幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

榎本軍の幹部たちの写真への疑問

箱館戦争の際に榎本軍の幹部たちが写っている有名な写真がある。この写真の後列左の人物は榎本政権で江差奉行並だった小杉雅之進ということになっている。
それは本当なのだろうかという疑問を私はもっている。


この写真は人名の裏書がある台紙付きのオリジナル写真の存在を私は確認できていない。鶏卵印画紙だけのものは石黒敬章氏のもとにあるが、台紙がないため人名表記の裏書情報を得ることが出来ない。
いきおい昔の本に出典を求めることになるが、初出は『旧幕府』第三巻第五号(明治32年)の口絵に掲載された写真と人名表記ということになるだろう。
この号の『旧幕府』の口絵は中央にこの榎本軍幹部写真を配し、四方に榎本軍の諸士の写真が載っている。ちなみに右上は新選組相馬主計の肖像であり以後相馬の肖像の出典になっている。小川一真の制作するところのコロタイプ印刷はさすがに綺麗で画像は小さいにもかかわらず細密さを保っている。(古本屋でこの号の『旧幕府』を買った時は嬉しかった)

これとは別に榎本幹部写真を所持していた人物として、古写真蒐集家だった尾佐竹猛、永見徳太郎もあげられるだろう。二人の著作に掲載されている(尾佐竹『國際法より観たる幕末外交物語』、永見『珍しい写真』)。人名表記は『旧幕府』のものに準じている。後列左の人物は小杉雅之進とされる。

榎本軍に参加した人物二名の子孫のもとにもこの写真は遺されている。しかし面白いことにそれぞれ小杉雅之進とはされていない。

一人は榎本軍の従軍画家ともいえる役割をした岩橋教章。岩橋の絵日記を嗣子岩橋章山が台湾で出版した『正智遺稿』(明治44年)の口絵にこの写真も載せているのだが、この本では件の人物は小杉雅之進ではなく新宮勇と表記されている。


もう一人はこの写真にも写っている荒井郁之助である。それがわかるのが『海軍兵学校教育参考館図録』(海軍兵学校教育参考館、昭和9年)という本で、荒井郁之助の二男の荒井第二郎が江田島の海軍教育参考館に寄贈したこの写真の所蔵先が荒井家となっている。ここではかの人物は神宮勇とされている。荒井家に遺された写真の裏書には新宮勇ではなく神宮勇と書かれていた可能性がある。新宮を神宮としている点で『正智遺稿』を参照した上での人物同定とは考えにくいのではないか。つまりは人物名を音だけで書き記した裏書のあるオリジナルを荒井郁之助は所持していたかもしれない。


回天に乗り宮古湾で戦死した海軍一等士官 新宮勇の名前がクローズアップされるべきであろう。

ごく遠慮がちにいってもあの写真の後列左の人物には小杉雅之進と新宮勇の両説があることはもっと知られて良いのではないか。小杉だと完全に言い切れるわけではないのだ。

もし通説のように小杉雅之進であるならば、写真の人物の軍装問題を考えなくてはならないのではないか。かかる人物は海軍士官として袖章が一条のモールしかないのだが、それが江差奉行並という地位にあった小杉として相応しいものか私には疑問なのである。
この写真の後列右端の人物は林董三郎(林董)であるが、林には箱館で撮られた別の写真がある(内藤遂『遣魯傳習生始末』東洋堂、昭和18年)。その写真での林の袖章は一条だ。林の榎本軍での地位は総裁附きの見習い士官という程度だったという。はたして小杉雅之進はその林と同階級程度だったのだろうか。

五稜郭本営詰めとして榎本武揚に近侍していた彰義隊の丸毛利恒は榎本軍の兵士たちの軍装について興味深い証言を残している。袖章がいかに重視されていたかが良く分かるので抜き出してみたい。
(「宮古の餘聞及海軍結末」と題して丸毛が記者を勤めていた毎日新聞に樵廼舎主人の筆名で明治24年8月9日から21日にかけて9回連載)

「榎本氏は常にアドミラールの徽章を付したる軍服を着せり。(折々セビロ等の畧服も用ゆれども多くは軍服を着せり。此服は五月十一日戦争の時陸軍奉行添役下役川崎準三郎なるもの戦況を報道せしとき着服の痛く損傷し居たるを見て榎本氏は自ら着せし服を脱ぎ同人に與へたり)
大鳥氏も亦常に陸軍将官の徽章(金の太き線にての腕章なり)を附居り。在函中未だ曾て羽織袴を着せし事なし。脱兵が用ひし着服に付ては今聊か記すべき事あり」

「脱兵の服装程麁末なるはなかりし。何れも弧剣郷関を出し儘にて着替とてもなく、只僅に戦争にて分捕等を為し之に充しを以て縫箔模様を筒袖に為すあり。八丈のツボンあり、中形木綿のマンテルあり、随分種々の異装を為したり。
尤兵卒には被服(紺木綿)を給せしが夫も一般には行き渡らず。又隊兵以下には毎月金一両宛の手當を交付せしも士官以上は皆無給なりき。
又た兵卒の用ゆる胴乱(弾薬を入るゝ器具)を帆木綿にて製し之に渋を塗りたりしを見るも脱兵が供給の困難なりしを知るべし。
茲に可笑き一話あり。
五稜郭籠城のときなりし遊撃隊差図役小柳津要人氏(岡崎藩脱士今丸善書店の支配人)の着服如何にも見苦かりしを榎本氏打見て、其身装にて死ぬのは餘りヒドイねと云しに、側に在りし松平氏は是も汚ないが夫ゟは増なりと自己の上衣を脱ぎ、徽章は取らねばいかぬとて氏に與へしに、モー取らんでもよいはと榎本氏の打笑ひしかバ、氏は大に喜び陸軍将官の金章附けたる儘直に着代へしに行逢ふ兵卒は其金章を見て一々氏に向ひ捧銃の禮を為せしとて當時の一笑柄たりし」

つまりは戦闘も終末段階にならなけば、文中で丸毛がいうところの徽章(金の太き線にての腕章)つまりは袖章、その権威はゆるがせにならなかったわけだ。