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龍馬の勝海舟への入門時期について

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坂本龍馬文久2年の秋に勝海舟もとに入門したという通説は、いまでは次のような理解になりつつある。(菊地明『クロニクル坂本龍馬33年』など)

それでいいのだろうか。
 
文久2年12月5日に龍馬と間崎哲馬、近藤昶次郎は越前藩の常盤橋藩邸に松平春嶽を訪ね謁見。春嶽から横井小楠勝海舟を紹介されると、さらには勝への紹介状を貰い受ける。龍馬は4日後の12月9日に門田為之助、近藤昶次郎と共に勝邸を訪問し、同日その門下生となったと。
 
勝の日記の12月9日の条に「此の夜、有志、両三輩来訪。形勢の議論あり」と記されていることを重視して、両三輩のうちの一人を龍馬だと比定することからうまれる推論である。この説を唱える人は2日後の海舟日記に「当夜、門生門田為之助、近藤昶次郎来る。興国の愚意を談ず」と記される門田と近藤を、2日前に龍馬と共に勝の門人になった二人と考える。
 
松浦玲の『坂本龍馬』(岩波新書)は龍馬は12月9日以前には既に勝のもとに入門していただろうとする。松浦は勝の日記に龍馬の名前のがないことはたまたま書いてもらえなかっただけであると考える。「記録者としては極端に御粗末」(松浦)な勝海舟が書く日記。勝の日記と格闘してきた松浦ならでは割り切り方である。いや、単なる割り切りではない。多年の海舟研究にもとづく卓識だろう。
 
12月11日に勝の日記にいきなり名前が登場する門田為之助と近藤昶次郎が既に「門生」と書かれるのだ。しかし初出以前に門下生でなかったわけではあるまい。
近藤昶次郎に関しては文久元年には勝門下になっていたという河田小龍の回想もある。
勝の日記に名前が出ない(書かれない)門下生などはざらにいたであろう。
勝の日記をつかって龍馬の入門時期を考察することは、もとより限界があることなのだ。
 
私は龍馬の入門時期に関する種々の考察にある記録が用いられない事を残念に思っている。その記録とは「木原適處履歴」のことだ。
 
木原秀三郎は芸州出身の志士。池田徳太郎、小林柔吉とともに芸州草莽三士とされる。のちに芸州藩につかえ神機隊の創設者となる。
木原は庄屋の子として生まれたが、西洋式兵術を志して長崎へ行き名村八右衛門の塾に入る。同塾で師範代をつとめていた掛川藩の甲賀郡之丞(甲賀源吾の長兄)に見出され甲賀の帰国にお供して掛川甲賀の助手の務めた。安政5年に甲賀のすすめで江戸に出て勝海舟を訪ね入門。海軍術を学ぶこととなった。以来文久2年12月までの4年半にわたって勝塾で研鑽を積んだ。
 
木原は明治30年に旧藩主浅野長勲伯爵の要請により自らの履歴「木原適處履歴一・二号」を提出する。木原の幕末における活動歴を知ることができる記録だ。
 
もっとも私はこの「木原適處履歴」を読みたいと願いつつも、それを果たせずにいる。木原の伝記である武田正規『木原適處と神機隊の人びと』(非売品、昭和61年)という本を読み、その本の材料となった「木原適處履歴」の存在を知っただけである。『木原適處と神機隊の人びと』の本文および巻末の木原適處年譜は「木原適處履歴」に拠って書かれているが、原史料そのものには私は当たっていないので以下に書く事もあくまでも武田正規の著書に依拠している点をあらかじめ言っておきたい。ただ木原の伝記はそれでも十分に使える良い本だとは思う。
 
勝海舟のもとに長く居た木原の記録「木原適處履歴」に拠って書かれた『木原適處と神機隊の人びと』によれば、木原の勝塾での同窓には、大石彌太郎、田所壽太郎、門田為之介などの土佐人。長州の土屋平四郎。越前丸岡藩の浅見真蔵。弘前藩の岡鼎、庄内藩佐藤与三郎(与之助のことか)以下5名。桑名藩2名。幕臣3、4名が学んでいたという。
塾生は常に土佐・長州と庄内・桑名の二派に分かれて勤王と佐幕を論じ、攘夷と開港論を戦わせることもあったというが、それでも塾生たちは遠慮のない交遊を続けていたという。
ここでは土佐の門田為之助が既に勝の門人であることに注目されたい。
 
木原は塾の同窓を通じて塾外にも多くの知友を得ていた。それらの人はたとえば土佐の間崎哲馬坂本龍馬、中岡光治(慎太郎)、浜田守之丞、上田楠次。長州では時山直八、桂小五郎村田蔵六。薩摩は岩下佐次右衛門。肥後の大野鉄兵衛らだったという。
 
そして龍馬に関しては、文久2年10月の初めごろに勝塾に入門した後輩であり、間崎哲馬を通じてそれ以前から龍馬を知ってはいたが、龍馬の入塾後は特に意気投合したという。木原が12月5日に4年半に及ぶ修行を終え霞ヶ関の芸州藩邸の応接所に住み込むことになった際には、龍馬は餞別として左行秀の長さ二尺九寸、重ね三分、無反で朱鞘仕込みの大刀を木原に贈った。
勝の日記の12月9日に書かれるの時点では龍馬はとうに勝の門下生であったことがこれで分かる。龍馬の12月入門説はいかにも遅すぎるのだ。
 
僭越なお願いであるが、龍馬研究者はどうか「木原適處履歴」に当たっていただきたい。龍馬の履歴に益する事はもちろん、木原の多彩な人脈から幕末史に活躍する人物相関図を描くことができるはずだ。
 
ちなみに、木原は文久3年5月大坂で龍馬に再会し、龍馬から自分と共に行動するよう要請されている。
龍馬は以下のように木原に語りかけた。
「足下ヨ、互ニ主人ニ繋リ居テハ自由ガ出来ヌ、吾輩ハ仮リニ遊学生ノ名目丈ケアリテ足下トハ自由ガ届ク也。足下ノ如クベッタリト禄ニ繫ガレテハ却テ事ヲ遂グルニ不便ヲ生ズレバ約ソ主君ノ為ニモ不相成。足下宜シク其事情ヲ申シ立テ禄ヲ辞シ、浪人ト迄ハ至リ難クモ責テ三年間暇ヲ貰フ様ニ可被到、其以上ハ充分国事ニ尽力有ル可シ也。」
 
藩務に負われる木原は龍馬と行動をすることはなかったが、さらに後の慶応3年9月に龍馬がオランダ商人ハットマンから購入したライフル銃を積載して長崎を出港、土佐に向かった龍馬最後の航海に使った船は芸州藩船の震天丸であり、その貸与に奔走したのは芸藩の海軍方にいた木原であった。