年間国事漸く多端ならんとするや、各藩の俊秀は概ね輦轂の下に集まつた、其頃先生も亦藩命に依て公用人となり、京師に駐まり日夕各藩の公用人と折衝して居られた或る時、各藩公用人集会の席上、薩藩の公用人大久保市蔵(後の内務卿大久保利通公)と激論を闘はしたが、大久保は「諸君の如き時勢を見るの明なき者は今我輩が此丼に放尿するからそれを附けて目を覚し玉へ」と豪語した、これを聞いた一同の者は非常に憤慨し、若し彼大久保が果して放尿ひたならば、一刀の下に斬り捨てやうと約した、そして其斬り手を引受けられたと云ふが、然し大久保も結局そんな粗暴な事もしなかつたので無事に治まつた。」
三宅友信の肖像写真を絵葉書にしたものを入手した。
明治2年の撮影の肖像だという。敷物は初めて見るもので、セットから写真師が誰かを類推することができない。
釣洋一先生のご研究によって、いま私たちは「滝沢馬琴と沖田総司は親戚」という歴史の不思議な縁を知ることができる。このことは新選組に少なからず興味をもつ私などにとっては大いなるよろこびだ。
先年、その滝沢馬琴と沖田総司を系図上につなぐ一族、真中家の墓を埼玉県加須市川口の曹洞宗西蓮寺に訪ねてみた。
真中家は遠祖を源頼政の家臣 猪隼太資直にもつ家で、大内蔵堅光という人のときに川口村に移住して真中を名乗り、かの地の名主となった。
真中家六代は仁蔵(全直)という人物で、写真はその墓石である。「岩松院全哲直峯居士」と刻されている。寛保3年69歳にて没。
この仁蔵の二男が興吉で滝沢家に養子に行った。その孫にあたるのが滝沢馬琴である。
仁蔵の六男で中野家に養子にいったのが、中野伝兵衛宗元。このひとの曾孫 中野伝之丞由秀(越後三根山藩士)に嫁いだのが、沖田総司の次姉キンである。
せっかくなので仁蔵の他の子供のことも書いておくと、長男は理左衛門(恒直)といい、江戸に出て代官の手代になり、所々任地に赴いていた。嫡男でありながら郷里に帰ることなく越後で客死してしまう。
私が興味をもったのが八男の隼太(親則)という人だ。
少年のころ囲炉裏に落ちて顔に火傷を負い容貌奇怪であった。そのために他家へ養子に出ることもなく、長兄が他郷にあることもあって隼太が家事を執って真中家をよく守った。質素倹約に努めて財をつくり、傾きかけていた家勢を回復したのはこの人の功であったという。
父仁蔵の死後は長兄の理左衛門が客死したこともあって、家督を継ぐのは自分であろう思っていた。しかし理左衛門の子祐蔵が帰郷して、正嫡であることをもって家督を主張したため、泥沼の争いとなり、ついに訴訟になってしまった。係争中に祐蔵は死去したが、祐蔵の弟林蔵が再度隼太を訴えて、天明3年、ついに隼太の敗訴となってしまい、咎めを受けた隼太は川口村を追放されて江戸に去った。
隼太の長男が真中幸次郎で、神道無念流の剣客である。その幸次郎の娘というのが中野家に嫁いでいたことがあったのだが、離縁となっている。離縁にならなければ、総司の姉キンのお姑さんになっていた筈だ。
真中幸次郎は本所石原の碩運寺に葬られたというが墓は現存していない。
加須の真中家は12代までは同所にあったが、第一回衆議院選挙に当選した13代真中忠直のときに東京に移った。真中家13代以降の墓は小石川の深光寺にあるそうだ。
子母澤寛の祖父というのは微禄の御家人であり、上野彰義隊に参加し、敗れたのち箱館でも戦い降伏。士籍を返還して札幌近郊の開墾を経て厚田村に流れ着いて網元や貸座敷業や旅館業を営み、土地の顔役として生涯を終えたという。