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小栗上野介を恐れた大村益次郎のあの話は本当か

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鳥羽伏見での敗れ江戸に逃げ帰った慶喜に対して、小栗上野介は徹底抗戦を主張したという。

小栗には策があり、それは「新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、そこに幕府海軍を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する」というもので、後にこの策を聞いた大村益次郎は「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と大変恐れたという。
土方久元の伝記『土方伯』(大正2年)に出てくる話だが、この話は本当なのだろうか。
どうやら本当だとする回想があるので紹介しよう。
 
昭和4年に新潟県長岡の地方紙『北越新報』に城泉太郎の回想録「紅秋随筆録」が連載される。初期慶応義塾の雰囲気を伝える面白い回想だが、そこに下記のやうな記述がある。(私はこれを『福沢手帖』第93号(福沢諭吉協会、平成9年)に転載されたもので知った)
小栗上野介を「尊信」するガチガチな佐幕主義者としての福沢諭吉の姿と、大村益次郎が小栗の迎撃作戦をどうやら本当に恐れたらしいことが語られている。
 

「福沢先生と長岡人

当年の塾は、全国各藩中一粒選りに撰び抜いた人才のあつまりで、また一方よりこれを見れば、義塾の福沢の家族同様であった。先生は、自分の実子の如く塾生を可愛がったが、長岡人は特別に寵愛された。これには色々事情もあらうが、重なる原因は官軍と戦ったからだ。先生は元来佐幕主義で、小栗上野守を尊信し、小栗が仏帝ナポレオンに交渉し、軍艦と軍用金をフランスから借りて官軍をたたきつぶすといふ策戦計画には福沢も双手を挙げて賛成だ。併し独仏交渉が追々切迫し、遂にナポレオンは日本を助けることが出来ず、誠に残念至極であった。長州の大村益次郎氏が維新後、人に語っていふに、小栗は実に偉い人物だ。小栗の計画通り事がはこんだら官軍は全滅したのだと。流石の大村もふるひあがったといふことだ。義塾に沢山の薩長人が入塾してをり、小生は彼等と同室に起臥し、小栗に対する大村の評言をしばしば彼等から聴聞したことがある。福沢先生も亦小栗同様の意見書を御三家中で最も有力なる紀州和歌山藩の全権執政官某に呈した。その証拠は今に残存してゐるやうだが、茲に明言すべき限りでない。かかる次第で、先生は当時暗殺されそうの危険がしばしばあった許りでなく、政府が先生を捕縛しそうのこともあった。そこで先生は、いよいよ米国へ遁逃しやうと決心し、その洋行費を日本橋石町の堀越へ取りに遣った事もある。その時の使者は、小幡篤次郎、中上川彦次郎外一名、都合三人であったが、当年千両箱は一つでも中々重び故に、三人して受取に行ったのだ。併しその時は洋行せずに済んだ。」
 
(写真は明治3年6月12日 慶応義塾入塾直後の城泉太郎)