幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

ある旗本奥方の墓

本庄市沼和田の宝輪寺に当地の名主だった卜部家の墓がある。

卜部家は鉢形城北条氏邦の臣卜部平三郎の後裔だという。北条没落後は徳川に仕え小鷹という姓を賜ったというが後にまた卜部に改めたという。そのこととおそらく関係があるのだろう、故ありてこの沼和田の地で農に帰した。
世々、戸右衛門を通称とし、旗本 川窪寛一郎知行所の名主役を勤めた。

大政奉還後、領主の川窪七郎兵衛信直が江戸から奥方と共に来て客寓していた。この殿様は何を思ったのか、村中から資金を集めそれを懐中にして京都に向かったという。徳川家の謝罪嘆願のためなのか、旧幕軍の脱走に加わろうとしたのかその行動の理由はまったく分からないのだか、そのまま生死不明になってしまった。
ひとり残された奥方は卜部家の庇護を受けて暮らした。しかしそれも長くはなく明治2年9月26日、同家で没し卜部家の墓に葬られた。
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「貞堅院晈月妙散大姉」という戒名が貞淑な旗本夫人を想像させる。

この卜部家から出た人で明治、大正期の法曹界の大物でスター弁護士だったのが卜部喜太郎だ。
この人の理路整然とした弁論は、もう一方の雄花井卓蔵と共に、「刑事事件は、卜部か花井か」と並び称されたほどだったという。
喜太郎が担当した名高い事件として「足尾鉱毒事件」、「シーメンス事件」がある。たしか「赤旗事件」では大杉栄の弁護もしていたかも。

田中正造を敬愛し、黒岩涙香幸徳秋水吉野作造などの進歩派の人々との人脈が濃かった人なのだが、本庄事件(関東大震災後の朝鮮人虐殺の中でも埼玉県内最大)の裁判においては、被告側の主任弁護士を務め、朝鮮人を襲った人々に最高でも実刑懲役4年、ほとんどの被告に執行猶予付きの軽い判決をもたらした。
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その卜部喜太郎も宝輪寺に眠っている