幕末 本と写真

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生駒親敬

出羽矢島藩主 生駒親敬の名刺判鶏卵写真。
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この人の写真は単独で写ったものが馴染みがあるかもしれない。「最後の藩主」を特集したようなムック本でよく紹介されている。下膨れの顔がチャーミングな人。
こちらの写真は家臣二人を前に座らせて真ん中に立っている。前の二人は生駒家を官軍方につかせるのに功のあった重臣の小助川太右衛門、松原彦一郎だろうか?親敬の服装は一人写りのものと同じなので同じ日に撮影されたものだろう。内田九一の浅草大代地の写場で撮られたものだ。

生駒家は大名ではなく交代寄合旗本。江戸幕府最後の中川船番所の取締「中川番」を勤めた。
戊辰戦争において新政府軍につき庄内藩と戦った。矢島を襲ったのは庄内藩の中でも新徴組の三小隊だった。義経鵯越よろしく鳥海山を踏破し山頂に野営、7月28日の暁、一気に山を下つて矢島に攻め入つた。時に矢島には藩兵50名ばかりと些かの火砲しかなく、援軍の秋田藩兵も銃砲を持たない槍刀の部隊だったという。それでも必死の応戦を行ったが力及ばなかった。ついに生駒親敬は陣屋に火を放ち退陣、秋田に逃れた。
庄内藩の降伏により戦勝を得ると、その功績を認められ明治元年11月「藩屏に列せられ1万5200石余」に加増され、従五位下讃岐守に任ぜられた。生駒家悲願の大名復帰を果たした。讃岐守の名乗りは、実に250年前の生駒家三代・正俊以来のことであった。
明治2年版籍奉還し矢島藩知事となる。
明治13年9月9日死去。