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安藤惟親『切山椒 九十三年の思い出』

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安藤惟親『切山椒 九十三年の思い出』(萬葉堂出版、昭和58年)

荘内館は本郷元町にあった荘内出身者のための東京の学生寮であった。
安藤惟親は明治43年に荘内中学を卒業すると上京、東京高等工業学校に学んだ。荘内館に寄宿した。
この人はスペンサー銃で装備した奇銃隊を率いて戊辰戦争を戦った庄内藩士安藤定右衛門の孫にあたる。
本書はその安藤惟親の自伝であり、安藤が大正初年に荘内館で出会った人々(そのほとんどは旧庄内藩士の子弟になるであろう)に関する回想を載せる。当時東京に出ていた庄内人たちの動向が分かるものになっている。
この本は幕末の庄内藩についてことさらにフォーカスして書かれたものではないのだが、わずかながら戊辰戦争のエピソードや酒井玄蕃に関することなども書かれていて、なかなかに見捨てられない本になっている。

酒井玄蕃に関するところを一部抜き出してみよう。

【我が朝廷に於ては支那との交渉談判の為め大久保利通自身が支那に赴くことになった。大久保は酒井玄蕃に、是非一緒に行って貰ひたいと懇請したと聞く。玄蕃は当時肺病で歩行も充分でないので、堅くお断りしたが、大久保は頭を低くし、ただあなたに同行して貰へばよい、自分の側に居て貰えばよい、駕に乗って同行して呉れと切実に頼み込んだとのことである。当時一大佐といふ低い地位のしかも影のうすいやうな荘内藩の一武士に過ぎないものを、日本一の大久保がそれ迄にして玄蕃の力を借りたかったのは、矢張秀れた大人物だったからに相違ない。
大久保は矢張天下の大物だったと思ふ、と同時に我が玄蕃さんを敬して止まないところである。
此の話は、 荘内館に於て監督佐藤雄能先生よりきいたものである。】

また戊辰戦争の関してこんなことも書いてある。

【荘内軍が清川の立谷沢川右岸腹巻岩に陣どる官軍と川を隔てて激戦を交して居た。双方死力を尽して戦ったが、遂に官軍は新庄方面に逃去った。その時のことである。
此の話は今から約六十年前東京本郷元町の荘内館に於て監督佐藤雄能さんから四方山の話の中で私が親しくきいたるのである。
松嶺に阿部千万太といふ相当有名な仁が居った。此の千万太氏は長州の桂太郎と友人であった。江戸で修業中親交があったものと想像する。当時官軍の此の方面の大将は桂太郎、後の総理大臣で少佐時代ときく。
後日千方太氏が桂にあった時、腹巻岩の戦の話が出た。千万太氏、桂に向って「君、なぜもう少し頑張らなかったのか、荘内軍はもう手をあげるところであった、君が引いてくれたので荘内軍は助りホットした云々」。 ところが、桂は「君の方こそなぜ追撃しなかったのか、僕はかごで逃げる時今死なうか今死なうかと脇差をだいて居った、ほんとに助かったヨ云々」と答へたといふ話である。
立谷沢川をはさんで激戦のつゞいた時、荘内軍は立谷沢の農民をかり集め、鳴りものを鳴らし上流よりワアワアと大声を上げて官軍をおびやかしたのがうまく図に当り、官軍が敗走したのであった。それで荘内軍は追撃どころか皆ホットしたものとか。】

安藤は学校卒業後は芝浦製作所を経て富士製紙や早川電気、朝鮮水電に勤めて水力発電の建設業務に従事した。昭和10年以降は大日本電力や東北電力で保守や経営業務に従事した。
リタイア後の最晩年に本書をものしている。