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藤堂平助の妹

新選組藤堂平助の実家と考えられる5000石の旗本藤堂家のことに関してはこのウェブログでとりとめもなく書いているが、いま少し書き加えるべきことが出来たため、いささかくどくはあるがこの話題を続けたい。

 

旗本藤堂家の采地は江戸近郊では武州の七ヶ村にあった。そのうちの草高の最大だった上会下村に注目して藤堂家の痕跡を探していたのだが、上会下村よりも、阿良川村の方に支配関係の文書がよく残されており、それらは『加須市史 続資料編』(加須市、昭和61年)に翻刻もされていることに今更ながら気がついた。阿良川村の名主だった赤坂家に伝来する文書である。

赤坂家は藤堂家が知行していた足立・埼玉両郡七ヶ村の割元名主であり、かつ藤堂家に士分格として取り立てられていたため、領主支配に関する文書が残ったのだ。

 

加須市史 続資料編』に載る「慶応4・1 江戸表大乱に付地頭所逗留日記」(以下は地頭所逗留日記と略記する。地頭所逗留日記は慶応4年に江戸の混乱を避けて支配地の阿良川村他に逗留した藤堂家の奥方や家臣たちに関する記録)という史料によって、先ずは以前の投稿の内容を訂正したい。

 

「藤堂秉之丞の系譜と家紋」という先の記事の中で、明治元年に藤堂家の当主だった亀久雄は藤堂良連(秉之丞、平助の父親と推定)の次代の人と比定したのだが、これは間違っていた。文久2年時に56歳だった良連(秉之丞)が明治初年時の当主の名前である亀久雄という人に跡を継がせたのだろうと単純に考えたのたが、良連(秉之丞)と亀久雄は同一人物であった。明治2年8月に良連(秉之丞)を亀久雄と改名していた。良連(秉之丞)と亀久雄とで二代に別けていた系譜は一代に訂正されなければならない。

地頭所逗留日記に「御屋敷殿様御儀去月廿三日御参代被遊改名 亀久雄様と相成」とある。

 

維新を経て老境といっていい年齢まで良連(秉之丞)が当主の座に居座っていたのは何故なのだろう。それは相続すべき世子(「若殿」)が病身であっために容易に跡を継がせることができなかったためのようだ。慶応4年8月に朝臣化を済ませて本領を安堵された藤堂家は、跡取り問題に悩まされる。明治2年8月、病身の「若殿」を廃して津藩の藤堂和泉守家より養子を貰おうという話が沸き起こった。

「兼而御屋敷様御相続若殿御病身ニ付無拠御前御始メ御家中向不残連印を以出願藤堂和泉守様より御養子二受申度趣八月三日願書差出候由」

この養子を得ることが良連(秉之丞)を改名に導いた直接的理由だろう。跡取りの目処がついたことで改名したと考えられる。

明治3年5月、津藩藤堂家からの養子が迎えられた。名を泰橘といった。「大藤堂様より御養子君御乗込被為遊候」「御養子御名泰橘様与申出ル」

 

同年、勝手向きが苦しくなったため湯島の屋敷を九鬼家に売却し、9月19日に下谷長者町に引き移っている。

 

ここで、いますこし時間を遡ってみる。

地頭所逗留日記は慶応4年に江戸の混乱を回避して支配地に疎開する藤堂家の姿を活写する。

慶応4年3月、藤堂良連(秉之丞)の奥方はじめ家族、家臣とその妻たちは知行所に立ち退く。2艘の船を貸し切り3月15日に昌平橋から乗船し王子をへて荒川の高尾河岸(北本市)に17日到着。そこから上常光村の名主の河野家に迎えられた。同村の玉泉寺の客殿を仮住居とさだめて、秉之丞の奥方、妹の於梅、7歳の娘の於久ほか、祖父駒五郎の「召仕」(妾か)松寿、父主馬の「召仕」瀬山や女中なとが疎開した。先日私が訪ねてみた上会下村の雲祥寺には御西様(側室か?あるいは西の丸=世子の意で病弱だった長男か?)と、次男季之丞、部屋住みの御子様と家臣たちが疎開した。その外の支配地の寺院にも家臣とその家族が疎開している。

 

良連(秉之丞)の子供として、7歳の娘の於久、次男の季之丞、部屋住みの御子様(「御部屋御子様」)の存在を地頭所逗留日記から確認できる。それに病身のために明治3年に廃嫡された若殿の存在を加えるならば、いわばそれらの人々は藤堂平助の兄弟姉妹であったわけだ。

 

明治20年、埼玉県の志多見村連合戸長役場は阿良川村の旧領主藤堂氏に同氏所有の家譜、古文書などの調査依頼した。地誌編纂のためだった。この依頼に対して維新の際に藤堂家の当主だった亀久雄はすでに亡くなっており代わりに娘の寿子が返書を出して問い合わせに答えている。寿子とは慶応4年7歳で疎開した於久のことだらう。

曰く、藤堂家は亀久雄の死後、生活が困窮。転居を繰り返して家財を失い、いまでは貸家で雨露をしのぐようなありさままでに零落し、家譜、文書のたぐいもなくなってしまっている。近頃は大いに老衰し毎日の生活に差し障りもでており、調査に答えることができない。病気で返事をするのも遅くなってしまったと。

 

原文を『加須市史 続資料編』より抜き出してみる。

 

「明治20・5藤堂寿子書状」

先般地誌案内之儀通知有之候得共、病気二テ打臥居候故御返答不致処、今回亦ゝ郵書有之候得共当主死去、已来種困難打続キ生活難相立聊目途ヲ相立候得共相違等多ク、其都度八方へ転居致シ家財等モ相失ヒ、当今ニ至テハ家借致居雨露ヲ凌ク迄二テ家譜書類等更二無之、近頃大ニ老衰二及ヒ唯今日之生活ニ差支、天ノミ心配致居心覚等も無之取調候儀不相成候間、左様御承知可被下候、過日之書状二テ回答可致之処病気故延引致不計御手数ヲ相掛御気之毒二存候、此段御返答迄二御座候

明治二十年五月廿八日

藤堂寿子

志多見連合戸長後場御中

 

藤堂平助の実家(私が推定しているだけだが)の5000石の旗本藤堂家は維新後、大いに没落してしまったのだ。そして記録も失ってしまった。それを考えるならば、藤堂平助をこの旗本家の中で家譜や文書という確かな史料で跡付けることは困難なことなのかもしれない。

 

藤堂寿子はこれより5年後、明治25年12月12日に死去している。墓は一族の菩提寺である品川の大龍寺にあるという。

明治20年に亀久雄の娘の寿子は自身の老衰を嘆いている。慶応4年に上常光村に疎開した7歳の「於久」(おひさ)と寿子(ひさこ)は同一人物だと考えるが、まだ老衰を嘆くにあたらない年齢の寿子にこのようなことを言わせるほど藤堂家は落魄を極めてしまったのだ。

藤堂寿子は藤堂平助の妹(異腹の)だったかもしれない人である。平助は美男であったという。

私は寿子もまた可憐な容姿の人であったのではないかと勝手に想像している。